Blog / ブログ

 

【報告】2021年度キックオフシンポジウム「For the Reality of Life~共生のリアリティ」

2021.06.22 梶谷真司, 星野太, 國分功一郎, 神戸和佳子

5月29日(土)に2021年度のキックオフシンポジウム「For the Reality of Life~共生のリアリティ」を開催した。昨年はコロナの影響で半年以上遅れて11月に行ったが、今年は例年通りのタイミングで行うことができた。今回のテーマは、「共生」というUTCPが長年取り組んできたテーマについて、よりリアルに考えるために、実践的な場に関わっているお二人に来ていただいた。第1セッションでは、コミュニティデザインの第一人者である山崎亮さんをお迎えして、UTCPからは長年彼と親交のある國分功一郎さんと、元UTCP助教で今年着任した星野太さんと3人でお話しいただいた。第2セッションでは、年明けからNHKで放送されたドラマ「ここは今から倫理です」の脚本家高羽彩さんと、元UTCPのRAで今年北陸大学に着任した神戸和佳子さんと梶谷が対談した。それぞれのセッションについて、PDの岩下弘史君と中里晋三君に報告していただこう。

******************************
「いま共に生きることを問う」と題された第1セッションでは、山崎亮(studio-L)、國分功一郎(UTCP)、星野太(UTCP)の三氏による発表ならびにディスカッションがおこなわれた。
最初は、星野氏による発表である。まず星野氏は目標としての「共生」ではなく、すでにある事実としての「共生」に目を向けるべきことを述べた。
そのなかで、具体例として、ロラン・バルトの「いかにしてともに生きるか」という講義で言及された「個々人のリズム」を重視する修道院の事例が紹介され、その団体的でありながらも個人的な暮らし方が「食客」につながると論じられた。
他者とすべてをともにするわけではないが、全く袂を分かつわけでもない食客は、内と外の微妙な領域を漂う存在である。星野氏によれば、実はわれわれ皆がこの食客のような存在であり、共生を考えるうえで、この食客について考えることが重要になるという。
続いては、國分氏の発表である。國分氏はハーマン・メルヴィルの『バートルビー』(1853)に注目した。バートルビーは、まさに食客的存在として描かれているが、重要なのは、彼が衡平法裁判所の主事のもとに勤めていることである。衡平法とは、厳密なコモン・ローでは解決できない分野に適用される法であり、主権者(国王)が、動乱期にあった国家を柔軟に切り盛りしていく際にも注目された。
これを踏まえると、この衡平法裁判所の主事を務めるバートルビーの雇い主は、絶対的君主のパロディ的存在と読める。彼は、慈善者気取りで働こうとしないバートルビーを大目に見る。しかし、このバートルビーは物語の最後に死を迎えてしまう。
國分氏はここに、共生の難しさを見て取った。食客的存在であるバートルビーは、厳密なコモン・ロー的枠組みのなかでも衡平法的枠組みのなかでもうまく扱うことができない。この食客的存在とどう向き合えばよいのだろう。これが國分氏の提示した問いである。
最後に、山崎氏はコミュニティデザインや自社の概要についてごく簡潔に紹介し、そのうえで、星野氏、國分氏の議論を踏まえながら、studio-Lという組織自体がどのように機能しているかを論じた。
同社では、従業員たちが、一般の会社においてのように縛られるわけではないが、しかし完全に個々別々に働くわけでもない。その意味で、先に見た修道院的な生き方、「食客」的なあり方がそこにある。
社員は全員個人事業主であり、それぞれが自分のリズムで仕事をおこなう。とはいえ、組織である以上まったくばらばらになっては意味がないだろう。星野氏が言及した修道院であれば、宗教が構成員をつないだが、studio-Lにおいては、山崎氏自身が「宗教」的な役割を担い、価値を共有するための活動を積極的におこなったという。ただし、現在は次第に脱中心化されてさらによい組織になってきていることも指摘された。星野氏も述べたように、このstudio-Lの在り方は現代における共生を考える重要なモデルと言えよう。
これで三氏による発表は終わり、続いて、お互いの議論に関してコメントがなされた。そのすべてが示唆に富むものだったが、特に重要だと思われたのは、山崎氏が述べた「眺める」ことの重要性である。コミュニティデザインでは、地元の人々や環境を「眺める」ことからはじめ、そのうえでともに答えを考えていくという。同様に、これからの共生を考えていくうえでも安易に答えに飛びつくのではなく、「食客」的在り方も含め、まずは「眺める」ことが必要になるだろう。 (文責:岩下弘史)


******************************
第2セッションは「ドラマの現場から哲学を語る」と題し、高羽彩さん(劇作家・舞台演出家)と神戸和佳子さん(北陸大学講師)、そして梶谷真司(UTCP)の三名による対話を行った。高羽さん、神戸さんは、本年の1月~3月にNHKで放映され(全8回)、高校の倫理教育を新鮮な切り口で描いて大きな反響を呼んだドラマ「ここは今から倫理です。」(原作は雨瀬シオリ作の漫画)でそれぞれ脚本、考証を担当している。お二人がドラマ制作に携わるなかで、どのようなことをそれぞれに思い、考え、そして互いに連携したのかについて語っていただくなかで、「倫理」がドラマとしていかに立ち現れたのか、その現場を垣間見ることができた。
本ドラマは、高羽さんが原作を読み、Twitterでドラマ化を推す投稿をしたことが契機だった。それは高羽さんによると、登場人物の多さや知的な楽しさなどヒット企画の条件が揃っていたうえ、幼いころからの積み残しと感じていた哲学的な諸問題が、主人公の教師・高柳を始め、大上段に構えた説教臭さとは無縁の描かれ方をされており、読者として強く共感したからという。とはいえドラマ化に向けた脚本執筆は、単なる原作の焼き直しではない。生身の俳優が演じて無理がないよう、そして心地よいテンポで視聴者に伝えたいことが伝わるように、原作を再構成する技術が求められる。神戸さんは考証の立場から経過を見るなかで、それはまさに翻訳に求められる創作性と同じだと感じた。また映像になってからは、原作を幾度となく読んでいても観るたびに新しい驚きがあり、ひとつのテクストが様々な解釈に開かれていくさまを感じたようだ。高羽さんによるとそれは「料理の違い」のようなもの。いわゆるファンが「解釈違い」という表現でお互いをすみ分け、断絶を生むようなものとは違い、対話に開かれ、対話を可能にする「違い」である。それは例えばキャラクター設定をどう受け止めるかにも表れてくる。現実にはいなさそうな教師・高柳を描くドラマのリアリティとは何か。「『こんな人いない』っていう反応は気にしない。だって、いないかもしれないし、いるかもしれないから」という高羽さんのコメントを受けつつ、神戸さんは「普通である」とは違う「人間としての普遍」を描けるのがドラマの力であり、この範囲であれば作り手からのバトンが視聴者にわたる大枠を画定するのが自分の役割だったと語る。本ドラマは、哲学対話の「失敗」も描きながら、子どもたちがすでに直面している、ときに不当な現実を生きる力を与えるものとしての倫理教育の姿を、開かれた対話で観る側に伝えうるものとして生まれたものだった。(文責:中里晋三)


 各セッション、違った視点から共に生きることのリアリティを具体的に考えるセッションとなった。このことは、今後のUTCPの活動とも関わっている。これまでと同様、学問的・思想的な面で「共生」というテーマに取り組むのはもちろんのこと、これからは社会とのつながり、高校生や大学生といった若い世代が哲学に触れる機会を作ること、また実社会の中の人たちと連携し、哲学を社会の中で生かしていくことを目指している。そうすることで、哲学の可能性をさらに広げて行ければと考えている。
コロナ禍で文化活動が危機に瀕する中、上廣倫理財団と西原育英文化事業団には、引き続き変わらぬご理解とご支援をいただいている。UTCPの今後の活動をもってそれに応えていきたい。

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】2021年度キックオフシンポジウム「For the Reality of Life~共生のリアリティ」
↑ページの先頭へ