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【報告】2019年国際哲学オリンピック参加記

2019.06.18 梶谷真司, 林 貴啓, 榊原健太郎

 今年2019年の国際哲学オリンピック(IPO)はイタリア・ローマにて、5月16日から19日にかけて開催された。日本委員が3人体制となり、各年そのうち2人が代表団を引率して参加する形となった関係で、筆者(林)は昨年のモンテネグロ・バール大会には出席していない。2年ぶりの参加となり、かつ今回は初めて、代表団の座長を務める運びとなった。IPOがイタリアで開かれるのは2006年以来2度目になるが、前回は初めて筆者が委員として参加した機会であり、その意味でも感慨深いものがある。

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 かくして、今回参加するもう一人の委員・榊原健太郎氏、IPOの国内予選としての日本倫理・哲学グランプリ及び代表選考会を勝ち抜いた2人の日本代表の高校生・八橋嶺君と熊谷勇輝君と15日朝、成田空港に集合した。2人ともこの日に至るまでの哲学エッセイ・ライティングの訓練に積極的な取り組みを見せており、これまでの提出課題の考察内容もまた興味深い内容であっただけに、こちらとしても期待も高まるところであった。八橋君はヨーロッパ行きこそ初めてであるものの米国をはじめとして海外経験は豊富である一方、熊谷君にとってはこれが最初の海外を訪れる機会となる。立ち居振る舞いを少し眺めても、初めて異国に出るだけに期待と不安を隠せない様子の熊谷君と、すっかり外国慣れして余裕の振る舞いを見せる八橋君とでは対照的なところも見てとれた。
 ローマへはパリ・シャルルドゴール空港経由で向かう。フライトの時間の関係で、15日はフランスに夕刻到着、こちらのホテルに一泊し翌朝早くにローマに発つという旅程であった。パリ近郊の村・ロワシーのホテルでその晩を過ごす。翌朝は5時台にホテルを出て8時の飛行機に乗り、ローマ・フィウミチーノ空港到着は10時過ぎになった。そこから列車でローマ中心部・テルミニ駅に向かう。市街地に入ると街のいたるところで古代ローマの遺跡が目を引き、まさに街そのものが歴史ともいうべき景観を呈していた。主催のイタリア委員からの迎えが午後2時なので、それまで昼食とつかの間のローマ観光を楽しむ。後にIPO大会内にて主催者より提供された食事のことを思うと、これが美味しく本場のイタリア料理を味わえた実質最後の機会だったとはその時は思いもしなかった。
 そして会場へ。ローマ大会とはいうものの、会場はテルミニ駅からバスで40分ほどの距離ですっかり郊外、山中の施設であった。私にとっては2年ぶりの参加ということで再会を喜ぶ面々も多くいる一方で、昨年より若干減ったものの48か国の代表が参加しており初めて顔を合わせる人たちも少なくなかった。タイ、マレーシア、シンガポールといったアジア諸国からの参加者とも言葉を交わす機会を持つにつけ、IPOの世界的な広がりを改めて実感することともなった。私が初めて参加した前回のイタリア大会ではヨーロッパ諸国を中心とした20か国程度であり、その折を振り返っても思うところである。日本同様哲学が高等学校のカリキュラムに取り入れられている国は多くはないが、その一方でこうした大会に挑む高校生たちは世界各地にいる。哲学的な思考というのは、本来、思春期ただなかにある高校生たちにとって普遍の関心事であっても無理はないところなのだろう。
 開会式では来賓スピーチが一人ひとりかなり長引いた関係か、初日の夕食会からして予定がずれ込む。プログラムに各イベントの会場が記載されておらず、その場で主催者が場所を案内する。後のローマ観光の折にも、事前に予約を入れていなかったためか現地でしばらく並ばされる。こういったスケジュール管理には「イタリア式」としか形容しようがないものが感じられた。筆者はさほど驚きも感じなかったが。
 夕食時が本番のエッセイ・ライティングの前に日本代表の2人に最後に声をかける機会と見て榊原氏とともに壮行の一言をかける。これまで意欲的に取り組んできた2人のこと、きっとやってくれる……という期待を込めてのことであった。
 そして大会のメインとなる2日目・17日。各国代表の生徒たちがエッセイ執筆に勤しむ間、教員は講演聴講に続いて委員会を開催し、次年以降の開催国や、審査の方式について話し合った。すでに決定している2020年のポルトガル、2021年のカザフスタンに続き、2022年・ルクセンブルク、2023年・ギリシアが熱意あるプレゼンテーションの上で開催国の座を勝ち取った。ギリシアの開催地はオリンピアであり、まさに国際哲学「オリンピック」に相応しいというところであろう。
 今回の出題課題については本報告の後に翻訳があるのでそれを参照していただきたいが、4つのうちすっかり定着している「東洋枠」とでもいうべき一題では、それまで中国や日本の出典のみであったが、今回初めてインド哲学で『バガヴァッド・ギーター』から出題された。後で話したところタイ代表の高校生の一人も親和性を感じて選択したとのことだった。レオナルド・ダ・ヴィンチから出題されたのはご当地ということであろう。
 生徒たちがエッセイ執筆・提出を終えると、今度は教員にとって最大の仕事となる審査の作業に入る。「課題文との関連性」「課題文の哲学的理解」「議論の説得力」「議論の一貫性」「独創性」という5つの審査基準に即して、0.5点刻みの10点満点で評価を行う。審査の偏りを防ぎ一層の公平性を期すため、4、5人ごとのグループに分かれた教員たちが同一のエッセイ5編を審査したうえで、その評価についてディスカッションを交わすという方式は今回も踏襲される。
教員が自国の生徒が執筆したエッセイを審査することは絶対に無いように配慮を重ねて仕分けられている。渡されるエッセイは番号のみ付されているのでどこの国の生徒の手になるものは知るべくもないが、若き知性たちの思索の成果に触れるのは審査するこちらの側としてもいつも知的刺激に満ちたものである。私の参加したグルーブでは一部評価の分かれたエッセイがあったものの、最高評価のエッセイについては全員が一致する運びとなった。長い時間にわたる審査を終えた後、教員・生徒ともども深夜にアウグストゥス広場を訪れるイベントも組まれていたが、朝型人間で時差には弱い筆者にとっては厳しすぎるのでオミットした。

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 教員・生徒ともに大仕事を終えた3日目はローマ観光というイベントの日になる。午前中はカピトリーニ美術館、午後はコロッセオ(円形闘技場)を訪れる。その間にかなりの自由時間もあったので、筆者はコロッセオまで歩きがてら、周辺の史跡を回った。この目で見るコロッセオはその威容に瞠目する。近代技術の無い時代に、5万人を収容したという巨大施設が築かれていたことには驚嘆を禁じえない。なお安全上の配慮か、コロッセオの入り口では空港並みのセキュリティチェックが行われており、土産物として買ったものの一部を没収されてしまった人も出ている。こうした情報は今大会の主催者から知らせておくことが望まれただろう。会場に戻ると、夕食の後はジャズバンドによるコンサートが最後の夜のイベントとなる。音楽とともに、生徒たちも教員たちも(筆者含む)次第にステージ上や会場のあちこちで大いに踊ったことは忘れ難い。
 最終日となる19日はいよいよ結果発表と閉会式。受賞者の国・名前が読み上げられるたびに歓喜の声があがる。そして熊谷君が奨励賞、八橋君が銅メダルを受賞したことが発表された。昨年に続けての日本代表のメダル獲得が成る。かつ参加者両名が入賞を果たすのは日本代表がIPOに参加して初めての快挙。2人には心より祝意を表したい。
しだいに日本代表の水準もたびたび「賞を獲れる」ところに達しつつあるのかもしれないと感じ、今後にも希望を感じさせることとなった。参加することだけでも十分すぎるほど意義がある大会とはいえ、結果を出せたことは指導・引率に携わった者としても嬉しい限りである。そしてまた、参加した2人にとっては世界各国の同年代の哲学する高校生たちと知己を得たこともまた貴重な機会であった。哲学が世界に友情を結ぶ。そういう機会を手にするという意味でも、国内予選に挑む参加者たちの目標たり得るのがこのIPOというイベントなのだろう。
 帰路はやはりフランスを経る。帰国の飛行機は夜遅くからの出発だったため搭乗時間のかなりの部分は旅の疲れを癒す意味でも眠りにあてられ、往路に比べてもあっという間に過ぎた感が強い。そして日本時間で20日の夕方に無事羽田に到着した。
 筆者は今回初めて代表団の座長を務めることになり、正直に言えば相応の緊張も禁じえなかったが、無事役目を終えて、日本代表の高校生2人の入賞という成果とともに母国の土を踏み得たことに安堵する。参加するたびに感じる、各国の教員や参加高校生たちの熱意と、「哲学」という営みの奥深さ。自らの頭で考え、問いを立て、解決を探る。そういった力を試す場としてのIPOの意義深さを改めて感じると同時に、これを機に、日本における哲学、そして哲学教育がさらなる発展を見せていくことを願うところである。
 最後に、今回のイタリア大会の責任者であるFrancescaを中心としたスタッフのみなさま、長年にわたって日本のIPO参加の灯を守り続け、今なお温かいまなざしで見守ってくださる北垣先生、大会には出席なさらなかったが、日本代表団の参加にいたるまでさまざまのお世話をいただいた梶谷先生、今大会の出席でともに力を合わせた榊原氏、そして本事業へのご理解とご支援を惜しまず続けてくださっている公益財団法人上廣倫理財団にあらためて感謝を申し上げます。
(文責 林 貴啓)


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IPO2019 ローマ大会 課題文(日本語訳 言語は英独仏西語)


ポロス:するとあなたは、人に不正を行うよりも、むしろ、自分が不正を受けるほうを望まれるのですね?
ソクラテス:ぼくとしては、そのどちらも望まないだろうね。だがもし、人に不正を行うか、それとも、自分が不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けるほうを選びたいね。
プラトン『ゴルギアス』(469b-c)


行為のなかに無行為を見、無行為のなかに行為を見る人は、人間のなかの賢者である。そのような人は合一しており、あらゆる行為を既に成し遂げている。
すべての企てが願望と願望の誘因から解放されている人、行為が知識の火で焼き尽くされている人、そのような人を、実在を知る人々は賢者と呼ぶ。
そのような人は、行為の成果への執着を捨て去っており、つねに満ち足りていて、何にも依存することがなく、たとえ十二分に行為に従事していようとも、まったく行為していない。
『バガヴァッド・ギーター』(4.18-20)


理性を用いず眼を用いてその判断に従って画を描いている画家は、鏡のようなものである。なぜなら、鏡はその前に置かれているすべてのものをそれが何であるかを知ることなしに鏡(それ)自身において模倣するからである。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『アトランティコ手稿』


あらゆる読みは、読みちがいであり、読みなおしであり、部分読みであり、想定読みであり、勝手読みに他ならず、その基礎たるテクストからして、もとからそこに存在していたわけでも、そこに最終的に存在しつづけるわけでもない。世界というものが、その起源に遡ってばらばらな存在であるのと同様、テクストも、常にあらかじめ実践と希望に巻き込まれた存在である。
ダナ・J・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―』
New York(NY), Routledge, 1991, p.123-124.

(榊原 健太郎)

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