Blog / ブログ

 

【報告】こまば哲学カフェ 二村ヒトシ【シリーズ セックスと性の〈なぜ?〉を考える】

2020.10.13 梶谷真司

二村ヒトシと申します。哲学対話は昨年の夏に名古屋で安本志帆さんのお世話になって体験したのが最初です。その後、梶谷真司さんとも知り合い、今年の春以降(新型コロナの影響による自粛期間以降ということです)インターネットで人を集めてオンライン哲学対話を我流で始めたところ、すっかりハマり毎月20回以上、9月末までに通算130回以上のオンライン哲学対話に参加しました。そこで得られた感触を文章にまとめたものを、心理や教育の専門出版社・金子書房のブログ(note)に掲載していただきました。https://www.note.kanekoshobo.co.jp/n/n0cc095bc8965

私が主催した哲学対話は、始めたころから〈性〉をテーマにしたものが多かったです。「コロナ以降、男女(とは限りませんが)の出会いかたはどう変化していくだろうか」「コロナ以降、人間のセックスはどう変化していくのだろうか」といった人々の関心が高そうな話題を取り上げました。

また芸術作品鑑賞型対話の一種ということになるのでしょうが、人気コミックをテーマにして「『鬼滅の刃』の1巻と2巻には何が描いてあるのか?」といった話題、あるいは童話『星の王子さま』などをテーマに行っても、けっきょく人間にとっての「愛」や「恋愛」とはなんだろう、生命とはなんだろう、そういったことに話が及びました。それらも広い意味での〈性〉の話だったように思います。

それで満を持して、というのも大袈裟ですが、こまば哲学カフェに於いて、5月31日(日)11時からオンラインで『セックスと性の〈なぜ?〉を考える』第一回、「みんなで問いを出すワークショップ」をやらせていただきました。
TwitterとFacebook、そしてUTCPのブログで告知したところ、なんと140人以上のかたがご参加くださいました(使用アプリはZOOMです)。「セックス」と言う言葉にインパクトがあったのでしょう。

若者の性の自己決定力や恋愛・セックスの場面における人権意識を高めることを目的とした活動をしておられる団体「SheekH」の代表・高島菜芭さんを始め、多くの皆さんのお力をお借りして、なんとか開催にこぎつけました。
私が哲学対話のルールと理念を説明した後、いつも哲学対話を一緒にやっているメンバーに安本さん梶谷さんにも加わっていただき、模擬的な哲学対話を皆さんの前でやってみました。それからSli.doという、みんなで書き込んだ語句にみんなで投票できるアプリを使って、参加者全員で問いを出していきました。こちらです。
https://app.sli.do/event/tvvjybdu/live/questions ぜひご覧ください。何度読んでも面白いです。まさに現代の我々が生活の中で、心の中で抱いている「セックスや性についての疑問」の数々が哲学的な〈問い〉として可視化されたかたちです。

梶谷さんの哲学対話シリーズ『恋愛と結婚のあれやこれやをめぐる対話』に倣い、第一回は〈問い〉を出すだけで終了しました。
そして6月7日(日)11時〜 やはりZOOMを使っての第二回目を開催。60人ほどが参加。こちらはブレイクアウト機能を使い、参加者に6〜7人の班に分かれてもらい、いつも一緒に哲学対話をやっているメンバーに各班のファシリをお願いしました。年配の男性も、性被害にあったことがある女性も、身体障害のあるかたも参加してくださいました。
Sli.doでの投票によって選ばれたテーマは【現実では「性暴力は許せない」と思っている人が、乱暴な性描写にひそかに興奮してしまう場合があるのは、なぜか?】というものでした。
各班での対話が終わってから、再び参加者全員が顔を揃えて、各班のファシリテーターから「それぞれの班で、どんなふうに話が展開したか」を5分程度ずつ報告してもらい全員で共有しました。

第三回は6月20日(土)やはり11時からで45人ほどが参加、前半と後半でテーマを分けて行いました。
テーマはそれぞれ【なぜ「生活のパートナー」と「セックスのパートナー」は同じ人であるべきだとされているのか?】(前半)、
【なぜセックスによって「癒される感覚」と「傷つく感覚」があるのか?】(後半)。
性の哲学対話は、デリケートな話題が頻出します。参加者のプライバシーは絶対に守りたい。そこでルールの「何を言ってもいい」に「発言がフィクションや嘘であっても構わない」を加え(何を言ってもいいのですから、その嘘に攻撃や自慢の意図が含まれていなければ、もともと言っても構わなかったのですが)ルール説明の際に強調しました。つまりこの対話の中では、ご本人の身に起こったエピソードを「これは友人の話です」と言って紹介しても構わないし、対話中に「自分の話です」と言って紹介したエピソードを対話後に「あれはフィクションでした」と言うこともできるということです。
また、こういった対話だとパソコンの画面に顔を出したくない(顔を特定されることが不安)と言う人もいると思われます。しかし、誰かが顔を出していて誰かが顔を出さないのは公平性に欠きます。その班の参加者6人のうち1人だけがカメラをオフにしているというのも、さびしいものですし、他の(顔を出して参加している)メンバーの中には不安になる人もいるでしょう。
そこで、この哲学対話では「顔を映している必要はないがとにかく対話中はカメラをオンにしておき、どこか体の一部を映していることで、あなたがそこに存在していることを示してください」というルールにしました。
すると参加者の中に、お顔は映さず、大きなぬいぐるみを胸のところに抱えてそれを映し、発言の際はぬいぐるみの手足を動かすなどして語ってくれたかたがおられました。表情がわからないのですがぬいぐるみの動きが情感ひじょうに豊かであり、そのかたの気持ちが伝わってきました。リアルでの哲学対話では柔らかいコミュニティーボールを触っていることが発言中に心を落ち着かせる助けになるという声も聞いたことがありましたが(ボールの受け渡しはないものの)ぬいぐるみが同じような効果を生んでいる可能性もあると思えました。

8月8日(土)やはり11時から第四回を開催。参加者40人ほど。
前半のテーマは【なぜ男性は喘(あえ)ぎ声を出さないのか?】
後半は【なぜ人としての相性と体の相性は一致しないのか?】でした。

そして9月5日(土)に開催された「哲学プラクティス連絡会 第6回大会」に呼んでいただき、こまば哲学カフェからの出張版として【なぜ性教育は、なかなかうまくいかないのか?】というテーマで18時半から行いました。
それまでの開催とは違う層からの参加も多く、また論点が保護者や教員それぞれの立場とも結びついていたためか、なかなか新鮮な切り口の対話となりました(具体的には「子供と大人がフラットに性の話をするためには、まず大人が自分たちの性やセックスについて思索するようにならなければならない。そのために性の哲学対話は有効なのではないか」などの話題に及びました)。

以下は哲学プラクティス連絡会第6回大会の予稿集に掲載していただいた、私が書いた趣旨文の抜粋です。

【私は昨年、安本志帆さんのワークを見させてもらい「哲学対話のルールを使えば、子どもと大人はセックスやジェンダーについて安全に、対等に話しあえる」と確信しました。われわれ大人は、自分でもよくわからない「セックスのこと」について「教える」と称して子どもたちに上から押しつけてはいないでしょうか。それよりも対話形式で共に問い・考え・語り・ 聞くほうが、子どもたちは自分の性について自分の頭で考える習慣がつき、セックスで不幸になる人間が減るのではないだろうか、とも考えました。

もちろん、この理念には、さまざまな疑問が投げかけられるでしょう。〈なぜ性教育は、 うまくいかないのか?〉という私の最初の問いにも、たとえば〈現行の学校や家庭での性教育は、ほんとうに「うまくいっていない」のか?〉〈そもそも「性教育がうまくいく」とは どういうことを指すのか?〉といった問い返しがあるでしょう。】

最後に、UTCPのブログに私が書いた告知文の一部を、もう一度こちらに転記します。
【性の〈ありかた〉や〈恥ずかしさ〉や〈欲望〉について、それにともなう困りごとについて、誰かと一緒に話しながら考えられる場所って、なかなかありませんよね。哲学対話でやりましょう!
これは悩み相談を解決したり「どんなセックスが正しいのか」を議論したりするイベントではありません。哲学対話は、みんなで問いを出しあって〈なぜ?〉〈どうして?〉を「ただ考える」だけのゲームです。結論は出しません。でも、もしかしたらあなたの「?」や愚痴や意見や偏見が、哲学的な問いになって、参加者の一人一人が自分のセックスについて主体的に考え始めるきっかけになるかもしれません。】


Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】こまば哲学カフェ 二村ヒトシ【シリーズ セックスと性の〈なぜ?〉を考える】
↑ページの先頭へ