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梶谷真司 邂逅の記録93 「問いのアバンチュール」~新しい人たち人たちとつながる試み

2017.12.07 梶谷真司

12月3日(日)「問いのアバンチュール」というイベントを行った。11月11日のポッキーイベントに続く「恋」と「問い」をひっかけた企画の第2弾である。とはいえ、もとはと言えば、こちらがポッキーの日に行うはずの本命のイベントだった。今回はライターのさえりさんに来ていただいて、二人で対談?おしゃべり?しようという企画。そのきっかけとなったのは、彼女が昨年書いたインタビュー記事である。

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「本当に「私以外私じゃないの」か?東大の哲学教授・梶谷真司先生に聞いてみた」
https://liginc.co.jp/241030

これはLIGというウェブ制作会社のブログで、さえりさんはこの会社のライターだった。ある日彼女からメールで連絡が来て、「私以外は私じゃないの」という某人気バンドのヒット曲にちなんで、このことについて教えてほしいという。そもそも私はこの曲を知らないし、「私」の問題(自己アイデンティティとか独我論とか)の専門家でもない。教えられることはないというか、何を教えていいか分からない。なので、「教えるというより、一緒に考えるという感じならいいですよ。あなたにもけっこう質問すると思いますけど」と返答した。さえりさんも戸惑っていたが、とりあえず来てもらうことになった。

それで上のような記事ができ上がった。さえりさんの文章がいいことと、ツイッターのフォロワーが多いこともあって、この記事アップ直後から異例にたくさんの人に読まれ、数時間でトレンド入りも果たした。ツイッターの書き込みには、意外なほど哲学への関心が強く現れていて、しかも彼らの大半が、おそらくこれまで私とのつながりがまったくなかった人たちのようだった。今回の企画は、あの時のさえりさんとの対話が偶然ではなかったことを示し、彼女の周りにいる人たちと哲学を通して出会おうという趣旨である。

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どういうテーマでやるかは、あらかじめ決めておらず、さえりさんに話し合いたい問いをもってきて!とだけ伝えてあった。ただ、進め方については新しい試みを考えていた。さえりさんのイベントに来る人の多くは、「恥ずかしがり屋の若い女性」だということだったので、今回はツイッターのハッシュタグを使って、コメントや質問をその場で自由に書き込んでもらい、それを前後のスクリーンに映し出すようにした。これで手を挙げて発言するのが苦手な人でも参加できる。

30分前にはすでに会場に人が来始めた。今日は人数が多いことが予想されたので、上の階から椅子を移動するのに、例によって参加者に手伝ってもらった。みんな快く手伝ってくれる。これで始まる前から雰囲気が良くなる。

ハッシュタグを設定すると早速書き込みが――「設営なう」

椅子を乱雑に並べてもらって、好きなところに座ってもらう。すると「座席がぐちゃぐちゃ配置で楽しそう」という書き込みが。部屋で起きていることに反応している参加者の思いがすぐに目に見えるようになるのは面白い。

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 いよいよスタート。さえりさんが用意していたのは、次のような問いだった。

「文章を書いていると『自分の文章が上手に書けない』という質問が来る。「自分の思いって何かあるんだけどうまく表現できない」って言われますが、私は言葉にしないと、ないのと一緒じゃないかと思っています。でも質問する彼女たちはあると思っている。本当にあるんですか?」

いい問いだ。誰もが似たような思い、もどかしさを感じたことがあるだろう。私自身は、文章が書けない人は、まずは書いていないのだと思っている。ちゃんとした文章になるかどうか気にせず、とにかく文字にしていくこと、それに慣れていけば、書けるようになっていく。あとは目指しているところがずれているのではないかと思う。「ステキなエッセイが書けるようになりたい」と言っても、それはその人の文章ではないし、そんなものは目指すべきではない。自分自身の言葉を見つけて書けるようにすればいい。

というようなやり取りから、思考と言語の関係をめぐって、参加している人も巻き込んで、いろんな意見が出た。ハッシュタグにもたくさんコメントや質問が書き込まれた。そのどれもが面白いものだった。とくに人間の感情を表すのに、言葉は圧倒的に足りない、という話になった時、「語彙力と感情のバランスはどうすればよいか?」「言語をもたない動物は感情をもたないのか?」といった問いが書き込まれた。すると非言語的コミュニケーションへと話題は移る。

さらに「外に出せない感情はどこにあるのか?」「言葉にまだなっていない思いはどこにあるのか?」「頭の中にある言葉と出てくる言葉のちがいが生まれるのはなぜ?」「外に出せない思いを表現するために新しい言葉をつくるのか?」言葉によって思いが伝えられない時、はたしてそれは言葉なのか?」など、興味深い問いやコメントが次々にツイッターに表示される。それに私もさえりさんも、話の中で言及し、反応しながら、会場全体で話が進んでいく。

思いも考えも、結局言葉になったものがその時点での姿。自分の言葉、自分の思いにふさわしい言葉をどうやって見つけるか。語彙が豊かだったら、より自分の考えをうまく表現できるかと言えば、かならずしもそうではない。教養のある人、語彙の多い人の言葉は、むしろ嘘っぽい。素朴な言葉遣いでも、その人に合った言葉であれば、それが大切だ。

そこで話は次第に哲学対話で発せられ、交わされる言葉へと移っていく。哲学対話では、率直に言いたいことを言えるため、「その人自身」になれる。自分以上でも以下でもない、背伸びして大きく見せるのでも、卑屈に小さく見せるでもない、等身大の自分を表す言葉に出会うのが哲学対話でもあろう。そういう意味で哲学は、思いを言葉にすることで自らを解放することでもある。

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そういうわけで、休憩を取って後半は、哲学対話をすることになった。すでにいろんなことを考えた後の問いだし。次々に面白いのが出てきた――「夢を見るのはいいこと?」「承認欲求は自己実現を超えるのか?」「何でも言葉にするのはいいこと?」「やりたいことがないとダメ?」「なんでみんなすぐ「考えすぎ」って言うの?」「常識でどこまで縛られるべき?」「人が言葉をなくしたら、同コミュニケーションをとる?」「なんで恋愛しないといけないの?」「「ヘンな人」って思われたくない?」「なぜ物事に「意味」が必要なのか?」「なぜ大切な人を傷つけてしまうのか?」など。

二つのグループに分かれ、いずれも「やりたいことがないとダメ?」で対話をした。今日来ていた参加者の人たちには、周りから「考えすぎ」と言われる人が多かった。考えたくても、周りから許容されない苦しさ。そういう人たちにとって、思う存分考えていい場になったとすれば、それだけで十分意義があった。そして考えるために、自分の言葉を見つけ、相手に伝えようとすること。自分勝手ではなく、自分自身になるために。

今回は、さえりさんを通して、今まで関わりがなかった人たちに出会えた。参加者がツイッターに書き込んでくれた言葉は、どれも感度がいいものばかりだった。みんな実は哲学=考えることの近くにいる人たちなんだ。おかげで私の世界も広がった。このイベント、毎年の恒例行事にしよう。

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*当日の模様を参加者の一人Wind.さんが「かぜさいと」というご自身のサイトで丁寧に報告してくださった(http://windkaze.com/archives/2017120301.html)。また当日のツイッター上の書き込みは、「問いアバ」で検索すれば、見ることができる。

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