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【報告】カスリス先生 駒場キャンパス講演

2019.02.19 梶谷真司, 中島隆博, 石井剛, 佐藤麻貴

駒場キャンパスUTCPにて、オハイオ州立大学名誉教授Tomas Kasulis先生を迎えて、先生の最新の御著書“Engaging Japanese Philosophy”を執筆されるに至った背景について、お話をお伺いした。

Kasulis先生にとっては、今回の御著書は御自身の半生を振り返りつつ、研究対象であった日本哲学を御自身がどう捉え、どう解釈し、どのようにしたら西洋哲学とは異なる考え方を内包した日本哲学を紹介できるのか、というKasulis先生が永年抱えておられた課題に対する、ある種の回答のようなものだとされた。また、日本哲学の研究を志す者が、自分自身に哲学を引き付けて考えること、また、そうした態度こそが、日本哲学の真髄にあるのではないか、としてまとめられた。

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Kasulis先生が"Engaging Japanese Philosophy"の着想を得られたのは1976年にハワイ大学で教鞭を取られておられた折。当時は、日本哲学の歴史書が無く、日本思想史とは仏教思想史とほぼ同義であり、日本哲学を研究する初学者にとって、適当な参考書となるものが手に入らないことに対する不満から、本書執筆の着想を得られたということだった。「日本哲学とは法然、道元、親鸞などの仏教を中心とした宗教者を主体としたものだけではないはずではないか?」という着想は良かったものの、では、「誰の哲学思想をもって、日本哲学と言えるのか?」という自分で立てた問いに、御自身で納得できる回答を提示できるのに、40年以上、かかってしまったということであった。

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「何故、Engageという言葉をタイトルに選ばれたのか?」という問いについて、Kasulis先生は日本の仲人制度を事例として引き合いに出され、仲人は実際に結婚する当事者である二人の結婚生活が始まるはるか前から、結婚する当事者の二人の結婚生活に対して、detouchされているのではなく、仲人が先にengageしていると、そこから着想を得られたということであった。すなわち、日本哲学に対峙する態度としては、それをdetouched knowing(科学的に知る)という態度では、全く日本哲学を理解する事ができないという事実に直面し、日本哲学を哲学する(philosophizing)という行為は日本人にならないと不可能であるという暗黙の壁を、日本からすれば外部者であるKasulis先生は、どう超克できるのか?という問いとも重なるとのことであった。したがって、本書を執筆するにあたって、Kasulis先生が最も気を配ったのは、読者が「日本人のように考える」ことができるようにするためには、どうしたら良いのか、というという点にあったと説明された。

哲学が展開される「場(field)」、「哲学」と「哲学されたもの」は不可分であることから、何故、その時々の哲学者が、それぞれの時代背景の中で、それぞれが独自の「哲学」を提示せざるを得なかったのか、ということに注意を払わないと、本質的には各時代の哲学者が、「どのような問い」に対し、「どのように応答しようとしたのか」自体が分からないのではないか、ということも、併せて指摘された。

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本来的には、日本哲学は「哲学」の潮流に組み込まれていくことが望ましいと考えつつも、日本哲学の特異性を挙げるとしたら、それは何等かの時代の危機に対し応答しようとした日本の哲学者たちの態度「engaging」にあるのではないだろうか。また、そうした態度はKasulis先生が、晩年の西谷啓治と議論する時に、時によっては、まるで西田幾多郎が西谷に乗り移ったかのように感じたことが度々あったという御自身の経験を基に、京都学派における、ある種の師弟関係にも、そうした態度が見て取れたという事も指摘された。それは、師と「問い」を共有し、師の「問い」を我が「問い」のごとくに内省化し、内省化することにより「師と共に」「問い」に対峙し、考え続けるという哲学的態度に起因しているのではないだろうか。                                  (文責:佐藤麻貴)

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