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梶谷真司 邂逅の記録126 奇跡が自然に起こる場所――名古屋駅前の着ぐるみ街頭活動に1年以上通って(1)

2022.12.06 梶谷真司

 「支援は尊厳を奪う」――全国こども福祉センター代表の荒井和樹さんの言葉だ。支援はいいことだと思って奮闘している人には、ショッキングな言葉だろう。しかし、これこそがこの団体の活動を理解するのに、もっとも重要な点だと思われるので、ここから話を始めたい。

〇“支援”に潜む問題
 誰かを“支援する”というのは、どこか上から目線だ――「君たちは困っているようだから、私たちが助けてあげよう。」
 支援する側は、「あなたのため」と言いながら、結局は制度や組織のため、自分たちの都合に合うようにしたがる。困っている人は連絡してください、こちらに来てください、申請をしてください、という“お願い”を装った指示を出す。
 そして続けて聞く。どんな問題を抱えていますか――いじめ?不登校?虐待?性被害?援助交際?自殺願望?貧困?・・・それに答えた瞬間に、その子はいじめられている子、不登校の子、虐待にあっている子、性被害に遭っている子、援助交際をしている子、自殺したがっている子といったふうに分類される。同情され、アドバイスをされ、それどころかしばしば注意され、説教され、叱責される。「君のためだ。君のためを思ってのことだ」という態度で、時に優しく、時に厳しく。
こうした支援をありがたく受け入れる子は“良い子”、それを拒んだり、避けたり、それ以前につながりもしない子は、問題児、ケシカラン奴、困った子となる。自己責任だと言われ、見放される。「私たちがこんなに親身になって助けてあげようとしているのに」。いやいや、本当はみんな助けてほしいはずだ。ただ情報が伝わっていないだけ、相談先が分からないだけ。素直になれないだけ。だからもっと発信して理解してもらわないと、支援が届かない!と考える。
 しかし「いじめられている子」「不登校の子」「虐待されている子」「性被害にあっている子」「自殺したがっている子」という人が存在しているわけではない。一人の人間があるところでいじめられた、ある学校で授業に行けなくなった、親から虐待された、ある人から性被害にあった、ある時自殺したくなった“だけ”である。いじめも不登校も虐待も性被害も自殺願望もその子の一部であって、すべてではない。一人の人間をそのような分かりやすいカテゴリーに分類し、それに応じて対処する時、支援は容易に管理となり支配となる。それは“一人の人間”としての存在の否定である。だから尊厳を奪うことになるのだ。
 いや、尊厳を認めているから、その子を救い出そうとしているのだ、と反論するかもしれない。だが、このような支援の問題は、子どもの立場から見れば、すぐに分かる。子どもが支援を拒んだり避けたりするのは、そこに何か嫌なところがあるからだ。つながらないのは、つながりたくない何かがあるからだ。関わる前から嫌な感じがするか、関わったことがあって嫌な思いをしたことがあるからだ。
 そもそも自分が問題のある、助けが必要な、かわいそうな人間だとは思われたくない。まして子どもの場合、たいていは家庭の問題でもある。すると、親や家族に気をつかって言えない。恥をさらすことにもなりかねない。日本みたいに「恥」の文化の社会、「迷惑をかけない」ように子どもの時から育て、大人になっても事あるごとに「迷惑だ」「迷惑をかけるな」と言い合う社会ではなおさらだろう。
 支援されたくないどころが、支援が必要だと見られるのも、自分がそういう人だと認めるのも嫌なのだ。子どもに限らず、そう思う人は少なくない。相手が嫌がることをするのは、支援だろうが何だろうが、“嫌がらせ”である。セクハラやパワハラだと、された側の気持ちに寄り添うのは当たり前のように言われるが、支援となった途端に、支援する側の気持ちを前面に出す。
たしかに緊急の支援・救済が必要な人を半ば強引にでも介入するのは、時に必要である。ではそこまで事態が深刻ではない(と少なくとも本人が思っている)人はどうすればいいのか。彼らがすでにいるところに出向くか、彼らが来やすい場を作るしかない。だがどうやって? 荒井さんの言う「アウトリーチ」がその方法である。

〇荒井さんとの出会い・初めての参加
 荒井さんと初めてお会いしたのは、2021年9月20日に行った「障壁を越えて、出会いにかける」というイベントに、救急医療看護師の野口綾子さんと一緒にお越しいただいた時である。そのさい彼の著作『子ども・若者が創るアウトリーチ 支援を前提としない新しい子ども家庭福祉』(アイエス・エヌ株式会社・2019年)を読み、当日話を聞き、上に書いたようなことはおおよそ理解した。哲学対話を通して考えていたことととても近く、しかもそれ以上の何かがある予感がして、イベント後にすぐ「今週末行っていいですか?」と聞き、9月26日に街頭活動に参加することになった。

 まず印象的だったのが19歳のMさん。高校2年生の頃から来ているらしい。当日、荒井さんから教えてもらった住所にある事務所へ行くと、彼女を含む数名のメンバーがいた。時間になると駅に向かうので、下っ端の私も荷物をもち、ついていく。
 現地に着くと、Mさんは黙々と準備をして、私に好きな着ぐるみを選んで着るよう促す。名簿を差し出し、名前を書くように言う。初めて来た得体のしれないおっさんに、愛想笑いもせずに淡々と指示を出す。それにしても、着ぐるみを着てはみても、いかにも板についておらず、浮いている私。対して彼女の着ぐるみ姿の何と凛々しいことか・・・などと思いつつ、見よう見まねで街頭活動を始める。
 するとそこに一人のホームレスらしき男性が近づいてきた。と思ったら、メンバーの一人の女子高生が「あー、久しぶりー!」と言って、その男性とハグし合っている。信じがたい光景に頭が一瞬真っ白になる。何が起きているのかまったく分からない。
聞けば、その男性は、いつも来て一緒にいるらしいが、それにしても女子高生とホームレスという、普通ならまったく相いれない者どうしがごく自然に一緒にいて、ハグまでしている。いったいここで何が起きているのか?
 やがて街頭募金が始まる。この団体の募金は、どこかの誰か(戦争や災害で難民になった人、アフリカの飢餓に苦しむ人、殺処分されそうな犬や猫)のためではなく、自分たちの活動に募金を呼びかける。だから、援助したい先にちゃんと届かないのではないかと疑う余地がない。ただ、そのことはあまり募金の集まり具合と関係ないようで、趣旨も分からず募金する人も多い。若い人が着ぐるみ来て頑張っているみたいだからしてくれるのか。
 それよりも意外だったのが、募金する人である。普通の人(何か用事があって、通り過ぎていく人)はあまり募金をしない。するのはむしろ生活に困っていそうな人(おもに男性)それも10円とか100円ではなく、1000円札を入れていく。これも驚きだった。
 本で読んだイメージしていたアウトリーチっぽかったのは、女子高生が募金をきっかけにしてメンバーと話をしていったことくらいだろうか。とにかく予想外のことが起きて、一回体験しただけでは理解ができなかった。それで翌月も来た。するとまた面白いこと、訳が分からないことが起きる。それでまた翌月も来る。そんな調子で1年以上、毎月このためだけに名古屋に通っている(ついでがあったらなおさら)。
 これは自分にとってはまったく例外的なことだ。そもそも私は、基本的に他人のやっていることにあまり興味がない。自分がどこかに行くのは、依頼があったり仕事があったりで、言わば受動的であって、自ら能動的に行くことは通常ない。でもこの活動には、100%自分から行っている。そもそも何も頼まれていないし、私が行かなくても誰も困らない。私が行って何かやるべき役割があるわけでもない。ただ、行きたいから行く。行きたい理由は、分からないこと、知りたいことが尽きないからだ。

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