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【報告】富山・氷見出張その1――イタイイタイ病資料館、清流会館見学

2023.08.29 宮田晃碩

 2023年7月21日(金)、桑山裕喜子さん(UTCP特任研究員)と本報告執筆者の宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座特任研究員)は富山市内のイタイイタイ病資料館と清流会館を見学した。前者は2012年に開館した県立の資料館であり、後者は1976年に竣工した、神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会およびイタイイタイ病対策協議会によって運営される資料館(ないし運動拠点)である。つまり行政の資料館と、当事者たちによる資料館ということになる。ふたつの資料館は富山駅から路線バスで南へ40分ほど、地形で言えば富山平野のやや南寄り、神通川を挟んで両側にあり、いずれもカドミウム汚染の深刻だった地域に位置している。あたりは穂を出しかけた水田が青々と広がり、道沿いの用水は勢いよく夏の日ざしを跳ね返していた。

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 イタイイタイ病は1968年5月に国が初めて認定した公害病である(それに同年9月の水俣病、新潟水俣病の公害認定が続く)。患者たちが三井金属工業を相手に起こした訴訟は1971年に1審で住民側の勝訴、これも公害関係裁判では全国初とされる。1972年には2審で住民側が全面勝訴し、その後の直接交渉で被害者への賠償、土壌の復元、公害防止の三点に関して誓約・協定を交わしている。大正時代頃から患者が多く発生していたというから、この点でもイタイイタイ病はいわゆる四大公害病のなかで最も「先を行く」ものであった。

 イタイイタイ病資料館には地元の小学生たちが見学に来ており、私たちはその一団に交じって職員の方の説明を聞いた。館内には患者とその家族の暮らしぶりを再現したジオラマがあったり映像・音声がいくつもあったりと、被害の様子や患者たちの闘いが直感的に分かるように、また土壌復元と公害防止の取組みが一目で分かるように工夫が凝らされている(ちなみに館内の様子は富山県の公式ウェブサイトから「バーチャル展示室」にアクセスすれば見られるようになっている)。

 イタイイタイ病の症状は苛烈である。カドミウムによって腎機能に障害が起こり、リンやカルシウムの再吸収が阻害され、骨軟化症を引き起こす。重症になると数十か所も骨折し、脈を取ろうとしただけで骨が折れてしまうという。全身の痛みに「イタイ、イタイ」と叫び声をあげるところから「イタイイタイ病」という名がついた。患者には圧倒的に女性が多く、これまで認定された201名(2023年7月現在)のうち男性はわずか5名であるという。

 水俣において人間が水俣病を発症するより前に漁業被害が発生していたのと同様、神通川流域では明治期から農業被害が報告されていた。上流の神岡鉱山から流された鉱毒は特に水田を汚染したのである。そして水俣において魚を食べた人々が水俣病を発症したように、カドミウムは米や野菜、生活用水を通じて人々の体を蝕んだ。江戸時代から開削されてきた用水を人々は家のそばに引き、炊事や洗濯にも、飲み水にも使って暮らしていた。それが明治時代の終わり頃から牛乳のように白く濁るようになり、人々はそんな水をしばらく沈殿させてから使ったりしていたのである。しかしイタイイタイ病の原因が分かるのはずいぶん後であった。カドミウム説が発表されたのは1961年、鉱毒が原因だとする説が発表されたのでさえ1957年であった。それ以前には「奇病」「業病」などと言われ、患者とその家族は地域社会から差別を受けてきた。特に女性が多く発症することから、あの家は嫁を起き上がれなくなるまで働かせたのだといった陰口も聞かれるようになり、家族はそれを忍びながら、起き上がれなくなった母親を看病し、その分の家事をしていたのである。

 患者たちが直接交渉によって勝ち取った「公害防止協定」は特別な内容を含んでいる。それは、住民が専門家とともに神岡鉱山に立ち入って調査をするというものである。神岡鉱山では現在鉱石の採掘は行われていないが、輸入した鉱石や自動車の廃バッテリーから金属の製錬を行っているほか、鉱滓の堆積場も管理している。そうした工程・設備の安全性や処理した排水の水質の検証が、今日に至るまで50年以上にわたって続けられてきた。こうした取り組みは他に類を見ないという。またカドミウムに汚染された農地は、2012年まで33年間かけて復元工事が行なわれてきた。これは「土壌汚染問題に関する誓約書」に基づく事業である。この経過は放射能に汚染された土地の除染をも彷彿とさせるが、安心して農業のできる土地を回復するまでにどれほどの年月がかかるかを語ってあまりある。

 資料館で私がはっとしたのは、神岡鉱山の出鉱量の推移を示すグラフを見たときであった。最も高いピークは1970年代なかばにある。しかしそれ以前に目を移したとき飛び込んでくるのは、日露戦争、第一次世界大戦、そして太平洋戦争時の突出である。公害の背景には戦争がある。そしてその本質は例えば形を変えた「総動員」体制として、経済成長期に再び花を咲かせたりする。実のところ、神岡鉱山の鉱毒に対しては太平洋戦争の始まる前に国が対応しようとしていたところ、戦争が始まったことでうやむやになったという経緯もあるらしい。この話は清流会館で聞いたものであった。

 イタイイタイ病資料館から清流会館へは公共交通機関が無く、歩けば45分はかかるという。私たちはタクシーを呼んで移動した。到着した私たちをイタイイタイ病対策協議会の会長である小松雅子さんが迎えてくださり、館内を案内してくださった。あらためてご厚意に感謝したい。

 清流会館は玄関をくぐってすぐのところにカドミウムによって汚染された地域を示す地図があり、展示室に入ると壁面と中央にパネルでの展示がある。まず伺ったのは患者数のことであった。県の認定制度によって患者と認められたのは前述の通り201人である。しかし認定制度が始まる前にイタイイタイ病で亡くなった方は1,000名を超えるとも言われ、またカドミウムによる健康被害を疑われながら認定基準を満たさない人も含めればその数はさらに膨らむという。イタイイタイ病の認定基準には「骨粗しょう症を伴う骨軟化症の所見」が含まれているが、そこに至らずとも腎機能に障害を負った人はいる。こうしたことは県の資料館ではあまり語られない。

 小松さんは御祖母様と御曾祖母様をイタイイタイ病で亡くされ、語り部としての活動をされている。御父様はイタイイタイ病対策協議会の初代会長として患者たちに声をかけてまわり、三井金属との訴訟や患者救済の先頭に立って活動されてきた小松義久さんである。実は県の資料館も、小松義久さんが長年にわたり訴えた結果建てられたものであった。小松雅子さんの言葉は様々な意味での当事者性を引き受けて語られる言葉であり、私たちは長い受苦と闘いの年月の、ほんのとば口に立って、その奥を見通そうとしているのであった。

 「イタイイタイ病」という名はこの病の苦しみを直截に伝えている。もちろん比較できるものではないが、水俣病が神経を侵すのに対してイタイイタイ病は神経の機能を損なわない。それだけに痛みが間断なく患者を苛む。「生きていることが苦しい」のだと、小松さんは御祖母様の姿を思い起こしながら語られた。

 公害防止に関しても、現在に至る取り組みを鳥瞰すればそれは苦難を乗り越え協力関係を結んだ美談のように聞こえるかもしれない。しかし今日までに経過した時間は決して一本の道として辿れるようなものでなかった。第一次訴訟の判決後も工場の内部は変わっておらず、会社側の「謝罪」を受け入れることなどできない状況であったし、1980年代にはあろうことかイタイイタイ病の事実そのものを否定するような「巻き返し」の「議論」が生じたりもした。その「議論」の拡散には三井金属の人間が関わってもいたのである。第一線で患者の診察と原因究明に取り組みカドミウム原因説を発表した萩野昇医師が認定審査会の審査委員から外され、認定に消極的な学者たちが任命されたりもした。土壌復元のための負担は当初三井金属が100%持つことになっていたが、結果としては39.39%の負担に留まり、残りの大部分を国や県が負担している。

 住民と三井金属の関係は「緊張感ある信頼関係」と呼ばれている。2013年には、県の認定制度では患者と認定されないカドミウム腎症の患者たちに対して三井金属から一時金が支払われ、「全面解決」の調印式がなされた。拒み続けた「謝罪」を、被害者団体は受け入れた。しかし、去年イタイイタイ病対策協議会の会長を引き継いだ小松さんは、「緊張感ある信頼関係」という言葉を受け止めきれなかったという。到底そのような言葉で、この「関係」は、この年月は言い表せるものではない。それでも三井金属・神岡鉱山の人たちが機密事項も含めて住民に情報開示しているのを見ると、「そういうことかもしれない」と、小松さんは思う。重層的とはいえ紛うことなく加害・被害関係であるこの関係を、会社の人々も住民たちも、受け止め直そうとしつづけている――その危うい協働関係は、辛うじて「信頼関係」と呼べなくもない。小松さんのためらいと覚悟のようなものを、私はそのように解した。

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 去年には私たちUTCPのメンバーは、水俣を訪問して相思社の永野三智さんのお話を伺った。それと前後して私は水俣病に関する事柄を勉強し、それなりに知ったつもりになっていた。とりわけ石牟礼道子『苦海浄土』はただ水俣病に関する事実を伝えるだけでなく、私たちが生きる社会をまるごと問い直す視点を提示するものであった。その意味で私は、公害が訴えかけるものをよく知ったつもりでいた。しかし今回二つの資料館を訪れて見聞きしたことは、もちろん水俣病と重なるところも、歴史として実際に繫がっているところも大いにあるけれども、また別のものを含んでいたと思う。妙な想像のようだが、ここで『苦海浄土』を書いたとしたらいったい人間は、社会は、自然はどのように描かれるのだろうかと思わずにいられない。公害の歴史は「乗り越えられた」ものとして語られがちだが、未だ終わってなどいない、終わることがあるのかも分からないその歴史を引きずりながら前を向いて生きる――それはどういうことなのかと考えさせられる訪問であった。
(報告:宮田晃碩)

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