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時の彩り(つれづれ、草) 076

2009.08.19 小林康夫

 夏のNota Bene (4)

まず訂正。前回、ベンヤミンの「親和力」論をめぐった記述の最後に「あらゆるカタルシスの彼方の!」と書いた。これはもちろん7月末の森田團さんのワークショップがこのテクストを「カタルシス」の観点から読もうとしたことへの応答だったわけだが、それを書いて2日くらいした夜、自宅の緑のソファに座ってぼんやりしているときに、突然、いや、わたしが書いた、「出来事としての《希望》が、宵の明星のように、ただ震える問いのように、微光を発する」ということこそが、まさに「カタルシス」ではないか!という思考が湧き上がった。

少しもそんなことを考えていたわけではないから不思議だが、まあ、思考とはそういうものだろう。考えていないところで考えている、のがほんとうの「思考」! 書きつけたときのほんのわずかな「ささくれ」のような違和が、時間をおいて、突然、形になる。というわけで、森田さん、前言撤回、クリティークとは「希望のカタルシス」である、と言い直しておきます。
 
 
昨日、京都の近代美術館で講演。池田満寿夫について。60年代~70年代の池田満寿夫の仕事を振り返りながら「才能」とはなにか、という問いをめぐって語ったもの。同時に前々回書いたように、菓子司「老松」が、美術館のホールで行った池田満寿夫の作品にちなんだ菓子の展示にも参加。「聖なる手」というかれがヴァン・デル・ヴァイデンの「婦人の肖像」からその組み合わされた手だけを「剽窃」し「引用」してつくった作品を「剽窃」した菓子を作ってもらいました。これがその展示作品です。

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少なくとも池田満寿夫の場合に、その「才能」が他者からの影響を受けること、にあったことは間違いがない。他者とは過去の巨匠だけではない、女たち、そしてみずからの日常生活そのものからすら、限りなく影響を受ける。その根源的な受動性!……というようなところを少し語ったわけ。

「手」というもっともアクティヴな器官が備えている受動性! 「書く」ということもやはり「手」の仕事。たとえそれがキーを打つことであっても、書くことを通じてはじめて思考が「手」をもつ。後は、頭ではなく、「手」が考えつづけてくれる。だから若い人たちよ、書かないうちは、君は、実はなにも考えていないのだということを忘れないように。断固として書き続けなければならない。

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