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【報告】UTCPシンポジウム「現代哲学の源流を辿る(1)――フッサールとハイデガー」

2021.02.12

 2020年11月22日、東京大学のUTCPにてオンライン・イベント「現代哲学の源流を辿る(1)――フッサールとハイデガー」が開催されました。この企画は、20世紀哲学のメインストリームの一つを構成している「現象学」という哲学的方法を〈一般の人々に分かりやすい言葉〉で伝えるという趣旨のもと構想されました。また、本イベントは、これまで行われた公開哲学セミナー(5月30日「現代フランス哲学から見る〈共生と責任〉の問題」/8月29日「哲学と精神分析――デリダ、リクール、ラカン、そしてフロイト」)と同様に、現象学に関心を持っている一般の人々と、当該分野で活躍する若手研究者を繋げるための〈場〉を構築したいという意図も込められていました。そのため、本シンポジウムにおいては、「講演」の部と同じくらいの時間をかけた「質問」の部を設けることに決め、とりわけ一般の参加者の方々との双方向的なやり取りを行うことを重視しました。

 その結果、これまで行われてきた多くのUTCPイベントと同様に、本イベントも大変な盛り上がりを見せました。登壇者である高井寛さん(国立がん研究センター特任研究員)と富山豊さん(東京大学大学院人文社会系研究科研究員)のご講演が終わった後、多くの方々からの質問が寄せられ、閉会の時刻を迎えてなお議論の高まりが鎮まることはありませんでした。以下、続く箇所にて、当日の様子を略述いたします。

 富山さんは、現象学の創始者であると言われるエトムント・フッサールの基本的な哲学的な立場を、近世哲学における「観念論」との対比でご説明をしてくださいました。近世哲学の哲学者たちの中で、富山さんが取り上げられたのはルネ・デカルトとジョージ・バークリです。デカルトは「方法的懐疑」を実践する中で、対象が不在の思考というもの(例:錯覚・誤解等)が非常にありふれているということを指摘しました。そしてバークリは、私たち人間が直接的に捉えているのはあくまで「観念」であるという立場を表明しました。しかし、こうした近世哲学には、次のような問題点があります。それは、〈内なる心〉と〈外の世界〉に分けて考えるという二分法的な発想を前提にしていることです。それに対してフッサールが提示するのが、〈思考は本質的に志向性を持つ〉というテーゼです。
 「志向性」とは、対象を狙ってそこに向かうという方向性のことを指します。志向性を有する人間の精神は、この現実の世界と何らかの仕方で関わっており、それこそが学問的知識の客観性を基礎づけるとフッサールは考えていました。私たち人間は、見る・聞くといったレベルの間違いをしていたとしても、あくまで現物の対象Aを探しているのであり、その意味で志向性を有しています。つまり、私たちが欲しているのは、「観念としての飲み物」ではなくて、「実際に手に取って飲み干すことのできる飲み物(例:ビール)」なのです。こうした世界の中の現物と実際に関わっていくという仕方で、人間は様々な物事を経験していきます。こうしたフッサールの基本的な議論から、富山さんは「現象学」という哲学の考え方に、一つの明確な特徴づけを与えてくださいました。すなわち「現象学」とは、人間が普段から経験していることを出発点にし、そこから世界や真理の問題を考えていくという哲学の方法のことを指しているのです。

 高井寛さんは、大きく分けて二つの構成で議論を展開してくださいました。一つは、「ハイデガーは現象学というものをどのように理解しているのか」というトピックであり、そしてもう一つは、「ハイデガーが私たち人間のことをどのように分析しているのか」、というものです。
 ハイデガーにとって「現象学」という方法は、予防的な方策として理解されているものでした。「(私たち人間が)生きている」ということを理解するときに、余計な考え(概念)を入れないために、現象学という発想法が要請されています。近世哲学において、ヨーロッパの哲学者たちは「主観」や「客観」という概念を自明なものとすることによって、「私たちが生きているとはどういうことか?」という問いを忘れさせてしまっている――そのようにハイデガーは考えているのです。ここで非常に簡略的にハイデガーとフッサールの現象学の立場の違いをまとめると、次のようになります。すなわち、フッサールは学問を基礎づけるための方法として現象学を考えており、ハイデガーは(そもそも学問を営む)人間の在り方を探究するための方法として現象学を考えていたということです。
 ハイデガーが1927年に公刊し、未完に終わった著作『存在と時間』の議論の中から、高井さんはいくつかのトピックを絞ってご発表をしてくださいました。まず、ハイデガーは「行為」に着目することで人間の分析を行っています。そこで重要になるのが、「誰が」「どこで」「何をするのか」という点です。例えば家具職人は、世界内に位置づけられた仕事場の中で、「家具を作る」という目的に導かれることによってくぎを打っています。職人であるということは、その都度の行為によって実現されています。それが「世界内存在」を生きることの一つにほかなりません。そして、このように世界内に生きる人間は、非本来的な様態と、本来的な様態の二つの在り方をしています。ハイデガーは非本来的な在り方をして生きている人々を「〈ひと〉(Das Man)」と呼びます。〈ひと〉とは、誰でもない存在であり、みんなと同じように振舞う人間のことです。〈ひと〉は知らず知らずのうちに「誰か」を生きようとしてしまっています。これに対して、〈私にとって本当に意味あることは何か?〉ということを「死への先駆的決意」という観点から考えていくのが本来的な人間の様態であるとハイデガーは言います。つまり、私たち人間は、「私の死」を視野に入れることで、「私の人生」全体の問題に取り組むことができるのです。こうしたハイデガーによる人間(現存在)の分析を、分かりやすい言葉で高井さんはご発表してくださいました。

 コロナ禍が続き、オンライン・イベントが主流になった中で始まった「公開哲学セミナー」シリーズ(Zoom開催)ですが、今回も大変多くの方々にご参加していただくことができました。とりわけ、事前登録の時点で240名の方にお申し込みをしていただいた事実は、特筆すべきものであるように思われます。「哲学」という言葉を聞いてしまうと、それだけで身構えてしまい「自分とは関係がない」と思われてしまう方が多いと思うのですが、今回のシンポジウムで取り上げられたフッサールとハイデガーも、共に人間の意識や人間の在り方といった問題を真正面から思索した哲学者でした。「人間はどのような仕方でものを考え、日々を生きているのか?」という問題は、この地球上に生きるすべての人たちに関わる問題であります。こうした普遍的な問題に立ち向かう哲学の議論の〈意義〉と〈魅力〉を、より多くの一般の方々にお伝えすることができましたなら幸いです。改めまして、本イベントにご参加してくだった方々、そして何よりも貴重なお時間を割いて素晴らしいご発表をしてくださいましたご講演者のお二人(富山豊さん、高井寛さん)に心から感謝申し上げたいと思います。一緒に本イベントを形作ってくださいまして、本当にありがとうございました。

最後に、本イベントのアンケートの結果を一部掲載いたします。

●「本日のイベントはいかがでしたか?」
「とても良かった」……75.4%(43名)
「良かった」……21.1%(12名)
「普通であった」……3.5%(2名)

●「またこういったイベントがあったら、参加してみたいと思われますか?」
「参加を強く希望する」……68.4%(39名)
「参加を希望する」……29.8%(17名)
「現状ではどちらとも言えない」……1.8%(1名)

(文責:山野弘樹)

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