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【報告】木場悠人 国際哲学オリンピック後記

2020.06.26 梶谷真司, 林 貴啓, 榊原健太郎

国際哲学オリンピック後記


こんにちは。2020年IPOリスボン大会日本代表に選出された木場悠人です。リスボンはコメルシオ広場から、高台から吹き下ろすイベリア半島の乾いた風を背中に浴び、真東に向かって10000km程向かえば、そこは私が今年のe-IPOに参加した会場こと我が家です。現在の執筆時から数年後にこの文章が読まれることを予測して記しますが、本年度はコロナウイルスの世界的流行により、オンラインでの大会となりました。

私にとって、この大会が最初で最後の哲学オリンピックへの参加でした。というのも、哲学オリンピックの日本予選である倫理哲学グランプリに初めて参加したのが高3の夏で、哲学オリンピックの規約上、現時点では代表選考会(2月)に高校生として参加可能な年齢の生徒のみが日本代表になれるので、現在東京大学で一年生をしている私はもう参加基準を満たし得ません。
思えば、高3でのグランプリへの参加は、2月初旬というセンター試験と大学入試の間に最終予選があることを考えると、中々思い切った選択でした。私自身、将来は経済やデザインの道に進みたいと考えており、哲学に対し明確に哲学として興味を持ち始めたのも高3からです。一見すると畑違いの哲学に受験直前に傾倒していることに対し、兄弟を中心に家族はかなり驚いた様子でした。当の本人は、大して熱意もない受験勉強より、のんびり哲学している方が楽しいな、くらいの認識でしたが...
歴代IPO日本代表の中でも哲学歴が最も浅いうちの一人で、かつ年齢は間違いなく高い私ですが、さらにコロナ禍の影響でオンライン大会への参加となったことで、歴代代表の中で最も変わった哲学歴を持った人間になったことと思います。また、IPOのコミュニティは決して哲学者の卵の集いではなく、むしろ色んなバックグラウンド(数学や物理系の学生や、音楽の道を進むアーティスト、軍人もいます)を持つ人々がそれぞれの哲学を胸に集まっており、故に私のような変わり種を多く抱えているワケですが、その懐の広さがさらに各界から多くの人を惹きつけているのかな、と考えています。

さて、本来の大会の様子を全く知らない私ですが、それでもオンライン大会の特殊性は十分に把握できたかと思います。例年の各プログラムの豪華絢爛とした写真と比較して、私たちの今大会はオープニングセレモニーからしてほのぼのとしたものでした。かと言って、大会の質が下がったかと言えばそんな事はまるでなく、各界からのゲストの参加やプログラムの量の増加には目を見張るものがありました。閉会式にはマイケル・サンデル氏までいらっしゃり、連日ヨーロッパ時間の午後(すなわち日本だと深夜)には、知的な悦びに満ちた膨大な量のレクチャーやディスカッションが開催されました。
各参加者も積極的にチャットも交え討論をし、改めて海外ひいては哲学の、議論の文化を肌で感じることとなりました。自分の意見を持ち、それを表明することが強く要請され、ないし歓迎されると表現した方が良いでしょうか。日本での代表選考会でも全く同様に感じましたが、哲学のコミュニティは、どんな分野・意見・言語であれ、哲学的でさえあれば巧拙を問わずに受け入れ、議論に加えてくれます。感覚を研ぎ澄ます必要があるものの、フルに自分らしさを発揮して良い、あるいは自己を発露することが要求されるこの空間ほど、居心地の良い環境はそうは多くありません。

多くの人が関心を持っていらっしゃるであろう、エッセイライティングについても記しましょう。大会の成績を決めるエッセイライティングも、勿論オンラインで開催されました。Snacks are allowed とのことだったので、前日の日の出まで続いたプログラムでの疲れもあり、どら焼きを頬張り紅茶を飲みながら、眠い目を擦ってエッセイを書いていました。他の参加者も、特にヨーロッパ時間と時差のあるアジアの学生は同様だったようで、zoomのチャットで「音楽かけてもいい?寝ちゃいそうなんだ」と試験官に伝える学生もいました。一見不真面目に見える我々の態度ですが、エッセイに向かう姿勢は真剣そのものです。私はEugene Thacker氏の、“We have to entertain the possibility that there is no reason for something existing; or that the split between subject and object is only our name for something equally accidental we call knowledge; or, an even more difficult thought, that while there may be some order to the self and the cosmos, to the microcosm and macrocosm, it is an order that is absolutely indifferent to our existence.” という課題文の最後の文、to the microcosm and macrocosmという箇所から、同じ状態でも視点によっては秩序のある無しが変わってくるだろうと発想を膨らませ、「秩序は見出す主体なしには成立しない限定性のある概念だ」という主張を、四時間ほどかけて試みました。結果あまりうまく行かなかったのですが、準備期間などほぼ無い中、何とかHonors Mention(佳作に該当するそうです)に辿り着けはしたので及第点でしょうか。とはいえ、エッセイライティングで大事なのは賞の有無やランクではなく、この経験がどれだけ自分の人生に良い価値を付け加えるかです。その視点では、今回のエッセイライティングはそもそもクールな体験ですし、人間の感覚が絶対性や特別性をバイアスとして無意識に加えている、という淡い理解を文章化の過程で深めることが出来ました。

さて、最後に哲学オリンピックひいては哲学の面白さに触れて振り返りを終わらせて頂こうと思います。
全く論証不足ですが、勉強には二種類タイプがある、というのが私の理解です。まず、勉強をする必要性があるかないか、これで絶対に二種類に分けられるはずです。(勿論、ベン図のように重なったり、どちらかが空集合ということは大いにあり得ます)。感覚的には、その二分類は外的な要因(テストが迫っているから必要など)に要求された勉強と、内的な要因(好奇心など)に押された勉強という違いに近似できるように感じます。さらに曖昧な感覚では、外部からの要求、すなわち東大に受かるためにはこれを勉強することが必要、といった「必要性を満たす学習」と、単に知りたいという「好奇心を満たす学習」に大分され、さらにそれらを我々は毎日繰り返しているように感じます。(尤も、好奇心もメンタルが必要とする刺激だったり、外部からの必要性も、例えば受験勉強なら志望校を下げれば必要性が無くなる限定性はあるので、おおまかにこう分けられるよ、と言うだけの話です。)
普段「勉強」には縁がない、と自覚している方も、学習という営みは毎日繰り返していると言えるでしょう。行きつけの店まで最も近い道を探し、毎回のデートが終わる度に頭の中で反省会をし、タンスに足をぶつければ歩き方を変える、このように我々の人生は学習を続けるプロセスそのものである、と言うことすら出来ます。
「必要性を満たす学習」は、生きている上で絶対に一定量を要求され、学習の効果は要求を満たすことでの安心や、人生を円滑にすることです。上京した東大生を例に考えましょう。上京の後、彼は東京の電車の使い方を覚えることを外部の社会から要求されるようになり、また大学には毎週課題を出されます。こうした必要性を満たすために彼は電車の種類や時間を何となく覚え、沢山の課題をこなしていきます。結果、学習によって彼は課題を出し終えた安息や、円滑な登校及び移動を得ることを可能とするわけです。
一方「好奇心を満たす学習」は、自分から動き出さないと起こりません。誰しも心の健康のために必要としていますが、現代の我々はこうした学習の量が足りていないのではないか、というのが私の意見です。何も「お勉強」に限らず、ピアノやバスケットを覚えたりすることも立派な「好奇心を満たす学習」です。この学習は、人生をより豊かにします。というのも、直接的には好奇心が満たされ満足しますし、また大体の場合人生の後の方で色々と繋がることが多いからです。スティーブ・ジョブズは、美術(特にカリグラフィー)を純粋な好奇心から学んで、それが意図せずに後のアップルの製品に活きた、と有名な演説で表明しています。
さて、「必要性を満たす学習」は避けられません。どんな動物も生存にまず栄養や水の確保を可能とするための学習が要求され、人類が社会的な生活を営むとなると、要求される学習は無限に存在するからです。ですが、我々は人生の多くをこのタイプの学習で埋め過ぎているのではないでしょうか。役割や仕事をこなすことに時間の大半を割く、というのは人にとって不自然な行為です。なぜなら、毎日何かをこなすプロセスを繰り返しているだけでは、「好奇心を満たす学習」に比率や時間を割けません。何万年も前に何故か火を使い出した時点からずっと、人類はとても知的好奇心に溢れ且つ好奇心の存在なしには語り得ない動物だと思いますし、大半の身体機能と違い好奇心は加齢によっては大して衰えません。「好奇心を満たす学習」の量をどれだけ増やせるかが、人生を豊かにするコツではないでしょうか。新しく楽器を始めたり、何か本を読んだり、その手段は豊富に存在します。最近私の周囲では、高校生の時より高いワックスやヘアジェルを色々と試してみて、いい商品を探すことが流行りです。卑近な例だとお思いかもしれませんが、これも立派な学習で、存分に好奇心が満たされていると言えるでしょう。何なら比較実験という科学的なプロセスを無意識に行なっているということで、たかがワックス選びであれその営みは非常に知的ですらあります。
大概の学習には両方の側面があるので、「必要性を満たす学習」に対して好奇心の充足感も見出すことも一手でしょう。受験勉強という営みは外部から要求された必要性を満たす性格が非常に強いですが、とりあえず歴史の年号や語句を暗記するより、「へーそうなんだ」と思えた方が、人生の豊かさという観点では遥かにお得です。とすると、自分の好奇心という存在を、どれだけ日常で意識できるかが焦点なのではないでしょうか。我々は刺激のない生活を嫌いますが、日常に対する刺激そのものである好奇心についてあまりにも軽い認識しか持っていないように感じます。人生は要求されたタスクをこなすだけのものではない、そう思いませんか?
(ちなみに、今まで多くの字数を割いてきましたが、この自説に私は全く確証を持っていません。強いて言うなら、確証を持てることがこの世に大して多くないということだけに対して確証を持っています。自説が間違っている可能性を認める勇気と、間違っていた時あっさり捨て切る勇気も、哲学が私にくれた貴重な財産でしょう。というのも、大半の哲学的な考察は誤りを孕んでいるので、間違いを繰り返すプロセスを哲学では辿ることになります。プラトンやデカルトといった偉大な先人たちも、その業績を多く否定されています。ですが、それが彼らの偉大さを霞ませるかと言うと全く違います。色々と批判されていると言うことが、それだけの価値があるということで偉大さの証明とすら言えます。最近では、もはや論の最終的な正しさは大した意味を持たないとすら思うようになりました。)

私にとって哲学は、まさに「好奇心を満たす学習」でした。直感的にも、「秩序とは何だろう」と思索するような哲学は、明らかに何かの必要性を満たすようなモノではなく、むしろただ単に何かを知りたいという欲から派生していることがわかります。特に哲学オリンピックの、問いに対峙してから思考を整理し7歳児でも順を追えばわかる論理に打ち込む、という行為を繰り返し、自分の人生や世界について理解を深めていくことは、まずモヤッとした感覚を明確にでき、次に直感からジャンプした新しい理解を得られるので、二重に好奇心が満たされます。例えば、誰しも別れを経ると「愛ってなんだ」のような問いを立ててしまうわけですが、哲学オリンピック的には「この問いはそもそも成立していない、悩む価値のない漠然としすぎた問いで、仮に悩むとしたらこうだろう...」と分析できるわけです。その結果、鬱々とした気持ちを整理でき、場合によっては事実を理解した結果自分なりに納得でき、良い心理状態を得ることができる、ということです。哲学は、豊かな人生を送るための「好奇心を満たす学習」の典型的な例です。前述のように多分野から人が集まる哲学オリンピックは、中高生に対し彼ら彼女らのバックグラウンドや分野を問わず、好きなように己の哲学を展開することを許してくれる場です。幸運にも日本は、哲学オリンピックに関わっていられる教育界の方々(特に梶谷先生、榊原先生、林先生の御三方)の手厚い支援や、哲学グランプリや選考会、平常時であれば大会と言った各種費用を担ってくださる上廣倫理財団のおかげで、低い敷居でこのコミュニティに参加することが出来ます。

私の文章を最後まで読んで下さった全ての方に、まずは哲学に対する好感や親近感を抱いて頂ければ、と思います。そしてさらに中高生がいるならば、哲学オリンピックへの挑戦をぜひともお勧めしたいですし、哲学オリンピック関係者の方々には手厚いサポートへの感謝を、そして哲学に触れている方々には強い連帯感を表明して、この体験記を終わりにさせて頂きたいと思います。

木場悠人

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