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梶谷真司 邂逅の記録113 子育てと哲学対話~哲学カフェを運営する3人の母親との対話

2021.01.06 梶谷真司

 哲学対話の活動を始めた2012年以降、かなり早い時期から私は子育て中のお母さんたちと関わってきた。そして2018年に出版した『考えるとはどういうことか~0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎)で、次のように書いた。

 「母親というのは、(とくに子育てに専念している場合)社会との接点が少なく、世間知らずであるように思われがちだが、哲学対話ではまったく違う印象を受ける。子どものことばかりでなく、社会のこと、将来のこと、自分の人生のこと、実にいろんなことを考えている。しかも地に足がしっかりついていて、抱えている問題も――些細に見えたとしても――とても切実である。問いが切実であればあるほど、対話は深いものになる。[…]母親というのは、存在じたいが哲学的であり、誰にとっても優れた対話のパートナーである。」

 今でもそう思う。それどころか年を追うごとに、ますます確信を深めている。彼女たちにまた久しぶりに話を聞きたい――そういう思いで、今回のイベント「子育てと哲学対話」を企画した。そこで私が長年関わってきたお母さんの中でも、自ら哲学カフェを運営し、様々な活動をしていて、ずっと応援も尊敬もしてきた3人に来ていただいた。
はなこ哲学カフェ「いどばたのいどほり」の尾崎絢子さんと、ねりま子どもてつがく(ねこてつ)の高口陽子さん、みんなのてつがくCLAFAの安本志帆さんである。この3人と出会いがなければ、拙著の中で私が母親について特に強調して書くことはなかった。
今回もZoomでの開催。12月19日(土)の午後2時に開始。申込者は100名を超え、参加者も多い時で80名を超えていた。コメントと質問、合わせて60以上、3人の報告のあと、それに答えているうちに、18時まで4時間にわたって行うことになった。
しかもその後、3人と私は、予定通りオンライン飲み会。それも話が盛り上がり、3時間半くらいやった(これは主催者の役得でした。本編以上に面白かった!)。30分前の事前の打ち合わせを含めると8時間の長丁場となった(参加してくださった人も含めて、みなさん本当にお疲れ&ありがとうございました!)。

 イベントの本編では、まず彼女たちの活動について、哲学対話に出会った経緯、対話の場を自ら作った動機、続けてきた思い、苦労、今後などを語っていただいた。参加者には随時チャットに質問やコメントを入れていただき、一人終わるごとに登壇者の応答していただいた。

○尾崎絢子さんの場合
 尾崎さんはもともと保育士で、仕事の中でも色々と疑問を抱えていたが、子育てをするようになってさらにたくさんの疑問がわいてきた。哲学対話に出会って、それを自分で考えていいんだ!と感銘を受け、子どもが一緒でもできる場を自分で作ろうと思ったという。
実際にやってみて、場の作り方も対話の進行も、わからないことだらけで、UTCPで私が主宰しているP4E(Philosophy for Everyone)の研究会に来るようになった。その後は、子育て仲間の哲学カフェにとどまらず、いろんな人とコラボしたり、行政から支援を受けて市民活動として対話の場を作ったり、駒場祭の哲学カフェに企画を出したりした。さらに、2017年の日本哲学会の哲学教育ワークショップでは、提題者として登壇してもらった。
 今ではさらに活動を広げ、他の育児サークルでファシリテーションをしたり、保育士の経歴を生かして保育園で哲学対話を行ったり、保育士の研修も行っている。また公民館主催の女性セミナーのコーディネートをしたり、美術館や文学館等の公共施設で子供向けの哲学対話を行ったりしている。
 また教育関係では、様々な小学校、中学校、高校でファシリテーターや講師として協力しており、そうした活動が実績となり、来年度からは幼稚園や保育園などを運営する学校法人で専任講師も務めることになった。さらにこの間、多くの実践者や研究者ともつながり、子ども哲学への研究協力もしている。
 保育現場に尾崎さんのような子育て中の人が入っていくことは、現場の先生にとっても子どもたちにとっても、大いに刺激になるに違いない。

○高口陽子さんの場合
 高口さんは大学時代、哲学科で倫理学を専攻。ママ友との付き合いは苦手だったが、地域活動と子どもの教育には関心があった。哲学対話に出会ったのは、旦那さんがガンで亡くなる数か月前、もともと好きだった哲学の本を読んでいて哲学対話のことを知り、「これだ!」と思い、旦那さんが亡くなって5日後にはアーダコーダ(哲学対話を活動の中心にしているNPO法人)でファシリテーター養成講習を受けたという。
 翌月には「ねりま子どもてつがく」(ねこてつ)を立ち上げ、一回目の対話イベントを行なう。その時のテーマは「ひとはしんだらどうなるの?」で、自分の子どもも一緒だった。父親の死後にこんなテーマでさせていいのだろうかという思いもあったらしい。しかしむしろ哲学対話のおかげで、この大変な時期を乗り越えられたという。その後、もとはと言えば、子どものための場として哲学対話を始めたのだが、いざやってみると、子どもから教わることが多く、大人がハマっていった。
 高口さんは、もともとが地域活動から出発しているため、今でも哲学対話にこだわらず、地元で親子企画や多世代交流に携わっている。また(イベントの中でははっきり触れなかったが)、練馬区の区議会議員になっている。声をかけられて立候補したが、子育てと政治は切っても切れない関係にあり、「地域で子育て」をかなえるため政治に関わることにしたそうだ。
しかしそこは、対話とは真逆の世界。どこの誰かによって、何を言っていいかが決まり、結局は数の論理で物事が決まる。高口さんはだからこそ、対話が必要なのだという。
確かに、政治というのはもっとも対話が必要でありながら、もっとも対話から遠いところかもしれない。それだけに高口さんの存在は貴重だ。

○安本志帆さんの場合
 安本さんは、もともと幼稚園教諭で、幼児教育を通して人間教育の観点から哲学対話を捉え、幼児から大人まで様々な人と哲学対話を行っているという。名古屋や犬山を拠点に、幼稚園や美術館で定期的に対話イベントを行ない、全国各地の小中高大学で外部講師として哲学対話のファシリテーターを務めるほか、異業種間の哲学対話の企画運営や当事者研究、哲学対話の個人セッション(哲学相談)も行っている。昨年までは名古屋や犬山を拠点にしていたが、今年から福岡に引っ越し、さっそく活動を開始している。
安本さんの活動も多岐にわたるが、彼女の特徴は、ディベートの指導と当事者研究である。当事者研究とは、心や体に生きづらさを抱えた人たち(一般に○○障害者と呼ばれる人たち)が、(多くの場合、研究者と協力して)自ら研究をする活動である。
安本さんはご自身の息子さんが発達障害で、学校生活になじめないところがある。そこから発達障害以外にも、さまざまな障害、依存症の当事者のための対話の場を作り、特別支援教育にも携わっている。また福岡市では行政とも連携をとりつつ多様性(性的マイノリティ)教育にも尽力している。
 さらにユニークなのは、未来の体育を構想するプロジェクト理事、スポーツ庁人材育成ワークショップ講師を務めるなど、体育教育についても、「そもそも体育とは何か」を問い直し、スポーツが苦手な子にとっても楽しく有意義な体育の構想に関わっている。
安本さんにとって重要なのは、多様な生き方を認め合い、社会的弱い立場に置かれている人たち、生きづらさを抱えている人たちも生きやすい社会であり、哲学対話はそのための強力な味方であり、有効な実践の場なのである。


 彼女たち3人に共通するのは、自分自身や自分の子ども、自分の住んでいる地域など、きわめて身近で切実な問題から出発しているということだ。彼女たちにとって哲学対話は、一言でいえば、自分と子どもの生きる世界を作っていく場なのだ。だから、たんに楽しい場でもなければ、子どもが考える姿を見る心温まる場でもない。哲学研究者がしばしば揶揄するようなお気楽な井戸端会議、素人談義でもない。
 イベント後のオンライン飲み会で彼女たちは、自分たちの活動を振り返って口々に「血を吐くような思いだった」とか「血みどろになってやってきた」と言っていた。哲学対話は、彼女たちにとって命がけの“主戦場”だと言っていい。これほどの真剣勝負をしている研究者がどれほどいるだろうか(少なくとも私は違う。彼女たちと話していると、いつも圧倒される)。
 そこまででなくても、哲学対話をやっているお母さんは、多かれ少なかれ、こういう他人事ではすまされない、自分事としての切実さに突き動かされている。しかもそれは、自分一人ではなく、かならず子供や家族、地域や社会とつながっている。

 寄せられたコメントや質問も、そのような関心からのものが多かった。その中でいくつかを取り上げておこう。

○活動を通じて、子どもや自分にどのような変化があったのか?
 尾崎さんは、もともと自分の子どもは、引っ込み思案だったが、それが自分から発言するようになり、友だちも増えたと言っていた。自分自身は、親子や人間関係が、人と人との関係として作れるようになったという。
 高口さんの子どもは、問うのが上手になり、また学校を批判的に見られるようになったらしい。自分自身は、何でも言って考えていい場があることを知っているのは、実際に哲学対話をやっているかどうかにかかわらず重要だと言っていた。
 安本さんの子どもは、現在反抗期で、「なんで?」と聞くと、何でも哲学対話にするんじゃない!と言い返してくるが、苦労していて疑問にぶつかったときには、自分から「哲学対話をしたい」と言ってくる。

○哲学対話のどういうところが哲学なのか?
 尾崎さんは、自分は「哲学に守られている」と言う。なぜなら、問いがあるから自分から切り離して、他の人と一緒に背負えるからだ。
 高口さんは、学校では問えないようなことを問えることが哲学であり、やっている人が哲学対話だと思っていたら哲学対話だと言えるのではないかとおっしゃっていた。
安本さんは、センシティブなことでも、その場で流さず問い続けること、そのことによって、いわば安全に傷つくことのできる場であるのが哲学対話であって、進行役が配慮しなければいけないのもそこだとのことだった。

 3人とも言っていたことだが、哲学対話は、子どもだけがすればいいことではなく、親たち、大人たちもなじんでおくことが大切である。それによって大人も子どもも、どんな疑問でも許されて、思う存分考えられる場があることを知る。そのためには一回体験すればいいわけではなく、地道に続けていかないといけない。そうして哲学対話が、問うことが、考えることが日常の一部となってほしい。
 登壇した3人に限らず、哲学対話を実践する、あるいは興味をもつお母さんたちは、そのことはたんなる建前ではなく、肌感覚で理解している。彼女たちはあまり意識していないかもしれないが、そのことは実はすごいことなのだと私は思う。

 最後に参考文献を――安本さんの犬山市での活動と彼女の思いは、『こどもと大人のてつがくじかん』(LAND SCHAFT)に詳しく書かれている。また高口さんと安本さんについては、『自信をもてる子が育つこども哲学 “考える力”を自然に引き出す』(川辺洋平著)にインタビューが載っている。尾崎さんについては、UTCPブックレット「Philosophy for Everyone 2013-2015」に寄稿してくださった「どこでもない、ここで ~ 私の街の哲学カフェ」をお読みいただきたい(https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/publications/2016/03/philosophy_for_everyone_201320/)。いずれも、感涙ものの名文である。

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