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【報告】 映画の他なる物質性?

2008.02.29 平倉圭, セミナー・講演会

本日夕方、トム・コーエン氏とリピット水田堯氏による合同セミナーが行われた。おとといのトム・コーエン氏によるエキサイティングなプレゼンテーションにつづくものだ。

セミナーは2つの映像、それもほとんど静止した、2つの「家」の映像をめぐって展開した。

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最初にリピット氏が、おとといのコーエン氏の発表をパラフレーズするかたちで、ヒッチコック『鳥』(1963)における「印(mark)としての鳥」の問題を導入する。スクリーンに映し出されるのは、黒いカラスの群れが小学校から退避する子どもたちに襲いかかるあの場面の静止画だ。右遠景に空っぽになった小学校の建物。建物から飛び出してくるかに見える鳥たちが空を覆う。コーエン氏によれば、小学校の建物とは、アーカイヴの、そしてアルファベットの場であり、文字的豊かさが伝達される「家」である。子どもたちは鳥たちによって、そのアーカイヴの家から追放される。

空に舞う黒い「染み」のような鳥は、「刻印(in-scription)」ならぬ、アーカイヴの内から外に向かって撒き散らされた「ex-scription」の染みであり、それが子どもたちの頭にかみつき、目をくりぬき、そうして人間の皮膚を、無数の印が記入される一枚の「紙」へと変えてしまう。ex-scriptionのエージェントは、人間ではない。ex-scriptionは、人間の表面に襲いかかるのだ。

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つづいてリピット氏は、2005年の映画『隠された記憶(Caché)』(ミヒャエル・ハネケ監督)から冒頭部分を映し出す。パリ郊外、蔦に覆われた近代的な「家」のファサードを映し出すフィクス・ショットが3分近くつづく。何かを問いかける男女の声。カットが変わり、家から飛び出してくる男と、それを止める女。もう一度冒頭のフィクス・ショットに戻る。しばらくして、不意に映像が「早送り」される! 画面に走るマグネティック・ストライプ。

映画のエスタブリッシング・ショットと思われたものは、じつは誰かがどこからか監視的に撮影したビデオであり、「早送り」によってとつぜんそのことが判明する。冒頭に聞かれた男女の声は、自分たちの家に送りつけられてきたこの監視ビデオを見ながら発せられたものだ。「深さ」と安逸の場所としての家はそこで、見えない何か、もしかしたら人間ではないような何かによって監視された、不穏な「表面」へと還元されている。住人は、内部にいながら内部から放逐されて、クエスチョンそのものと化した自宅のファサードをビデオで眺めている。

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コーエン氏が議論を引き継ぎ、ほとんどそれ自体ダリ‐ヒッチコック的と言いたくなるようなパラノイド・クリティカル・メソッド(?)を展開する。この『隠された記憶』の冒頭に映っているのはまったく完全にヒッチコックだ。この家の窓の形は、『白い恐怖』(1945)でグレゴリー・ペックが取り憑かれていたものだ……。そんな強引な連想の果てに見出されるのは、『隠された記憶』の冒頭に映し出される、非常に幾何学的で、抽象化された家々の姿が、ヒッチコックの『鳥』において、小学生たちを襲う前に黒いカラスの群れが集まっていた「ジャングル・ジム」の姿と類似しているということである。

ヒッチコックにおいても『隠された記憶』においても、家は「他なるもの」に――それも非‐人間的な「他なるもの」に――貫かれて人間を内部から放逐する。あとに残るのは、空っぽで幾何学的な、ジャングル・ジム的構造体だけだ。『隠された記憶』の冒頭の「早送り」は、とつぜん画面に走る水平のストライプによって、映画の内部に入り込もうとする観客をはじき返し、同時にそこに映し出されたジャングル・ジムとしての家のファサードを、スクリーンの表面へと突き飛ばす。いわばファサードのファサード。映画の他なる物質性は、この2乗されたファサードの薄さとともにある、ということか。

(報告 平倉圭)

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