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【報告】東京大学共生のための国際哲学研究センター(UTCP )シンポジウム「反出生主義の含意と射程――「生まれてこなかった方がよかったのか」をなぜ問うのか」

2021.06.17

2021年5月29日、東京大学UTCP
にてオンライン・シンポジウム「反出生主義の含意と射程――「生まれてこなかった方がよかったのか」をなぜ問うのか」が開催されました。インターネット上においても盛んに議論されている「反出生主義」の思想ですが、センシティブな内容を含む思想内容であるために、数多くの誤解を受けやすい議論であることも事実です。そこで本シンポジウムにおいては、当該分野の第一線で活躍されている若手研究者の方をお招きして、「反出生主義」の思想内容と、その周辺に潜む根本問題を整理・分析するという試みを行いました。

続く箇所におきまして、本シンポジウムの内容を大まかにお伝えいたします。

まず吉沢文武さんが、「反出生主義とは何か――デイヴィド・ベネターの見解を中心に」という題目でご講演をしてくださいました。発表の前半では、現代の反出生主義を代表するデイヴィド・ベネターが提出した議論の解説が行なわれました。とりわけ、ベネターの議論のなかでも「非対称性論証」に焦点が当てられました。ベネターによれば、人生のなかで生じる苦痛と快楽のあいだには、非対称的な評価が成り立つと言われます。つまり、「誕生して苦痛が生じることは、誕生しないで苦痛が生じないことと比較して本当に悪いが、快楽が生じることは、誕生しないで生じないことと比較して本当に良いものではない」と言われるのです。こうした非対称的な価値評価に基づくと、人生のなかで起こる良いことは本当に価値があるわけではなく、悪いことだけを考慮すればかまわないということになります。こうした理路によって、「本当に価値をもつもの」だけを見るならば、どんな人生も悪いことばかりである(その意味で、誕生は常に害悪である)という結論が導かれることになります。こうしたベネターによる理路が詳しく検討されたうえで、人生全体についての評価をめぐって、ベネターの議論に含まれる問題点を吉沢さんは指摘してくださいました。

発表の後半では、様々なタイプの反出生主義を整理するための提案がなされました。まず、反出生主義を主張しうる領域は三つに分けることができます。それぞれ(1)生まれてくる子どもの幸不幸に関する価値論の領域、(2)生殖の是非に関する倫理の領域、そして(3)法や政策などの制度の領域です。それぞれの領域には、様々な考慮事項を加えることが可能です。たとえば、価値論の領域では、子どもをもつことによる親の幸福などをどの程度考慮するかに応じて、反出生主義の主張にバリエーションが生じます。さらに、そもそも反出生主義が「主義」であるためには、一般性・普遍性のある根拠に基づいて主張されていなければならないという点が指摘されました。こうした一連の議論を通して、「反出生主義」と結びつけられがちな様々な表現が、「反出生主義」と呼ぶべき条件を満たしていないということ、そして、個人の「主義」として捉えることが不適切な場合があるということが、吉沢さんによって明瞭に指摘されました。

次に長門裕介さんが、「出生における同意の不在――反出生主義とwrongful life
」という題目でご講演をしてくださいました。長門さんのご発表は出生における「同意」を問題にするものでした。同意の問題はベネターの非対称性に基づく議論の陰に隠れてしまっている感がありますが、依然として微妙な問題でありつづけています。出生における同意の論点はもっぱら反出生主義者が持ち出すもののように思えますが、「仮に同意を得られる状況下であったなら、生まれてくる当人が出生に同意することが十分期待できる」(これは出生における仮説的同意と呼ばれます)という仕方で、反出生主義に反対する側も用いることができます。

以上を踏まえたうえで、長門さんは同意に関する法哲学・政治哲学的な分析に立ち返りつつ、仮説的同意はそもそも現実の同意ではなく、ヴァーチャルに個々人の同意「可能性」を問うための評価上の装置でしかないということを指摘されました。

また、wrongful life
訴訟が示すように、ある条件のもとに生まれた人は不幸にも自らの生を損害とみなすことがありえます。もしそれが仮に真正の損害であるなら、それらは補償されなくてはならないでしょう。このことは、親や社会は生まれてくる子の人生に対して通常考えられているよりも強い保護責任ないし補償責任を負うべきことを意味しています。

もちろん、生殖に関する倫理に反出生主義がどれだけ影響を与えたとしても、現実的に子供は生まれてきてしまいます。このことを認めたとき、私たちは「どのような条件なら子供を産むことが道徳的に許容されるか」を絶えず考えなくてはならないでしょう。たとえば、「親が十分に愛情をもって育てることを意思できるか」、「あなたが生まれてくる子の立場であったら生れてくることに付随するリスクを受け入れられるか」といったことを考慮しなければならないかもしれません。リヴカ・ワインバーグのような出産許容原理はまさにこれを問題にしていたのでした。このような生殖をめぐる正義を問題にするとき、先の仮説的同意というアイデアは再び意味をもってきます。そして長門さんは、「そもそも出産することは完全に親の自由なのか」ということを反省し、必要であれば条件を加えていく作業(現実に生じるリスクと原則の均衡を図ること)を果たすうえでこそ、仮説的同意は役割を果たすのだと結論づけられました。

そして特定質問者である筒井晴香さんが、吉沢さん、長門さんのご発表に対して多角的な視座から質問をしてくださいました。そこでは様々な論点が提出されましたが、とりわけ特筆すべきは、ベネターの「非対称性」をめぐる議論が、人生の複雑さを捨象した上で成り立っている議論なのではないかという吉沢さんに対するご指摘でした。これに対して吉沢さんは、複雑な現実をある程度図式的に理解させてくれる議論には一定の効力があるとの見解を示されました。また、長門さんがご説明されたシフリンやシンの議論の細かな論点についても、鋭いご指摘を筒井さんはされておられました。こうした筒井さんによる整理・質問があらかじめなされたからこそ、その後の参加者とのディスカッションの時間がより活性化したものになったと思われます。こうした試みは、これまで
UTCP
の「公開哲学セミナー」ではあまり行われなかったものですが、特定質問の項目を設けることによって、さらに理解が深まった状態で参加者の方々と討論をすることができたのは、非常に良かったと思われます。

コロナ禍が続き、オンライン・イベントが主流になった中で始まった「公開哲学セミナー」シリーズ(Zoom開催)ですが、今回はなんと、イベント当日の一週間前に
300名を超える方からお申し込みがあり、早々に事前申し込みの枠が無くなってしまう事態となりました。当日も、同時刻に別のUTCP
イベントが開催されていたにもかかわらず、200名以上の方々がご視聴をしてくだり、公式には閉会したのちにも、100
名近い数の方々が「延長」の時間まで残ってイベントに参加してくださいました。去年度から精力的に哲学系のイベントを開催してきたこともあり、少しずつUTCP
の認知度が実社会においても広まり始めたのかもしれません。

改めまして、本イベントにご参加してくだった方々、そして何よりも貴重なお時間を割いて素晴らしいご発表をしてくださいましたご講演者の方々(吉沢文武さん、長門裕介さん、筒井晴香さん)に心から感謝申し上げたいと思います。一緒に本イベントを形作ってくださいまして、本当にありがとうございました。

最後に、本イベントのアンケートの結果を一部掲載いたします。

●「本日のイベントはいかがでしたか?」

「とても良かった」……54.0%(27名)

「良かった」……44.0%(22名)

「良かったとは言えない」……2.0%(1名)

●「またこういったイベントがあったら、参加してみたいと思われますか?」

「参加を強く希望する」……48.0%(24名)

「参加を希望する」……46.0%(23名)

「現状ではどちらとも言えない」……6.0%(3名)

(文責:山野弘樹)

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