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【報告】UTCP Trans-Asian Humanities Seminar 人文亞洲研討班(第九回)

2018.07.27 石井剛

2018年7月18日、第九回UTCP/TAHセミナーが東京大学駒場キャンパス101号館で行われた。今回のセミナーでは、華東師範大学思勉高等研究院博士課程の劉夏妮が報告した。東京大学総合文化研究科の川島真教授がコメンテーターを務めてくださり、司会は東京大学総合文化研究科の石井剛教授が担当した。報告は、「20世紀70年代における日中の反覇権条項問題」についてというテーマであった。

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1974年11月、日中両国は海運協定を締結した後、「日中平和友好条約」の第1回予備交渉を開始した。1978年8月12日にいたり、両国はついに合意して条約を締結するようになった。平和友好条約の交渉過程において、終戦問題や台湾問題など日中関係の固有問題は交渉当初はほとんど言及されず、重視されていなかったにもかかわらず、反覇権条項は日中両国の争点となった。当該条項が反ソ傾向を帯びるとされ、またソ連による一連の抗議と牽制行動をもたらしたため、日中の交渉はこの問題をめぐって難航した。最後は条約正文に第三国条項を入れることで妥結した。

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報告者の問題意識は、反覇権条項は既に「日中共同声明」で言及されていたにもかかわず、なぜ「日中平和友好条約」の交渉において最も大きな障害となっていたのか、という点にある。日中国交正常化の1972年から平和友好条約を締結した1978年にかけて、反覇権条項に対する理解及びその対象は一体どのように変化したのか。
報告者が日本外務省外交史料館所蔵史料及び国会会議録、朝日新聞、読売新聞などのデータベースを利用し、日中国交正常化と平和友好条約交渉における反覇権条項問題を分析した。国交正常化から平和友好条約の締結へ、反覇権条項への理解は次第に変わっていた。日中国交正常化の段階において、中国はソ連に対抗する他、日本軍国主義の復活を抑制し、自国を規制する考え方を持っていたと同時に、この問題に対して柔軟な態度を取っており、反覇権条項の協議における余裕を何度も表明した。一方、日本は、反覇権条項が反ソだと受け止められる可能性があることを、竹入及び外務省条約局は共に気付いていたが、どちらも重要視していなかった。正式な交渉において、当該問題に対して、如何なる争議も発生しなかった。「共同声明」調印後、反覇権条項に及んだ国会の討論とメディアの報道においても、反ソと関連付けるものは見受けられない。その代わりに、地域平和を維持する好影響が強調されるのが大部分であった。当時は、反覇権条項の対象について、日中自体、日米安保など様々な理解が存在した。これに対して、ソ連は日中の接近に対して警戒心を抱いた。グロムイコは反覇権条項の具体的な対象について大平に問い詰めたことがあり、日本の説明を受けた後、この問題を手放した。条約を巡る一回目と二回目の予備交渉において、日本は、反覇権条項が第三国を対象にせず、二国関係を規範化する条約とするのは控えるべきだと立場を表明していた。しかし、この問題を激化させたのは、まさに1975年1月に発生した東京新聞社による条約交渉の報道であった。この報道は反覇権条項と反ソを関連付け、日本国内では強烈な反響を引き起こしたほか、ソ連から一連の抗議と牽制行為を招いた。そこで、双方の反覇権条項に対する理解が次第に一致し、反ソに相当する意味が定着し、普遍的な意義を持つ条項の属性が無視された。

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川島教授は冷戦史研究の発展過程を総括し、各国の外交史料を利用して相互に証明するのが冷戦史研究の新たなトレンドの一つであると指摘した。東アジア冷戦を研究するのは米ソ関係に結び付けて分析する必要があるが、東アジア冷戦の特殊性を無視してはいけない。今回の報告について、川島教授は、この報告は主に日本の史料を利用し、日本の視角から分析しているが、アメリカ・中国・ソ連などの態度をも注目しなければならないとした。アメリカは各段階において如何にして反覇権条項問題を見るか?アメリカの意見は日本の外交選択にどのような影響を及ぼしているか?中国の外交史料がまだ公開されていないが、政治指導者の年譜と関連する人物の回想録を活かして、中国の各指導者の反覇権条項と日中締約への態度を究明してみることができる。最後、他の参加者は覇権概念の定義、日本政治界の内部は反覇権条項への見方について質問・検討した。

(文責:劉夏妮)

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