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梶谷真司 邂逅の記録114 「セックスという磁場を求めて~二村ヒトシさんとの対話」

2021.03.08 梶谷真司

 哲学対話は、他者と一緒に思考を創り上げていく。だから私はそれを「共創哲学(inclusive philosophy)」と呼んでいる。なぜ「共創的」という語にinclusiveを当てているのかというと、哲学対話では、世代も境遇も違う多様な人たちが、ごく自然にフラットに話をして“仲良く”なることができる、つまりとても排除(exclusion)が少なく、いろんな人が関われる場を作れる(inclusion)からである。

 私たちは共に生きるために大変な苦労をする。意見が食い違い、自分を守り、相手を攻撃する。お互いに尊重できず、寛容にもなれず、争い拒否しあう。一緒にいようとすると、忍耐や妥協を余儀なくされる。対話が議論となり、いつしか口論になるなんて、よくあることだ。
 哲学対話だと、常にではないか、かなりの確率で、苦もなく楽しく一緒にいられる。そこには「共に存在する」ことがどういうことなのか、いかにしてそれが可能なのかについてのエッセンスがあるのではないか――ここ数年、私の研究はこのような「共創」をテーマにしている。その結果、異なる人と一緒にいられる場、inclusiveな場を作るための条件として重要なのは、以下のことだと考えるに至った。
1)何かを共有すること:この「何か」とは、物、人、関心(テーマ)、行為など。逆にたんに時間や場所、文化、慣習、言語を共有していても、一緒にいられない(世の中を見れば分かる)。
2)目標や動機は違っていていい:何のためにそこにいるのか、そこから何を得るのか、何を目指すのかは、同じでなくていい。
3)一緒に違うことをする:共有する何かに対してどのように関わるのかは、同じでなくてもいい。
 1)は一緒にいられるための条件、2)と3)は多様性を積極的に取り入れるための条件だと言える。哲学対話は、おそらく「考える」という行為と「問い」という関心を共有することでそれができている。ではinclusiveな場を作るには、他にどんなものを共有すればいいのか。
 その候補の一つがセックス(性)というテーマであろう(他にもお金や食べ物が考えられる)。今回二村ヒトシさんをお呼びして対談しようと思ったのはそういう理由からである。二村さんはAV監督として数々の個性的な性のシーンを映像に収め、また『すべてはモテるためである』や『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』の著者として、恋愛をテーマに人と人が関わることがどういうことなのか考えこられた。
 二村さんとは、2019年6月に「哲学で文章はうまくなるのか?」というワークショップを紫原明子さんと行ったとき(『哲学。をプロデュース』のゲスト、今井祐里さんの企画)、参加者として来てくださったのが出会いだった。同じ年の11月、駒場祭の「こじらせ東大生の恋愛相談会」で、二村さんから哲学対話で参加者どうしが考える場にしたいと提案され、そこでまたご一緒させていただいた。さらにその後、性教育のプロジェクトでもコラボすることになった。
 その時点で二村さんは哲学対話に強い関心をもっておられたのだが、決定的だったのは、コロナ禍である。これによって哲学対話は対面でできなくなり、一部では絶望の声も聞こえたが、それを埋め合わせるように、オンライン上では哲学対話が爆発的に増えていった。そして二村さんはその状況下で、おそらく日本でもっとも哲学対話にハマった一人だった(4月から始めてすでに200回以上、一日3回やっていることもあった)。そして私がオンラインで再開した「こまば哲学カフェ」の企画に真っ先に名乗りを上げて、5月には「セックスと性の〈なぜ?〉を考える」を看板に自ら哲学カフェを運営し始めた。
 いったい二村さんは、なぜこれほど(ほとんど中毒と言っていいほど)哲学対話にのめりこんでいるのか。しかも彼の哲学カフェには、実にいろんな人たちが大勢集まってくる。それは二村さんの知名度や人気もあるだろうが、やはりテーマが「セックスと性」だからだろう。あたかもそれじたいが「磁場」であるかのように人を引き寄せる。それはセックス(性)がそもそも何なのかという問いであり、セックスを「共創的(inclusive)」な観点から考えることにつながる。
 というわけで、自分の研究テーマについて二村さんと一緒に考えたいと思い、この企画を立てた。2021年1月16日当日は、参加者が150人を超え、チャット欄にコメント・質問が100以上書き込まれた。

 冒頭、上に書いたような企画を立てた経緯とイベントの趣旨とを説明し、続けて二村さんにご自身のこれまでのことをお話しいただいた。
 二村さんは、大学時代に学生相談室に出入りしていて、そこでカウンセリングのためのエンカウンターグループに参加していたそうだ。それはカウンセラーが主導するのではなく、悩みのある人もない人も一緒に車座になって、ただ語り合い、話を聞く場で、そうすると苦しんでいる人がおのずと治癒していったという。今で言うオープンダイアローグに近いもので、二村さんは当時から哲学対話と同じようなことをしていたのである。また学生時代に劇団もやっていたのだが、そこでもストーリーの大枠は二村さんが作るのだが、セリフの細部は役者同士のアドリブで対話的に構成していた。大学を中退してAV男優になり、その後AV監督をすることになったが、二村さんを有名にしたのは女性側が能動的にセックスをする「痴女ビデオ」というジャンルで、女優さん本人の恋愛体験や性癖を事前に面談で聴き、彼女が「やりたいセックス」と二村さんが「彼女にやってもらいたいセックス」をつきあわせて台本を作ることに相当時間をかけていたという。
 監督業を本格的に始める直前に『すべてはモテるためである』という男性向けの著作も刊行している。初版当時は全然売れなかったが、別の出版社から再版されたとき上野千鶴子から評価されて注目され、続けて女性向けの恋愛本『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』も上梓した。どちらの本も、こうすれば女を落とせるとか、いい男と付き合えるという本ではなく、自分のことを振りかえり徹底的に考えようという趣旨の本である。
 コロナでAVの撮影ができなくなって以来、オンラインで哲学対話をずっとやっている。もともとのきっかけは自著のイベントで名古屋に行ったときに安本志帆さん(『哲学。をプロデュース!』のゲストの一人)と知り合い、「性」をテーマにした哲学対話を子どもや親を含めて一緒にやった。かねてから多くの人にとって欲望や性の悩みを真面目に話す場が絶対に必要だと思っていたが、哲学対話の形式であればそれが安全にできると感じ、駒場祭で相談会ではなく、みんなで哲学対話をしようと思ったという。それでコロナになり、家にいる時間が増えて、中毒のように哲学対話にハマったとのことだった。

 今回のイベントは、いつもやっているように、ゲストに自分の活動について話していただき、質疑応答するという形では行わなかった。むしろ、私以上に哲学対話に熱心な二村さんと、私自身が疑問に思っていることについて一緒に考える場にしたかった。そこであらかじめ質問状を渡し、それに答えていく形で進めた。また二村さんのほうからも私に質問をいただいていた。

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〇まず二村さんがなぜここまで哲学対話にハマっているのかと聞きたかった。対話にハマる人はいるが、二村さんほどの人は珍しい。なぜそんなにのめりこんでいるのか?
――二村さんによれば、「哲学対話とセックスは同じだ」とのこと。それどころか彼にとってはエンカウンターグループも、演劇もAVも、撮影ではないセックスも、やっていることは同じで、要するにどれも他者と一緒に考えて作っていくことには変わりないのである。(この時二村さんはなかばふざけて極端な物言いをしたつもりだったようだが、「哲学対話=セックス」というテーゼは、以下の話全体の核になる)

〇次に二村さんの周りには、実にいろんな人が集まっていて、とてもinclusiveな場になっているように見えるが、その理由はどこにあるのかを聞いた。そのさいとくに二村さんの場合、恋愛もセックスも多くの人が興味を持つテーマで、それが共有されていることが大きいと思うが、どちらもフラットに深く話すことが難しい。そういうことが根底にあるのではないか?
――二村さん自身が職業柄普段から下ネタを話しているから、自分のところでは性や恋愛について話しづらいことでも安心して話せるのではないかと言うのが一つ。また哲学対話では、ルールがあるおかげで、何を言っても否定されない、嘘をついてもフィクションでもいい。二村さんによれば、セックスというのは、本当は相手を全肯定するものであるはずなのに、なかなかそうはならない。でも哲学対話では全肯定される。そこが共通しているのだという。

〇続けて聞いたのは、どのような排除が起きているかである。最初に述べたように、哲学対話では、普通なら一緒にいられない人が一緒に話すことができる。そこから、普段の生活の中でどのような人がなぜ排除されているのか浮き彫りになる。性格的には引っ込み思案、効率重視の人、従順な人、慎重な人、やたらと気を遣う人、能力的には優等生(分からないと言えず、疑問を持つのが苦手。学校の規範に合わせるのが上手な人)と劣等生(分からなさすぎて疑問がない)、社会的にもともと不利な立場にいる人(自分の意志意向を言うのに慣れていない)など。では恋愛やセックスでは、どういう人が排除されやすいのか?
――二村さんによれば、橋本治が「子どもがセックスをしてはいけないのは、子どもはセックスを必要としないからで、大人がセックスをするのは子どもに返るためだ」というようなことを書いている。子どもは社会の秩序の外にあり、セックスはその状態に二人で戻る行為なのである。大人はもちろん子どもではない。二人で一緒に子どもに返るためには、自分をしっかりもちながら、同時に相手を信頼して心のガードを外さなければならない。それができない人、すなわち自分というものをもっておらず、相手に対してオープンになることもできない人が恋愛やセックスで問題を抱えやすいという。

〇次にセックスについてどのように語るのが“適切”なのか、どうすれば“正面から”語ることになるのかについて聞いた。ここでいう「適切」とは、私たちが生活の中で実際に経験したり関わったりするリアリティに即しているということ。また「正面から」というのは、それを変に回避したり隠蔽したりせずに、そのものを語るということである。世の中でなされているセックスの語り方というのは、いくつかあって、芸術として語ると、変に美化されるか挑発的になる。医学的に語ると、生殖や病気、リビドーやトラウマなど健康のための規範になるし、社会科学的に語る時は、差別や暴力、商品化、ジェンダーや権力との関連で別の問題の中に入れられてしまう。逆に日常生活の下ネタや体験談だと、下品になったり暴露・告白話になったりする。学校の「性教育」では、子どもを作る話が中心で、責任とか命の大切さみたいな“大きな話”にされてしまう。どれもセックスについて“適切な”感じもしないし、“正面から”語っている感じもしない。他方、セックスのことを「肉体関係」と言うが、たんなる肉体の関係だけではなく、人間関係、コミュニケーションの一つである。だから先に述べたような相手を肯定し尊重することが必要になる。関係の主体の点でいえば、LGBTの問題でもあり、関係のあり方の点でいえば、快楽であったり子づくりであったり、愛であったり暴力であったりする。二村さんはセックスを恋愛との関連でとらえていて、この関連じたいはむしろ当たり前なのだが、この観点からだと、個々人に即した仕方で具体的・実践的に語れるのがすぐれた点であると考えられる。では、二村さん自身は、セックスについてどのような語り方が適切だと思っているか?
――普通は他人に見せると恥ずかしい私の心の柔らかい部分を「あなたには見せますよ」というのがセックスであって、そこでは何が正しくて何が間違っているということは容易には言えないし、大半の人が自分が100%正しいとは思っていない。だからセックスについて語る場は、正しいことをしゃべらないといけない場になっていないことが重要で、そのような場であれば、ごく普通の人が一般の規範から外れたことでもさらっと言える。性の対話を始めて間もないころ、フェミニストの女性で、公には正しいことを言っていても、プライベートにはそれに反することをしている人がいた。けれどもだからと言って彼女が間違っているわけでもないし、批判されるべきでもない。背徳感をもちつつ、被害者を出さずに、同意のうえで悪いことをすることがあっていい。というのも、私たちは成長過程で、とくに親によっていろんな形で否定されていて、素直なままではいられない。それが、他のいろんなことと同じようにセックスについても、これをすればいい、こうしてはいけないというマニュアルが多い。その結果、相手自身を見るのではなく、ただ世の中で言われていることに自分を合わせているだけになる。そんなところで自分のガードを外して相手と向き合えるはずもない。だからそこでは何が正しいかはいったん横において、相手のことを聞いて受け止め、どのように関わるのがいいのか自分たちで考えることが必要だ。つまりセックスも対話的でないといけない。対話とセックスの違いがあるとすれば、言葉ではなく体で伝えあうということだ。

〇哲学対話をしていると、話し合いの仕方だけでなく、お互いの接し方、向き合い方を私たちはどこで学べばいいのかという気がしてくる。同じことは恋愛やセックスについては、映画や小説、特に女性は少女マンガから学んでいる。けれどもそれは、二村さんの言葉で言えば「心の穴」と折り合いをつけて幸せになる、いわば健全なものではなく、不健全で不幸につながるものであることも多い。でもその不健康さが小説やマンガの魅力でもある。だとしたら、私たちは、どこでどういうふうに恋愛=心の穴との折り合いの付け方を学べばいいのか?
――素直に生きようと思ったら、与えられたものを素直に食べていてはいけない。世の中じたいがおかしいのだから、それに反するようなものを読むことも必要だ。みんなが生きたいように生きればいいわけではなく、社会の規範に従わないといけないが、それは言わば昼の世界であって、すべてそれだけになるのは苦しい。私たちには夜の世界も必要で、どこかで間違ったことをしないといけない、どこかで抵抗しないといけない。それを小説や映画で学ぶのだという。

〇他方で、二村さん自身が本で「モテるために必要なこと」として書いていること、例えば、ちゃんと聴く努力はするけれど判断はしない、決めつけないで相手と同じ土俵に立つ、自分で考えて自分の言葉で語る、自分で自分を理解している(わからなくなっていることも含めて)、自分を開示し自分が変わることができるといったことは、どうやって身につけるのかを聞いたところ、読書会サークルである「猫町倶楽部」での体験を話してくれた
――この読書会では、本を読了することと、人の言うことを否定しないというルールがあり、そこでいろんな人が自由に本について語り合う。うまく対話が噛み合うと、参加者はみるみる変わっていく。そうやって否定しない、相手を受け入れることを学ぶ。それは対話でもセックスでも同じなのだ。どうやって受け入れるかはハウツーだが、受け入れることがどういうことか、人を愛することと受け入れることがどう関わるのかは、どこかで自分で体験する必要がある。それは読書会や対話の場でやるといい。一般にセックスは、たんなる挿入であるとか、子作りだと思われてきた。だがそれは、セックスのふりをした別のものだ。相手を肯定していなくても、心を開かなくても、そう呼んできた。だがそう呼ばれてきたものが実はそうではなかったというのは、哲学対話でも似たことがあるのではないか。

以上が二村さんへの問いかけとその答えである。この後は二村さんからの問いに対する私の答えをまとめておこう。

二村さんからの質問
〇セックスは人を惹きつけもするが、人を傷つけたり憎悪を生んだりもする。快楽のためにやっているのに、なぜそれが相手を傷つけたり自分が傷ついたりするのか?
――快楽は独占や支配に結びつきやすく、相手を配慮しないことにつながりやすい。これはセックスに限らず、人間関係は一般に言えることで、人とのつながりじたいがお互いを惹きつけたり反発したりする。また人間は憎悪や苦しみに執着することもある。もともとの人生に対する姿勢や人間関係の作り方がそのままで、セックスだけが愛にあふれるものになることはありえない。結局はその人がどのような人間関係をもつの問題だろう。

〇ハイデガーが「意志を志向するということは、自分は過去にとらわれずゼロから始められると考える、つまり過去を『考えない』ということで、つまり過去を憎むということだ」と言ってるらしい。そこからヒントを得て、世の中にはセックスを憎む人が少なくないのは「セックスが自分というものを失うためにする、中動態の行為だから」なのかなと考えたのだが、どう思うか?
――このハイデガーの言葉を分かりやすく言えば、現代人は自分の意志で物事を始められると考えているが、実際にはゼロから始めることはできず、いろんなことによってさせられる、どうしようもなくそうなってしまうということだろう。つまり人間のやることは100%能動か、100%受動というわけではない。例えば人間は自分で考えているようで、そのさい何か思いつく、印象を受けることが必要だが、それは自分の意志でやっているわけではない。自分が能動的に考えているときでも、その根底ではそうした受動的な部分がある。そもそも何かを受け取るには、そのためのセンサーをもっていないといけない。受動的であるために、物事を受容するような態度をとっていないといけない。そういうふうに何重にも受動と能動が重なっている。二村さんの言う「心の穴」について言えば、その穴は誰かに開けられたのであって、私たちはそれに従って行動していて、その帰結には責任を取らないといけないが、だからと言ってその人が全部悪いわけではない。
世の中では「正しいことをしないといけない」という規範、圧力があふれている。間違いのない子育てをしたい、間違いのない恋愛をしたい、こうすればいい子になる、いい恋愛ができる、などなど。しかし、世の中は意志だけで成り立たないのと同じで、思い通りにはならない。心の穴はどんな育ち方をしても開いてしまう。物分かりのいい親が育てても、物分かりがよくないといけないことが傷になるかもしれない。男とか女にこだわってはいけないと育てても、男とか女にこだわらないということにこだわりすぎて心の穴になることもある。だから間違いのない、傷のない生き方をすることよりも、傷とどう向き合うか、傷つけるかもしれないということとどう向き合うか、その覚悟とおおらかさが必要だろう。傷つけてはいけない、傷ついてはいけないと言っていると、何にもできなくなり、誰かが少し傷ついただけで、相手を非難して対立するしかなくなる。それは思考の怠慢であって、あれかこれか決められないところで耐えることが必要だろう。ただしそのために、一人で何とかするのではなく、お互いに話をしたり聞いたりする場で、そうした中途半端な状態、寛容な状態の大切さ、心地よさを体験するのがいい。

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 今回の二村さんとの対談を通して、対話とセックスの共通点が、けっしてたんなるアナロジーではなく、まさに深いところで、本質において通じ合っていることがよく分かった。そのことが、私が今まで「共創哲学」について考えてきたことをより明確に捉え直すことにもつながった。

 二村さん、面倒な対話にお付き合いいただき、ありがとうございました。これ、やっぱり二村さんとでないと不可能でした。しかも、めちゃ、楽しかったです。

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