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梶谷真司 邂逅の記録113 「哲学。をプロデュース!」~新しい哲学の可能性を求めて

2021.01.22 梶谷真司

 「哲学を○○する」の○○には何が入るだろうか――研究する、教える、応用する、入門書を出す。これらはおもに研究者が行うことだろう。他方、近年では哲学を実践する、すなわち、子どもの哲学や哲学カフェ、哲学相談、哲学カウンセリング、哲学コンサルティングなどのプラクティスがあって、これらは老若男女、広く一般の人たちがするものだ。
 しかしそのどれでもない“プロデュースする”というのがあるのではないか。哲学のコンテンツを楽しみやすい形、親しみやすい形、かっこいい形、面白い形にして人々に見せるプロデューサーのようなもの。しかも文字通りに自分自身の哲学をproduce(生み出す)する――そんなユニークな人たちと哲学の新しい可能性を探りたい。

 2021年1月10日(日)の午後2時から「哲学。をプロデュース!」というタイトルでイベントを行なった。今回もオンラインでの開催で、120名を超える人が国内外から参加した。来ていただいたゲストは、私が長年いろんな形で関わってきた人である。
 一人目は清水将吾さん。もとUTCPのメンバーで、最近『大いなる夜の物語』という哲学ファンタジーを公刊。もともと絵もステキで、私自身は彼がUTCPにいた当時、絵本作家になれると思っていたが、小説を書いてもめちゃめちゃ面白い。
 二人目は永井玲衣さんというエッセイスト。哲学プラクティスでも時々一緒になり、駒場祭でも企画を出していただいたことがある。でも何より私は彼女のエッセイの大ファンだ。「手のひらサイズの哲学」「水中の哲学者たち」「はい哲学科研究室です」といったシリーズを書いている。どれもめちゃめちゃ面白い。
 三人目は今井祐里さん。哲学雑誌「ニューQ」の編集、哲学イベントの企画・運営、哲学ラジオ、哲学スナック、哲学をネタにいろいろやっている。私自身、イベントと雑誌のインタビューでプロデュースされたことがある。とにかくなんでも面白い。
 この3人の共通点は「面白いことをやっている」である。そして自分の好きな形で、哲学を生み出している。
 当日はまずは順番に自分の活動、動機、思いを話してもらった。

【小説家 清水将吾】
 清水さんは、イギリスで哲学の学位を取っている。いまも研究者として活動しつつ、大学でも教え、子どもと哲学対話をし、そして小説を書く。彼は物語を書くようになった理由を二つ挙げた。一つは自作の絵本をもって子どものところへ行き、対話をしたい!という思い。もう一つは論理と物語の関係を考えたい、という思いだ。この二つのところに新しい哲学の可能性を見出そうとする。
 子どものところに行くのは、彼らが哲学の始まりである「驚き」の近くにいるからだ。子供と対話することで、その新鮮な感性に刺激される。そして日常生活の中、歩いているときでもそういう新鮮な目で世界を見ようとする。それが彼の物語の着想につながるらしい。
だが子どもの哲学的資質は、もう一つの哲学の可能性を秘めている。それは、芸術で子供の良さをそのまま伸ばすというフランツ・チゼックに倣って、「子どもの哲学を子どもの哲学のままに育てていく」というものだ。
 通常私たちが入門書などで哲学に出会って、その先に進もうとすると、大学・大学院に行って専門教育を受ける学術的な哲学の道に行くことをイメージする。けれど、清水さんは、もう一つの道を考える。それが哲学対話や子どもの哲学から、哲学小説、哲学エッセイ、哲学雑誌などを通して、「みんなの哲学」に向かう道である。その哲学は、けっして学問としての哲学と比べてレベルが低いとか、それに対抗するものではなく、別のカタチの哲学なのだ。
 そのさい重要なのが「論理」と「物語」の関係である。清水さんによれば、哲学とは、問いから始まり、言葉と言葉をつないでいく試みである。そこで論理は切り分けて積み上げる力、物語は包み込んでつなげる力。哲学対話はその両方が合わさった特異な場である。
 そう考える清水さんが、小説という形でどうやって哲学をプロデュースしているのか。彼は、三つのポイントを挙げる。一つ目は新しい視点を探すこと、すなわち、ありふれたものでも未知のものに見えるような視点を持つこと、二つ目は意図して自分の中で何かを作るのではなく、もっと自分を開いていろんなものを受容すること、そして三つ目は、自ら語るよりも物語が語られること、おのずと話ができてくる力を信じることである。
 清水さんは、あくまで自然体だ。世界に驚き、その問いに自らをゆだね、そこから出てくる言葉が紡がれるのを待つ。誰もがいきなり自分の疑問から始められる。それが「みんなの哲学」の自由さである。しかも一緒に考えてくれる誰かとの出会いがあり、さらにまた哲学が始まる。そこで生まれる言葉がただ消えていくのはもったいない。だから清水さんは「書く」のだ。

【エッセイスト 永井玲衣さん】
 永井さんは、大学院で哲学を研究するかたわら、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を行い、予備校で思考力を育てる授業をし、大学でも哲学を教えている。そして、上で紹介したように、哲学エッセイを書いている。
 それにしても、なぜ哲学なのか? 永井さんにとって、子どものころから世界はめちゃくちゃ、どうしていいか分からなかったという。世界は謎に満ちている。だから彼女の夢は、寺山修司の言葉を借りて言えば、「偉大な質問者になりたい」だった。
 もともと文学好きの彼女は、まずは小説の中にその答えを探していた。しかし哲学に出会って、自分で考えていい、自分で答えを見つけていいと分かった。そして大学で哲学科に入ったら、一緒に考えてくれる人がいた。それは永井さんにとって衝撃であり、大きな救いになったという。だから彼女は言う――哲学は、何もバカにしない。普段は気にも留めない些細なことでも、疑問に思い、存分に考えることが許される、と。
 そんな永井さんにとって哲学とは、表現することでもある。だから彼女は考えたことを書く。書くことでもっとよく世界を見えるようにする。それは言葉を磨くことで、世界に対する見方を研ぎ澄ますことであり、そうすることで、問いを自分から引き離して、みんなで考えられるようにするのである。
 もう一つ、永井さんは、小さいころから何でも記録して残す癖があるという。彼女が書くのは、自分が体験した世界をフレッシュなまま保存しておくという意味合いもあるらしい。そのことが彼女のエッセイの書き方にも反映される。
 哲学者の各エッセイはしばしば問題を俯瞰し、高度な概念で現実を切り取って見せる。「ほら、哲学的にはこんなふうに取られられるんだよ」と。しかし永井さんは違う。世界の中に入り込んで、曖昧なもの、思考のもつれ、わかりづらさの中にとどまり、それをできる限りそのまま書く。それは思考が生まれるその瞬間を記述することでもある。だから彼女のエッセイは、彼女がその時その場所で感じたこと、考えたことをライブ中継するかのように生き生きしている。
 永井さんによれば、哲学は特権的な学問への自尊と、社会と結びつかないことや表現することへの羞恥の両極端の間をゆれているという。しかし、そんなに構えずに、ただ問いと共に生き、それを自分にために、あなたのために言葉にする。そういう自由なものであっていいのではないか――それが彼女のエッセイという表現であるらしい。

【編集者 今井祐里さん】
 今井さんも大学で哲学を専攻し、修士課程まで進んだ。在学中から学校や企業、地方自治体などで哲学対話のファシリテーターとして活動。自由大学という場で一般向けの哲学対話の講座を開いたり、社会人向けの哲学コミュニティを主催したりしてきた。現在は、株式会社セオ商事でサービスの企画、ウェブデザインに携わりつつ、同社が発刊する哲学カルチャーマガジン『ニューQ』の企画・取材・編集を担当する。その他、考えるための場づくりやワークショップを企画している。つまり、哲学でいろいろやっている。
 今井さんが哲学を軸にしつつ、このような多岐にわたる仕事をしているのは、社長がもともと哲学好きだからで、今井さんは水を得た魚のように元気に活動している。この会社にはnewQという哲学的アプローチで提供するサービスがある――リサーチ、問いを立てるワークショップ、概念工学などの手法によって前提を問いなおし、新しい価値の発見や、意味の再考から社会実装までを行うというもの。
 ターゲットにしているのは、「まだ世界に存在しないけれど、これから存在しうる"新しい何か"を考えたい」とか、「プロジェクトにおいて、コンセプトをどのように形作っていけばよいか分からない」とか、「アイデアワークやデザインワークに入る前に、リサーチを通じて洞察を深めたい」とか、まさに「考える」ことをサポートするサービスである。具体的には、Webデザイン、広告キャンペーンやワークショップの企画、編集や記事の制作、組織で考え続けられる環境の整備などで、哲学を社会に浸透させようとする意志を感じさせる。
 このようにとにかく精力的に哲学を仕事にする今井さんが考えているのは、「哲学の仕方」と「哲学したこと」のデザインである。哲学の仕方のデザインとは、考えたいことを考えるためにどんな環境や仕掛けが必要かと、一緒に考えたい人にどのようにして参加してもらうかである。「哲学したこと」のデザインとは、探究したことを知ってもらうのに、論文や学会発表以外の形としてどのようなものがあるかと、言語とは違う身体的な「わかり」をどのようにしてもたらすのか、である。
 こうした今井さんの多岐にわたる活動の根底には、彼女独特の哲学観がある――世界との摩擦、違和感が宝になること、その話題を一緒に話せる他者がいること、納得するまで何を、どこまででも考えていいこと、そして、哲学をやっていて不幸になることはないという確信。
 以前、今井さんと話していた時、「私は哲学で食べていく、いまそういう仕事がないなら作ればいい」と言っていた。そのころから何と潔く迷いがない人かと思っていたが、その理由が分かった。他者と共に思い切り考えれば、不幸にならないという、この世界への深い信頼感だ。

 3人に共通するのは、問い考えることへの渇望、ともに問い考える他者との出会いであろう。その渇望と出会いがあるかぎり、哲学の形は何であってもいい。物語になったり、エッセイになったり、企画になったりする。そこにはいろんな可能性が秘められているにちがいない。彼女たちのように、私たちはもっと自由に哲学をプロデュースできるはずだ。

 彼女たちの話に対して100を超えるコメントや質問が寄せられ、全体で4時間近くにわたるイベントとなった。刺激を受けた参加者の中から、また新しい哲学の形が生まれるかもしれない。


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