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梶谷真司 邂逅の記録97 普遍の多様性~世界哲学としてのアジア思想

2019.01.15 梶谷真司

2018年12月9日(日)、本郷キャンパスの東洋文化研究所で「世界哲学としてのアジア思想」という国際シンポジウムが開催された。中国から陳少明(中山大学)さん、韓国から黄鎬徳さん(成均館大学)、アメリカからブレット・デーヴィスさん(Loyola University Maryland)を迎え、東大からは石井剛さん(総合文化研究科)、後藤絵美さん(東文研)が登壇した。司会は中島隆博さんと私が務めた。

イベントとしてはそれほど大掛かりではなかったが、ここに至るまでには長年にわたる経緯と必然性があるので、背景として少し説明しておこう。

UTCPでは、2012年から3年間、中島さんを代表として「グローバル化時代における現代思想――概念マップの再構築」(科研の基盤A)というプロジェクトを実施していた。その目的は、20世紀の現代思想の多様な展開を俯瞰しようとすることにある。ただしそこには、明に暗に前提されている西洋的な枠組み、その限界とバイアスを浮き彫りにしようという意図もあった。西洋哲学の概念を東洋の概念と突き合わせつつ、日本と韓国と中国の間でも比較研究を行い、東洋の思想を資産としつつ、それを世界で共有しうる問題や概念へと発展させる――このような「新しい普遍」への展望を持っていた。

今回のシンポジウムは、この「新しい普遍」のコンセプトを引き継ぎ、アジア思想の世界哲学としてのポテンシャルを議論するものである。その背景にある問題意識を振り返りながら、今回自分自身で考えたことを記しておこう。

そもそも哲学において、思想や概念の普遍性とは何か? 

これまでは、西洋哲学には普遍性があるとされてきた。だが、20世紀、西洋哲学が〇〇(西洋、人間、ロゴス、など)中心主義として批判され、「哲学の終焉」まで叫ばれるようになった。そのさい非西洋――中国、日本、インド、イスラム等――は、西洋に対する亜流であり、固有性はあっても限定的な妥当性しかもたず、それも西洋哲学に対抗ないしそれを補完するものとして位置づけられてきた。

では今日、非西洋の思想は、いかにして普遍的たりうるのか? それとも西洋も含めて、ただ特殊な哲学が併存しているだけなのか? 今回のシンポジウムは、普遍に至る可能性と問題点を考える非常にいい機会になった。

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最初の登壇者、陳少明(Chen Shaoming)氏の「中国哲学――世界に向かう地域の知」は、内容としては中国思想の伝統的な概念である「仁」や「道」の歴史をたどるものであったが、その多義性は、実は地方性と歴史性の重なりの結果だということだった。すなわち、もともとは特定の地方で用いられていた具体的な意味が、歴史とともに結びつき、統合され、抽象的で多義的な概念となったとのことだった。

つまり、ローカルで特殊な概念がグローバルで普遍的なものへと展開するのは、何も現代において始まったことではなく、歴史上、一つの文化の中でずっと行ってきたことなのである。その意味で、今日必要な方策は、伝統の中にこそ見出すことができると言える。このことは、哲学史に関する非常に新鮮で今日的な意義を示すものだろう。
 
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次にブレット・デーヴィスの発表「世界哲学における日本哲学」では、哲学を西洋のものとする考え方は、西洋においてさえ18世紀末(以後)の産物であって、それ以前は世界の各地に哲学があるという見方が一般的であった。日本で哲学を西洋のものと考えられているのは、まさにそのような時期に日本が哲学を受容したという、むしろ日本と西洋の歴史的な状況を反映しているにすぎないのである。

ならば、私たちがしなければならないのは、日本や東洋の思想の普遍性を探ることではなく、西洋哲学の普遍性じたいを相対化することであろう(デーヴィス氏は、哲学史の歴史を明らかにすることを提案している)。しかも西洋哲学そのものが多様な形態を内包していることを鑑みれば、特定の哲学を特権視するのではなく、つねに複数性と多様性において捉え、そこから普遍的に論じられるテーマや概念を見出していくことが必要である。

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黄鎬徳(Hwang Ho Duk)氏は、「コール・バック1940年代、飛地(エンクレーブ)の世界哲学と宇宙的雑説をめぐって――1937−1980の朝鮮半島、近代超克への試みの二つの形式」において、韓国の思想を普遍化(世界哲学化)する3つの道を論じた。一つ目は、

キリスト教というそれじたい世界的な思想の内へと取り込むこと、二つ目は、韓国の土着の思想を――とりわけ文学を通して――徹底し、西洋近代への対抗軸として自己形成すること、三つ目は、土着の方言に書かれた小説の中で韓国の様々な思想を取り込み、それによってを近代性を乗り越えること。

ここでは地域性――思想的にも言語的にも――を徹底することにより、普遍性へと突破する道が模索されている。それは安易に共通項・類似点だけを取り出したり、いたずらに自国の思想を普遍へと拡張したりするのではない葛藤と緊張が前景に出ている。

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後藤絵美氏の「現代におけるイスラームの思想、信仰、実践の連環」は、「崇拝(ibadah)」イスラムにおいて日常的な実践に焦点を当てる。近年、教育の普及のにより自らの宗教や文化についてあらためて意識化する努力が起きている。そこで崇拝は「イスラムの対象化」、が、おそらく当たり前すぎてコーランをはじめ古典のテキストでは、主題的に論じられてこなかった。そこでは概念的定義はされるが――「自己卑下と愛をもって神に身をゆだね、神の命令に従うこと」――、他方では日常の実践と芸術家の活動を具体的に見ていくことで浮かび上がってくる。

この試みが興味深いのは、日常の実践や芸術のように、概念的把握以前の、言語的制約を受けない次元をもつ領域において普遍性を探求しようとしている点であろう。このことは、思想を概念的な構築物ではなく、実践的な活動として捉え、新しい視点から思想を比較する可能性を開くにちがいない。

石井剛氏の「サイノフォン・スタディーズと中国哲学」は、中国哲学を中国という国ではなく、中国語系言語という言語と結びつけて捉える近年の動向を論じる。グローバル化に伴って中華系の人たちが世界に広がるにつれて、中国語系言語じたいの範囲が拡大している。このことは中国語がもつ巨大な多様性を前提し、中国語という特定の言語内の話にとどまるとはいえ、ここには言語的制約と言語的拡散から、思想の特殊性と普遍性の関係を垣間見ることができよう。

アジアから出発するにせよ、西洋から出発するにせよ、あるいは他の地域からにせよ、思想の普遍性、哲学の世界化においては、つねに何らかの意味での比較――文化的、歴史的、地理的――が不可欠であり、同時に言語/翻訳の問題を避けて通ることはできないだろう。思想が多様であり、複数形において語ることが重要だとすれば、言語も英語のような、何らかの共通語を使えばいいという安易な選択肢を取るべきではなく、多言語的な実践として試みるべきだろう。それが具体的にどのような形をとるのかも、試行錯誤をしていくしかない。今回のシンポジウムは、ささやかであれ、その端緒となったのではないかと思う。 (梶谷真司)  

                                                

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