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【報告】〈哲学×デザイン〉プロジェクト28「わたしのことば≠みんなことば」

2021.11.22 梶谷真司, 中里晋三

8月28日に〈哲学×デザイン〉プロジェクト28「わたしのことば≠みんなことば」をオンラインで実施した。「わたしのことば」とは、言語に限らず、広い意味で自身を等身大で表現するための「ことば」であり、「みんなのことば」とは、ある集団においてコミュニケーションのスタンダードとされる「ことば」である。こう定義するなら、「みんなのことば」は必ずしも「わたしのことば」とならない。そして、それらの差異が際立ち、「わたしのことば」が求められるときほど、それを手にするのは難しく、結果として自分の声は「みんなのことば」に埋もれてしまう。今回お呼びしたゲスト、金春喜さん(焼肉屋そだちのジャーナリスト)とEri Liaoさん(「卡拉OK」そだちの歌手)はいずれも、日本および日本以外の国とつながって育ち、複数の言語や文化のはざまで生き、またそこで生きることについて考えてきた。二人との対話を通じ、わたしたちが自己に固有の「ことば」と出会い、自己を表現することの難しさ、そしてその可能性を考えていきたい。

金春喜さん
 現在は新聞記者をしているが、大学院生のとき、公立中学校の日本語教室でフィリピンから来日した兄弟と出会った。その子たちが「発達障害」とされ、周囲によって特別支援教育に向かわされる過程に覚えた違和感から、近著『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』(明石書店)につながる研究を始めた。
 その子たちの母はエンターテイナーとしてフィリピンから来日後、日本人と結婚したため、二人は日本国籍。だがフィリピンでの暮らしが長く、来日して間もないために日本語に困難を抱えていた。そして学校の教員にインタビューを重ねていくと、「日本語ができない」という外国人としての困難が、障害児としての困難に置き換えられていった様子が見えてきた。二人が特別支援教育の対象になったのは、誰の目にも発達障害が明らかだったからではない。「ただでさえ経済的に困窮している世帯で、将来の職業選択を考えるなら特別支援学校に進む方が二人のためだ」と考える教員たちの思いが重なるなかで「発達障害」という診断がそこに必要とされたのだ。他方、二人の母は、子どもたちのことを考えて動いてくれる教員に感謝しつつも、子が発達障害とされる違和感をぬぐえず、しかし言葉の壁、立場の壁が重なってその思いが伝えられないで苦しんでいた。本来であれば外国人としての困難へのサポートを手厚くすべきなのに「発達障害」というあいまいな概念があいだに入り、しかも善意の人たちが進んでそこにガイドすることで、大本にある問題が隠れてしまっていた。
 けれど研究当時は、こうした問題に着目する本や論文もほとんどなく、語ることばがないなかで、周囲の不理解に幾度となく直面したし、今でもそれは変わらない。「外国人差別の問題なんて、誰も聞きたいと思わない」という声をたびたび聞いた。そのような状況で、もし教員たちが立ち止まって考えたいと願ったとしても、きっとそれはかなわなかっただろう。私がジャーナリストになったのは、問題を見ているわたし自身が「わたしのことば」を語ることで、それをやがては「みんなのことば」の一部にしていくためだ。
 私は韓国人の両親を持つ在日コリアンだが、父母の離婚後、祖母、母が経済的に苦労する様子を見てきた。外国人であることをさほど意識せずに大きくなれた私と違って、祖母も母も自分ではどうしようもない理由によって差別を受け続けてきた。その結果、二人に私と相いれない価値観が認められたとしても、その背景を無視して一方的に批判することはできない。わたし自身も生活が苦しくなる過程で摂食障害を患ったが、周囲の大人たちは体重の話題に終始して、その背景にある問題について思いを巡らそうとはできかった。「わたしのことば」に耳を傾ける努力を私たちはやめてはいけないと思う。

Eri Liaoさん
 今回のテーマについて、自分がこれまでじたばたしてきたことを、「わたしのことば」とは何か分からなくなっていく部分も含め、話してみたい。
 日本人の父と台湾の原住民族の母をもち、幼少期は母方の祖父母たち家族と台湾で育った。日本国籍なので日本名もあるが、いま歌手としてEri Liaoという生まれてきたときの名前で歌っている。父はかつて台湾を植民地支配していた日本人で、母はその父よりずっと若い被植民地の、しかも原住民族出身の女性だった。自分のルーツを考えたときに父や父の背後にある日本に対して私がどうしても抱いてしまう攻撃性は、日本で日本人として生きる自分にも向かっていく。今思えば、私だけが台湾以外とつながった子どもだったが、家族をつながりを大切にする台湾で幼少期を過ごした私の中心には母方の家族がいる。
 祖父母たちは日本語で教育を受け、日本語とともに青春を送った世代で、日本人とのあいだに生まれた私に、日本語で話すばかりか、着物を着せたりして可愛がってくれた。異例に高等教育を受けて保健師になった祖母とは対照的に、母は中国国民党統治下の台湾で育ち、小学校も十分に行かず、その後覚えた中国語もブロークンだった。こうした祖母と母の来歴の差は、私とのコミュニケーションにおいて決定的な違いを生んだ。多少古風でも十分な教育で日本語を身に付けていた祖母とのやり取りには安心感があった。一方、日常会話ではネイティブレベルの日本語を話せていた母とのコミュニケーションは、私が成長して日本語で自分の思いを表現していくにつれて難しくなった。20代に台湾滞在を挟み、大学院で台湾原住民の研究を始め、自分や家族のことをより考えるようになったころ、一度、自分の思いを可能なかぎり丁寧に母に伝えようとしたことがあった。そのとき、母から「ママね、エリが言っていること、一個も分からない」と言われた挫折感をすごく覚えている。
 「そんな自分に何ができるのか?」を問うなかで、好きな音楽をやってみようと思い、研究を辞めてアメリカに行った。歌の勉強をしているときに「歌手は言葉を表現する」と言われたが、自分は好きな歌であっても、その歌詞をまったく意識しないタイプだった。叔母が台湾でやっていたカラオケスナック(台湾では「卡拉OK」)で、台湾の女性たちが歌詞を間違えながら歌っていた日本語の歌、その心地よさが私の原点ではないか。と同時に、なぜ「愛」を表すとき「ラ・ヴ」と発音するのか、その音の連なりにはそれ自体、何らかの必然性があるはずだった。意味が分からなくても、音を介して、過去にたくさんの人たちがその音で表現しようとした思いにつながれると感じたとき、かつて意味を伝えようともがいた苦しさが軽くなった。歌は、作者に限らず、その歌を好むすべての人にとって「自分の歌」になる。そして、祖母が好きだった歌を歌おうと決めた私の声に、私の叔母は祖母の声を感じてくれた。私のものと思っていたこの声も、わたしだけのものではなかったのだ。

以上のゲストお二人の話を踏まえ、イベント後半ではホストの梶谷、中里を交え、対話を行った。

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Eriさん(左上)、中里(左下)、金さん(右下)、梶谷(右上)

今回のイベントは「みんなのことば」に埋もれがちな声を「わたしのことば」としていかに語りうるかが、当初の問題設定だった。しかし金さんもEriさんも、「わたしのことば」が得られたのち、「わたしのことば」がどのように「みんなのことば」とつながっていくかについて話しており、蒙を啓かれる思いがした。確かに「わたしのことば」の獲得は、それ自体が大きな問題である。しかし、「みんなのことば」と「わたしのことば」がただ対照的に存在するだけでは、ある意味、「みんな」と「わたし」の分断が顕著になるだけだ。両者がいかに架橋されうるかは、「わたしのことば」の成立にとって本質的なことだと気づく。

〈周囲の不理解、あるいはディスコミュニケーション〉を発端として、〈「わたしのことば」とそれが聞き届けられる環境に出会うこと〉を経て、〈「わたしのことば」が「みんなのことば」とつながっていくこと〉に至る展開について、お二人との対話をまとめてみよう。

金さんが出会った兄弟とその母親が置かれた状況、金さんが研究をし、記事を書くときに直面する状況、金さんが摂食障害を患ったときの状況、そしてEriさんがお母さんから「一個も分からない」と言われた状況、それらはいずれも深刻な周囲との断絶であった。しかし断絶の向こうにいる相手は、決して悪意とともに意図的な断絶を招いているわけではない。金さんが研究を通じて明らかにした学校教員たちの「善意」に象徴的だが、Eriさんも「母とよくケンカしては『大学まで行って勉強したあなたが、お母さんと話ができると思ってるの?』と言われた。自分のような道を行かせたくない思いで娘を大学に行かせた結果、コミュニケーションが取れなくなろうとは思ってもみなかったと思う」と話す。むしろ善意ゆえにいっそう根が深いともいえる、こうした断絶を乗り越えるためにも、「わたしのことば」は必要になる。

金さんは「学校現場では、学校の状況が変わりにくいなかで、序列の低い方の教育環境が犠牲になったり、そこにいる子どもたちに変化が強いられたりする」ため、現場に足を運び、当事者が置かれているリアリティを伝えるべく試行錯誤をしている。著書では「差別」「排除」といった表現を意識して使わなかったようだが、金さんの本を読んだ梶谷は、そこで扱われている繊細な問題については、カテゴライズにより安易な理解を生みがちな専門用語を排して、語り手自身の言葉で書かれる必要が確かにあっただろうと言う。

「わたしのことば」が語られ、それが聞き届けられる状況には多様な形がありうる。Eriさんは、以前、差別をテーマとしたギリシャ演劇に参加し、メス牛の霊魂の役で務めたコーラスの最後で「モー!」と叫んだことがある。公演の最終日、周囲も気にせず叫んだ「モー!」には不思議と自身のさまざまな感情が溢れ出し、それが終了後に予想外に褒められたとき、「モー!」を介して強烈に自身が受け入れられた感覚になったようだ。「わたしのことば」が、わたし一人で意図的に選び取れるものではないことを教えてくれるエピソードだ。

「わたしのことば」が「みんなのことば」にどうつながっていくかについて、Eriさんの場合に、歌や音、そして声といったものがすべて他者とのつながりを実感させるものだったことが印象深い。Eriさんの歌を聞いたお母さんが、あるとき台湾で介護している祖父に「エリは日本で歌っているんだよ。すごく親孝行でしょ」と日本語で話していたのを聞いたという。Eriさんは、母の言葉になかったはずの「親孝行」という言葉が自分に使われたことに驚きつつ、それがすごくうれしかったと言う。「わたしのことば」が「みんなのことば」につながると、その先でまた別の「わたしのことば」が触発されて、変化していくダイナミズムが生まれるのかもしれない。

金さんが『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』を出版した成果を実感したのは、本のなかで自分が指摘した問題を、他の人が別のところで著者や著書に言及せず周知のごとく語っていたときだった。かつてはなかった「ことば」が本に書かれることで「みんなのことば」の一部となっていくプロセスを、それは示していた。「みんなのことば」には確かに変化を拒む部分もあるが、それは一枚岩ではないし、変化の可能性を秘めている。ジャーナリストとして、いわばその本丸に果敢に切り込んでいく金さんに限らず、私たちもまた、「みんな」の一員として「わたし」が「みんなのことば」を担い、その豊かさを増せるということを忘れてはならないだろう。

(文責:中里晋三)

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