【報告】他者の問いにふれること――高千穂・五ヶ瀬出張報告(後半)
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3. 高千穂町、五ヶ瀬町のフィールドトリップ
今回の訪問では学校でのワークに関わるだけでなく、フィールドをご案内いただき見学させていただいた。空港から高千穂町へ行く道中には阿蘇外輪山の大観峰を、25日の午前中には天岩戸神社を見、またその日の夕方には今回私たちをご案内してくださった役場の田﨑友教さんのご実家にお連れいただいた。田﨑さんのお宅は、畑作と牛の繁殖をされている農家である。私たちは、前日に生まれたという仔牛を見せていただき、また牛たちに干草をやるところを見せていただいた。高千穂郷・椎葉山地域は山間地の限られた耕地を巧みに利用する伝統的な農業によって、世界農業遺産に指定されている。その特徴は、大規模に一つの作物を作るのではなく、むしろ様々な生産のシステムが文字通り有機的に組み合わさっているところにある。田﨑さんのところでも複数の作物を生産しており、ここで牛にやっている干草も、田畑のあいだの斜面に生える草を刈って乾かしたものである。実は昼の自動運転についてのワークショップで、田﨑さんのお父様のお話を聞いていたのだが、あれはこういう生活のことだったかと、にわかに実感を伴って理解することができた。
五ヶ瀬町では、五ヶ瀬中の鈴木圭介先生にご案内いただき、町内の「三ケ所」と呼ばれる地域を訪れた。ここには「荒踊」と呼ばれる独特の祭事がある。そのお話を「荒踊の館」で保存会会長の長田豊明さんに伺い、また荒踊が奉納される三ケ所神社で、宮司の原賢一郎さんにお話を伺った。五ヶ瀬中等教育学校では地域でのフィールドワークにも力を入れており、なんと生徒全員が草鞋を作れるらしいのだが、私たちが今回訪れたこれらの場所も、フィールドワークの現場になっている。荒踊のお話は聞くほどに面白い。年に一度、坂本地区の各集落から集まって行うのだが、その集落ごとに「先払」「鷹匠」「弓」など計23の役割が決まっており、これが代々受け継がれている。その役割が勢揃いして、盆踊りのようにぐるぐると円を描いて踊るのである。動きの穏やかな役もあれば、休みなく跳びはねて太鼓を叩くような激しい役もある。また戦国時代の発祥と伝えられるだけあって「鉄砲」という役もあり、これは文字通り火縄銃を撃つのである。ただ、全国的な現象であろうが人手が減って規模は縮小し、特にここ3年は感染症の拡大状況を見て中止の決定をしている。逆境ではあるが、地区の小学校では継承教室を開くなど、存続のために力を尽くしているという。三ケ所神社も独特で興味深い。種々の意匠が凝らされた本殿を、宮司の原さんが熱弁をふるって解説してくださった。こうした豊かな文化資源に触れつつ学ぶならば、それは地に足がついた、それでいて創造的な思考の機会になるだろうと思う。校内にはGIS(地理情報システム)を使った探求学習のポスターも掲示されていたのだが、それも非常に興味をそそるものだった。
4. 「考える」ことはどのように触発され、鍛えられるのか――私自身の考えること
今回の訪問を通じて私は、「考えること」がどのように触発され、鍛えられるのかということをいくつかの点で(それこそ)考えさせられた。それを学校でのワーク、フィールドトリップ、自分の研究との関連という三つの点からまとめておきたい。
順序は前後するがまず五ヶ瀬中での「問いのワーク」は、与えられたものに対して距離を取り、自分の考えを持てるようになるための、いわば「筋トレ」のようなものだと思われた。また「書き方講座」には、自分の考えを他者とのやりとりのなかに位置付けられた仕方で形にする、という意義があるだろう。私たちはなにか書こうとするとつい、自らのうちに湧き上がるものを(空しく)探ったり、その宛先不明の思いに無理やり体裁をつけようとしたりしがちである。しかし文章が固より人に伝えるべきものであり、そこに自分の考えも表現されるべきならば、文章執筆の過程を初めから対話の中に位置付ければよいのである。もちろん、息の長い(つまり他者の問いに即答しないような)思考が必要になることもあるだろうが、それとて最終的には人に伝わらなければ意味がない(人に伝えることは、人を変えることもあるだろう)。ともかく、こうしたワークに実際に関わって私が感じたのは次のようなことである。一人ではなかなか手が動かない生徒も、簡単な問いを別の生徒から投げかけられれば、ひとまずそれに答えることができる。その答えにまた問いが投げかけられるならば、さらに立ち入った答えが出てくる。これを繰り返せば、誰でも自分の考えを表現できるのである。それはしかも瞬発的な答えだからこそ、当人の個性が輝き出ていたりする。対話の中で思考することのこうした可能性と同時に、私が実感したのは、そのために「問い」の能力がいかに重要か、ということであった。翻って、自動運転についてのワークショップを顧みるならば、そこでもやはり問いのやり取りが重要であったのだと気づかされる。単に普段考えていることを知るのが目的なら、アンケートを取りさえすれば済むだろう。そうではなく、対話の中で互いに問い、そこであらためて考えてみるというところに、このワークショップの意義はあったと思えるのである。
次にフィールドトリップに関してだが、これまで私自身は、修士課程に入って以来IHS(多文化共生統合人間学プログラム)の研修でいわゆる地方を度々訪れていた。それをきっかけに、地元のNPOの方と高校生とともにイベントを企画する、という機会に与ることもあった。そうした訪問の中で私が特に面白いと思ってきたのは、そこに自分の知らない世界が広がっているということである。そして、地域に固有の課題や資源があるからこそ、創意工夫や遊び心を持って活動している人たちがいるということである。それは例えば経済効果といった指標で測るならば、「地方」という呼び方が期待させるほどの規模でしかないかもしれないが、しかし都市的でシステマティックな分業・管理に服さない分、その活動はなにか世界全体を相手にするような広がりを持っているように見えるのである。そうした活動に自分がどれほど、どのように関わってゆけるかは正直なところ未だ見通しがあるわけではない。しかし自分自身がそこに招じ入れられて身を置いてみると、そこに立つことで初めて思考できるようなことばかりで、私としては「一緒に考え続けたい」というのが願いである。
こうしたことは表向き、自分の専門の研究とは関わりがない。私は基本的に哲学者の書いたものを一次文献として、「言葉を持つとはどういうことか」といった哲学的な問いに取り組んできた。しかしおそらく、専門の研究があればこそ見えるもの、気づくものもあると思う。哲学の研究では、ひと目見ただけでは読み取りづらい議論の筋道や前提、全体像の把握に努める。それはひょっとすると、様々な場所や人の表現から、それが置かれている文脈・世界観を理解することに役立ち、またその理解の過程そのものを楽しむことに繫がっているかもしれない。また実のところ私の場合、研究を通じて現場を見るというより、現場での見聞から研究の仕方が影響を受けるという側面が大きい。今のところ、直接どこかを研究のフィールドにするには至っていないが、哲学研究で触れていた問いが、フィールドに出て話を聞くうちに息を吹き込まれる、とでも言えばよいだろうか。例えば「存在するとはどういうことか」という極めて抽象的な、ハイデガー自身が「この問いの意味をまず理解せねばならない」と言って主著『存在と時間』をまるまる一冊費やしたような問いが、地域おこしの文脈での「この地域には何があるか」といった問いと結びつく。後者は素朴な問いだが、これを真剣に考えようと思えば「そもそも「ある」とはどういうことか」という問いに直面せざるを得まい。これは「存在」への問いに通ずるものである。このようにして、摑みどころのないように見えた問いが、一挙に切実かつ清新な問いとして浮かび上がってくることがある。こういう体験を経て、私としては、なんらか現場の切実な問いに触れることが、哲学の問いの意味を理解するにあたっても重要であると思うのである。
こうして今回の訪問と自分自身の関心とを振り返ってみると、私はとにかく「考える」という営みに心惹かれているのだということ、そしてそこには他者との出会い、特に他者の問いに触れることが必ずあるのだということに気づかされる。これは個人的な性向でもあろうが、しかし普遍的な示唆も含んでいるのではないかと思う。他者の問いに触れ、それを真剣に受け止めること。それが、なにかを考えるための必須の条件であり、また考えることを楽しむための最良の手立てなのではないか。
この報告も、幾分かは考えて書いている。私が答えようとしているのはおそらく、「お前はこの訪問で何者として、どんなことを思ったのか」という問いである。別に誰かが実際に私にそう問うたわけではない。強いて言えばこの報告を読み始めてくれた人や、今回の訪問にあたって私たちを迎え入れ、案内してくださった方々の問いであると思う。その出会いが私に、思考を触発している。
大変楽しく、充実した訪問であった。あらためて今回お世話になった皆様に、深く感謝申し上げたい。