【報告】ポストヒューマンの時代における人文知にむけて――トム・コーエン「「気候変動」とアーカイヴ――地表性、再記入、記憶の体制」
人間生活をとりまく気候や環境に着目することによって、人々の思考の条件を、地政的特殊性や文化的相対性において問い直そうとする試みは、歴史的にはそれほど珍しい企てというわけではない(たとえばカントの地理学から和辻の風土論にいたるまで)。先月末に来日を果たしたトム・コーエン(Tom Cohen, 1953-)が現在推し進めている研究プロジェクト「人文学における批判的気候変動」をユニークなものにしているのは、現代の世界情勢を否応なく左右しつつある「気候変動」の諸問題――典型的には温暖化等の異常気象や資源の枯渇として取り沙汰される地球環境の問題――を、人文学の(危機の)問いとして、しかも「人間以後の」パースペクティヴから捉え直そうとしているという点にある。つまり、ここでは、「気候変動」をめぐる問題提起が、人文学の新たな批判的思考、いうなればポストヒューマンな人文学(ポストヒューマニティーズ)への通路として見いだされることになるのである。
去る27日にUTCPの招聘により実現したコーエン氏のレクチャーは、そのような企図の構想が日本ではじめて直接本人によって披露された貴重な機会になった[⇒講義の骨子(PDF)]。氏によれば、「気候変動」として問われるべき事象は、近代の人間中心主義的な思考様式の枠内では到底扱うことのできない状況変化を告げ知らせている。「気候変動」の名目のもとに看て取らねばならないのは、グローバルな環境問題の深刻化であるだけでなく、いまだその背景をなしている人間主義的な伝統の限界であり、その終焉である。とりわけ、人間主義が擁護し特権化してきた内面性の価値観、さらには、内と外とを切り分けることで「我が家」を確保しようとする自己セキュリティの世界観は、「9.11」以後露見したように、人間的尺度では予測不可能な暴力によって突き崩されることになる。いまや一国内のセキュリティは、内か外か、敵か味方か、どちらなのかを特定しえないボーダレスな脅威によって恒常的に危機に瀕している。「気候変動」として提起される問題は、現代の諸問題の地平が絶えずグローバルな脅威によって浸透され、地球全体の「惑星的な」広がりをもたずにはいないということを明らかにしているのである。
コーエン氏は、このような「敵を欠いた脅威」としての現代特有の問題を、マサオ・ミヨシやガヤトリ・スピヴァクらの言葉を引きながら、目下、人文学の危機としてせり出してきていることを強調する。とりわけ「気候変動」をめぐる問題提起が重要になものとなるのは、当の問題がたんに人文学の危機をもたらすだけでなく、人文学をポストヒューマンな思考のモデルへと変革するよう促しているひとつの要請、あるいは、そうした変革に不可欠なひとつのチャンスとみなしうるからだ。ならば、新たな人文学の批判的思考は、いったいいかなる意味において、ポストヒューマンな可能性の地平を切り開くのだろうか。
コーエン氏が、デリダとド・マンが遺した脱構築の思考を引き継ぐ特異な継承者として現われてくるのはこの地点においてである。氏は、デリダに由来する「アーカイヴ(archive)」の概念と、ド・マンに由来する「記入(inscription)」の概念をふたつながら換骨奪胎し、20世紀の人文学がすでに開拓していたことになる問題領域へと援用している。これらの概念を通じて浮上する問題領域とは、アーカイヴ化された記憶の領野、すなわち、内面化を旨とする想起としての記憶ではなく、人間の身体や知覚システムに書き込まれた記憶の物質的な体制にほかならない。来たるべき人文学の思考は、この外在的な記憶の体制をこそ、読解されるべきアーカイヴとして探究するのである。
このとき、コーエン氏がとりわけベンヤミン的な伝統を背景にして強調するのは、今日にあっては、メディア・テクノロジーを通じて増幅されたイメージの効果が、私たちの世界の現実を写し出すとともに当の現実そのものを構成しているという根源的な亡霊化の経験である。イメージそのものによる内面化しえない出来事の唐突な侵入を、氏は、2005年のハリケーン・カトリーナが襲ったニューオリンズの水没した家屋のイメージを用いて説明していた。しかしながら、これは、たんに現実に生じた出来事だから重要というわけではなく、まさに「気候変動」による物質的な出来事が、人間の意味理解の外へ超え出る仮借なきイメージの経験――氏はこのイメージの外在化の作用を ex-scription(「外記」や「書き出し」とでも訳せるだろうか)と呼ぶ――として受けとめられるかぎりで、これは、私たちの記憶の下部構造を編成しているアーカイヴへの参照を必須にする、という意味で重要になるのである。
コーエン氏がそこで焦点を合わせるのは、まさに映画というメディア、というより「映画的な記憶」としてのアーカイヴである。そして、とりわけ氏が近年上梓した大部の二巻本(Hitchcock's Cryptonymies 1: Secret Agents and 2: War Machines [University of Minnesota Press, 2005])の分析を背景として引き合いに出される特権的な参照項こそ、ヒッチコックの映画なのである。27日のレクチャーでは、とりわけ『鳥』が分析の対象として選ばれた。いかなる意図も意味づけもなく襲撃してくるあの黒いカラスたちは、イメージそのものが宿す不可視の物質性を指し示すことにより、この作品は、惑星的な「気候変動」の時代における、敵のいない来たるべき戦争の記憶をあらかじめ書き込んでいた ex-scription の場として解読されることになるのである(作品分析は、29日のリピット水田堯氏とのジョイントセミナーでも展開されたので、個々の論点の紹介は、平倉さんの報告[⇒「映画の他なる物質性?」]に委ねておきたい)。
27日のレクチャーでは、コーエン氏の以上のようなプロジェクトの構想が導入され、このパースペクティヴから、ヒッチコックの映画が分析されたのだが、実際に「気候変動」の諸問題に対して人文学がいかなる寄与をもたらすことができるのか、それによって当の諸問題に直面した私たちはどのような見通しを得ることができるのか、といった疑問について具体的な議論にまで及んだとは言いがたい。また、この研究が、ひとつの映画分析としてはあまりに特異なアプローチにみえるがゆえに、既存のフィルム・スタディーズとどのようにわたり合っていけるのかという点についても気になるところではある。
もちろんこれは、まだ始動したばかりの現在進行中のプロジェクトであり、一回の導入的なレクチャーのみから、まとまった結論を期待するわけにはいかないだろう。しかしながら、「気候変動」の問題を前にして、旧来の人間主義的価値観の枠組みに固執することが、解決をもたらすどころかますます私たちを途方に暮れさせ、事態を悪化させているのだとすれば、コーエン氏のプロジェクトは、そうしたヒューマニズムとしての人文学とはっきり袂を分かち、ポストヒューマンな人文知の方向を明確に打ち出しているという点で、まさに「気候変動」による「人間なしの脅威」の時代に見合った批判的思考の可能性を開拓しているのである。今回の来日を通じて、私は、そうした人文学の未来を予感するのに十分な氏の思考の現在に触れることができた。来月はじめには、氏が教鞭を執っているニューヨーク州立大学アルバニー校にて、ベルナール・スティグレールやサミュエル・ウェーバーらを招いて「Xファクターズ:地表性、再記入、記憶の体制――「気候変動」と人文学についてのワークショップ」と題されたコンフェランスが催される予定だと聞いている。氏の今後の動向に刮目して注視し続けたい。
(記=宮崎裕助)