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【報告】ワークショップ「大学の名において私たちは何を信じることを許されているのか」

2008.09.25 └哲学と大学, 藤田尚志, 宮崎裕助, 西山雄二

2008年9月19日、公開共同研究「哲学と大学」のワークショップ「大学の名において私たちは何を信じることを許されているのか」が50数名の参加者を得て開催された。(レジュメおよび音声データは本ブログ報告の末尾に掲載)

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まず冒頭に竹内綱史氏(日本学術振興会)による発表「ニーチェ的意味における哲学と大学」が行われた。「学者は決して哲学者になれない」と言い放ったニーチェは、ショーペンハウアー同様、大学嫌いとして有名である。よく知られたストーリーはこうだ。古典文献学で早くから頭角を現したニーチェは、1869年に25歳で教授職を得、28歳で野心的な大作『悲劇の誕生』を発表するが、斯界の大家ヴィラモーヴィッツの徹底的な批判を受けて学界から抹殺され、以後病もあって35歳で大学を退職、在野の思想家として孤独な執筆活動に沈潜する…。ニーチェの個人史を繙けば、彼の「大学嫌い」は容易に理解される。事は一見単純明快に見える。

だが、ニーチェにとって大学とはその程度のものだったのか。大学とは単なる仕事の場、すなわち経済基盤にすぎず、凡庸な学者たちが徒党を組んで俊英を抹殺し自己保身を図る場、つまり知的権力闘争の場にすぎなかったのか。少なくとも二つの点でこのような通俗的理解を修正する必要がある、と竹内氏は言う。第一に、ドイツ帝国成立(1871年)の翌年早々、ニーチェは「われわれの教養施設の将来について」と題して連続講演を行なっていた。当時、伝統的身分でも財産でもなく「教養」をアイデンティティの核とする支配的な社会階層、いわゆる「教養市民層」による教養の我有化は、一方で大学の実利主義化、他方で専門化という名の虚学化(とニーチェの眼に映るもの)を進行させていた。ニーチェの講演は、この状況に対する徹底的な批判であり、大学およびギムナジウムが「そこからその施設が生まれてきた理想的精神へと可能な限り近づく」ことを願って企図されたものであった。「生活の必要のための施設」とは区別された「教養のための施設」は、教養の純化による精神的貴族制の達成を目指すという条件さえ満たせば、若きニーチェにとってむしろその将来に希望を託せるものですらあったのである。

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第二に、『教育者としてのショーペンハウアー』である。「教養施設の将来」の二年後(1874年)に『反時代的考察』の第三篇として刊行されたこの著作は、もはや教養施設の復活を語ろうとはしない。講壇哲学(大学の哲学)への呵責なき批判が大勢を占め、学者は絶対に哲学者にはなれない、それゆえ哲学は大学を離れるべきだという主張が繰り返されるに至る。だが、ニーチェは「大学」は捨て去っても、「教育」を手放してはいない。「教育者としての」ショーペンハウアーが重要なのである。言いかえれば、誠実さを核とするニーチェ哲学の自己反省と批判精神は、決して〈求道〉―生に意味をもたらす真理の追求―だけにとどまらず、〈啓蒙〉―真理を求めることを求めること―を呼び求める。

時間の関係もあり竹内氏が暗示するにとどめたこの第二点は、デリダの言葉によってその真の射程が白日の下に晒されるように思われる。「条件なき大学は、こんにち、大学と呼ばれているものの囲いのなかに必ず位置づけられるわけでも、もっぱらそこに位置づけられるわけでもありません。条件なき大学は、当の無条件性が告げられうる至るところで生じ=場をもち、自らの場を求めるのです」(デリダ)。〈求道〉と〈啓蒙〉が交わる地点において生じる「あの新しい義務」について、ニーチェはまさに次のように述べていた。「あの新しい義務は一人の孤独者の義務ではなく、むしろひとはこれらの義務をもって一つの有力な共同体に属し、そしてこの共同体は外面的な形式と法則によってではないけれども、一つの根本思想によって確かに締めくくられていることである。この思想とは〈文化〉の根本思想である」(『教育者としてのショーペンハウアー』)。ニーチェはある「条件なき大学」を最晩年に至るまで追い求めていたと考えるのは穿ちすぎであろうか?

*なお、竹内氏の関連論文「大学というパラドクス : 《教養施設》に関する若きニーチェの思索をめぐって」がネット上に公表されているので参照されたい。

(以上文責:藤田尚志)

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続いて、西山雄二(UTCP)は、韓国・ソウルの現地取材として「研究空間スユ+ノモ」について報告をおこなった。「スユ+ノモ」は博士号を取得したものの就職先がない「高学歴ワーキングプア」たちが創設した、大衆に開かれた研究教育のための、類まれな自律的な生活共同体である。詳細は2008年8月4日付のUTCPブログを参照されたい。質疑の時間には、「スユ+ノモのような若手研究者の実践は日本でも可能なのか」「こうした共同体が軌道に乗るまではやはりカリスマ的なリーダーが大きな役割を果たしたのではないか」「スユ+ノモと従来の大学との関係はどのようなものか」といった質問が相次いだ。

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(左から、大河内、宮崎、斉藤、藤田、西山)

そして、共同討議では、『現代思想2008年9月号 特集:大学の困難』(青土社)をめぐって議論が交わされた。

大河内泰樹(京都産業大学)は、日本の研究教育制度がモデルとしてのアメリカよりも非合理的で貧弱な現状を取り上げて、グローバル化は概してその先発国よりも後発国においてこそ歪な構造をもたらすと指摘した。また、ドイツ留学中に通った大学の哲学科の図書室のことを引き合いに出して、アーカイヴの充実とそのアクセス可能性の重要さについて力説した。その図書室は年代順に各哲学者の一次・二次文献が並んでおり、部屋で時間を過ごせば網羅的な哲学史を身体的に経験することができるという。

宮崎裕助(新潟大学)は、今回の特集号が、大学の歴史的条件をなす学問探究の自由や無条件性のうちに、アソシエーションのための新たな突破口を見出そうとしている点を高く評価したうえで、「理念なき大学」以後の大学への信として、デリダの『条件なき大学』を取り上げた。ただし、デリダが大学(とりわけ人文学)に認める無条件性は大学の主権を強化するものではなく、むしろ弱さや無力さと深く関係することが強調された。

斉藤渉(大阪大学)は、大学の存在意義たる「教養」が、根本的には、「実利や市場に解消できないもの」といった「~でないもの」という否定的な形でしか説明されえず、積極的な規定をもたないことを指摘した。また、マスメディアが大学の現状を伝えないことで、国民と研究教育現場とが乖離していることが問題だとした。

藤田尚志(学振特別研究員)はまず、大学論を語るときに誰に宛てて語るのか、という宛先の重要性を示唆した。彼は、スロー・サイエンスが活きる大学も市場原理を必要としているというジレンマにおいて、「今ここ」の重要性を主張すると同時に、「反時代的」であらねばならないという両面作戦の必要を説いた。

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その後、今回の『現代思想』誌の執筆者にコメントをいただいた。岡山茂氏(早稲田大学)は、大学が確固たる制度であるのかは自明ではなく、つねに不可能なものに曝されて変容し続けるのが大学ではないかと指摘した。また、新自由主義的な趨勢のなかで大学が淘汰されるなかで、いかにして大衆のための高等教育を残せるのかが重要な課題になるとした。

永田淳氏(早稲田大学生協「大学の夜」主催者)によれば、大学には数々の困難がつきまとうものの、彼のような書店員が公的に発言できるのもまた大学の特性である。フーコーが「啓蒙とは何か」で示したように、問いに的確に答えようとするのではなく、自分の立場でアクチャルな態度を模索することを大切にしたいと語った。

青土社『現代思想』編集部の栗原氏によれば、今号で指摘されている大学の困難はすでに国立大学法人化の頃から予想されていた問題であり、「今さらか……」という徒労感を感じさせるものであった。だが、本誌全体が大学の希望を模索し、希望を語ろうという声調に包まれたことは予想外だった。とりわけ、大学院生のポテンシャルには目を見張るものがあり、院生の存在が今後の大学を左右するものであることが明示された。

大場淳氏(広島大学)は、研究教育をめぐる日本とアメリカの新自由主義の落差について重要な報告をした。アメリカでは1990年代に業績主義や評価主義が研究教育活動に浸透したものの、目に見える成果をあげることができず、その反省から近年では地道な基盤研究を見直し、重視する傾向が生まれているという。周回遅れで業績主義を促進している日本の研究教育の将来にとってきわめて示唆的な事実である。

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最後に西山が二つのコメントを加えた。まず、大学関係者が制度論に関心を寄せることの重要性である。大学の制度論に傾倒する前に自分の専門研究に専心するべきだという向きもあるだろう。だが、大学の環境が激変する現在、関係者はその制度的現状にいくら注意しても注意しすぎることはない。

また、現在、とりわけ高学歴ワーキングプアの研究生活を鑑みるならば、学問の無償性(gratuité)とは何だろうか。どれほどの見返りがあるのか分からぬまま、院生が20-30代の時間と労力を学問探究にこれほど費やすことは、とりもなおさず、学問をめぐる圧倒的な事実であるだろう。フランス語gratuitéの語源はgré(好ましい)であるが、学問の無償性にはある種の肯定的な情動が付随する。しかし同時に、gratuitéは「根拠不明」「気まぐれさ」など、不確定さの危険をも含意する。見返りや収益性といった論理とは異質な学問の無償性は、「信じられないけれども信じる」という約束と危険をともなうのである。過度の競争のなかで院生が卑小なルサンチマンとともに同じ院生といがみ合うことなく、学問の無償性に触れつつ、互いに尊重し合う関係をいかにして保てるのかが、院生の潜在的な共同性を高めるために必要ではないだろうか。

(以上文責:西山雄二)

【各発表のレジュメ】
・竹内綱史⇒レジュメをダウンロード
・西山雄二⇒レジュメをダウンロード
・共同討議⇒レジュメをダウンロード


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【1 西山雄二氏による序】

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【2 竹内綱史氏(日本学術振興会)「ニーチェ的意味における哲学と大学」】

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【3 西山雄二氏による「研究空間スユ+ノモ」についての報告】

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【4 共同討議提題】

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