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【報告】立命館大学間文化現象学研究センター×東京大学共生のための国際哲学研究センターシンポジウム「ひとはいかにして思考するのか? ―― バタイユ、ブランショ、ナンシー」

2021.05.20

【報告】立命館大学間文化現象学研究センター×東京大学共生のための国際哲学研究センターシンポジウム「ひとはいかにして思考するのか? ―― バタイユ、ブランショ、ナンシー」

[当日の動画](※立命館大学さんより掲載の許可をいただいております。)
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7TNY1U78jWs&feature=emb_imp_woyt

2021年3月27日、立命館大学間文化現象学研究センターにてオンライン・シンポジウム「ひとはいかにして思考するのか? ―― バタイユ、ブランショ、ナンシー」が開催されました。

本企画は、20世紀を代表するフランスの思想家ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショ、およびジャン= リュック・ナンシーの視座から、「人間の思考」(「人はいかにして思考するのか」)という哲学的主題をめぐって相互的に検討するという趣旨のもと構想されました。

また本イベントは、これまでのセミナーと同様、哲学に関心を持っている一般の人々と若手研究者を繋げるための〈場〉を構築したいという意図から一般の参加者の方々との双方向的なやり取りを行うことを重視したので、質疑応答が活発に行われ、大変な盛り上がりを見せました。続く箇所において、本シンポジウムの内容を大まかにお伝えいたします。

まず横田さんは、「さらに先へと進んでいくこと――バタイユにおける非‐知と賭け」というタイトルで、私たちが乗り越えるべき「推論的思考(la pensée discursive)」と、それを越えて思考するための「非‐知」という概念をめぐる議論を展開されました。

「推論的思考」とは何でしょうか? それは、「ディスクール[言説・言述・論証・推論](discours )」の様態において思考する形態のことを指します。推論的思考にはいくつかの特徴があります。それは一つには、未知なる事柄を既知なる事柄へと回収してしまうということであり、さらには、何らかの「目的[終わり](fin)」へと向かって突き進むだけの運動(まるで「労働」のように隷属する形での動き)であるということです。

こうした推論的思考に比して、バタイユが「さらに先へと進んで行く」ために必要であるとして提唱するのが、「非‐知」という思考の在り方です。非‐知においてもいくつかの特徴があります。まず非‐知には、推論的思考の外部へと赴こうとする性質があります。先ほど説明した推論的思考は、未知なるものを既知なるものへと回収していくことで、知の円環を築き上げるものでした。それに対して、非‐知は、未知なるもの(他なるもの)、言い換えれば、形態やイメージ、言葉による意味づけを逃れていくものへと向かいます。すなわち非‐知は、知の円環や「同一性」に回収されない他者への倫理を志向するものなのです。さらに、「目的[終わり]( fin )」で立ち止まってしまわないという特徴も非‐知にはあります。推論的思考は、ひとたび自分が設定したゴールに思考が到達してしまうと、そこで探究の過程をやめてしまいます。それはもう未知ではなくなってしまっているからです。しかし、非‐知はむしろ異質なものの他者性を異質なままに迎え入れようとします。そこで求められているのが「賭け( jeu )」という考え方であり、それは未来の予測可能性や計算可能性を越えていくという仕方で「所与」を乗り越えることによって、推論的思考の彼方へと赴くことを指します。非‐知とはこのように、既存の世界観や思考の常識を支えてしまっていた同一性や同質性に揺さぶりをかけるための思考の一様態として機能するのです。

こうした非‐知は「大いなる賭け」とも呼ばれているものですが、このような「大いなる賭け」(すなわち非‐知)とは、「排中律(SはPであるか、あるいはPでないか、どちらかである)」では捉えきれない思考の様態を有しています。まず、「大いなる賭けとは知である」という肯定判断は退けられることになります。なぜなら、もし非‐知を明確な輪郭を有した首尾一貫した知であると規定してしまえば、それは推論的思考とあまり変わらないものになってしまうからです。ですが、「大いなる賭けとは知ではない」という否定判断に留まるという道もまたバタイユは退けます。それでは、単なる反知性主義に留まってしまうからです。ここでバタイユが採用するのは、「大いなる賭けとは非‐知である」という無限判断です。このように、非‐知とは、推論的思考とは異なる特異な思考様態であると言われるのです。こうした非‐知の在り様を知ることを通して、私たちは「知っていることだけを知りたい」という態度から一歩身を引くことができたり、分かったつもりになるのではなく「なぜ○○なのか?」と批判的に問う姿勢へと進めるのであると横田さんはまとめられました。

続いて髙山さんは「ブランショとパンセについて」というタイトルで、詩と連関する思考の在り様についての議論を展開されました。

ブランショが強調する事柄、それは思考とディスクールの非連続性です。アリストテレス以降、哲学の営みにおいて最も重視されてきたのは、論理的一貫性を有した連続性の言語活動でした。ですが、こうした論理的一貫性に閉じた思考の円環自体に批判を投げかけ、そこから新たな知の力動性を生み出す言語の様態としてブランショが指摘するのが、「ディスクール」という言葉の在り方です。「ディスクール(discours)」というフランス語は、原義にさかのぼるとdis-cursus
となり、その意味するところは〈途切れ途切れな流れ〉です。こうした〈切断しつつ繋げる〉という特異な運動が詩において生起するからこそ、一貫した知の体系に内閉してしまわない思考の果てしなき運動が生じると言われているのです。

だからこそ、ブランショは「中断」や「断絶」の形式において文章を書くという探究へと向かうことになります。それは、ある一つの観点から見て論理的に一貫した思考を展開し続けるという態度を停止させ、別様の思考の在り方をそこから引き出す詩の力動性なのです。こうした非連続の思想は、世界に対する命題だけでなく、自己に対する命題についても懐疑を行う眼差しを私たちにもたらします。例えば、デカルト哲学に端を発する「われ思う、ゆえにわれあり」というテーゼに抗する形で、ブランショは『謎のトマ』(初版 1941年、新版1950 年)の中で、「私は考える、ゆえに私は存在しない」という言葉を書き残します。これは、自己についての直接的明証性を有する首尾一貫したアイデンティティを根本的に批判する哲学的洞察となっています。ブランショにとって、途切れ途切れの流れという逆説的な力動性をその内に有する「ディスクール」こそは、首尾一貫した世界観に亀裂を与え、これまで想像もされなかったような新たな思考の可能性を詩において現出させる言葉の力に他ならないのです。こうした〈展開することなく書くこと〉という詩や文学の可能性について論じられたのちに、その後のナンシー編『主体の後に誰が来るのか?』(1989年)について言及されつつ、髙山さんはご発表をまとめられました。

最後に伊藤さんは「眠りとボーっとすること――ナンシーにおける思考とリズム」というタイトルで、思考とリズムの根本的な関係性についての議論を展開されました。

まず伊藤さんが問うのは、「ひとは常に思考し続けることができるのか?」という問いです。人は常に自らの身体と共に生きる存在です。そうであるからこそ、私たちは突如として「眠気」に襲われることもありますし、集中力の低下から「ボーっとしてしまう」ことがあります。しかし、ナンシーはそうした眠りやボーっとすることも含めての思考の在り様を解き明かそうとします。ここで重要なのが、「落下」というモチーフです。「落下」とは、緊張から弛緩へと転換する様を指します。こうしたモチーフと共にナンシーが主張するのは、「今⽇の世界は眠りも覚醒もない状態にあるのかもしれない」(『眠りの落下』)ということです。伊藤さんも述べられていたように、今日の資本主義社会にとって、眠りとは非有用的なものであるとして考えられています。不眠不休で働き、考え続けることが、企業の利潤追求にとって最も効率的であるからです。ですが、人間の生は、本来的にリズムからは切り離しえないものであるとナンシーは主張します。眠りと覚醒の区別(リズム)がなくなってしまうとき、私たちが経験する現実や、それが有する意味が同⼀性に閉じてしまうと言われます。こうした主張の背景には、「区切りを⼊れるリズムこそが現実や意味を⽣み出す」という思想があります。言い換えれば、私たちの生きる現実とは、何らかの仕方ですでに規定されてしまっているような所与の総体ではなく、それに対していかなる分節化(articulation
)が与えられるかによってその内実が変容する可変的な存在なのです。だからこそ、ナンシーが探求する「リズム」という主題は、そのまま私たちの「思考」と「現実」の関係性そのものの洞察へと発展することになります。

さらにナンシーが述べる主題が「特異性(singularité) 」と呼ばれる概念です。眠りに落ちることを、ナンシーは自己の「内奥」への落下として表現します。「内奥」とはナンシー哲学における重要なモチーフです。この「内奥」、すなわち「特異性」とは、他者によってはもちろんのこと、自己自身によっても所有されないような内部のことを指します。リズムを維持する眠りが導入されるからこそ、事後的にしか把捉できないような特異性を私たちは思考することができます。(繰り返しになりますが、こうした特異性を自らのものとして所有してしまうことはできません。なぜかといえば、こうした特異性と密接に連関する眠りと覚醒のリズムそのものが主体的にコントロールすることができないからです。)こうした一連の議論から、①思考の欠如は思考の持続によって埋められるべきではなく、眠ったり、ボーっとすることによる思考のリズムを維持することが重要である、②特異性と関連する仕方で思考についての探究がなされるべきであり、またこうした特異性を奪ってしまうもの(眠らない社会)に対して抵抗することが重要であると伊藤さんはまとめられました。

コロナ禍が続き、オンライン・イベントが主流になった中で始まった「公開哲学セミナー」シリーズ(Zoom開催)ですが、今回は事前登録の時点で250 名以上の方々にお申し込みをしていただきました。また、3月27日は同じ時間帯に別の哲学のオンライン・イベントが複数開催されていたにもかかわらず、当日は常に 150名以上の方々がご視聴をしてくださいました。数ある魅力的なオンライン・イベントの中で本イベントを選んでくださいましたことを、心より感謝いたします。

改めまして、本イベントにご参加してくだった方々、会場や機材のセッティングをしてくださいました立命館大学のスタッフの皆さま、そして何よりも貴重なお時間を割いて素晴らしいご発表をしてくださいましたご講演者の方々(横田祐美子さん、髙山花子さん、伊藤潤一郎さん)に心から感謝申し上げたいと思います。一緒に本イベントを形作ってくださいまして、本当にありがとうございました。

とりわけ、横田祐美子さんはご講演を準備してくださったのみならず、立命館大学と東京大学の間の事務連絡を最初から最後まで取り持ってくださいました。今回の立命館大学と東京大学のコラボレーション企画も、横田さんが両大学を繋げてくださらなかったら、確実に実現できなかったであろうと思われます。ご講演者としても、一運営としても精力的にご準備をしてくださった横田さんに、心から感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

最後に、本イベントのアンケートの結果を一部掲載いたします。

●「本日のイベントはいかがでしたか?」

「とても良かった」……64.7%(44名)

「良かった」……33.8%(23名)

「普通であった」……1.4%(1名)

●「またこういったイベントがあったら、参加してみたいと思われますか?」

「参加を強く希望する」……51.4%(35名)

「参加を希望する」……47.0%(32名)

「現状ではどちらとも言えない」……1.4%(1名)

(文責:山野弘樹)

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