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追悼 ジョエル・トラヴァール

2017.05.15 中島隆博

ジョエル・トラヴァールさんが2016年3月7日に亡くなりました。友人のセバスティアン・ビリユーさんが書いた追悼記事を翻訳しましたので、ここに掲載いたします。

トラヴァールさんはUTCPにとっては実に重要な友人でありました。いまわたしはトラヴァールさんが勤務していたEHESSに滞在しています。その空間に身を置いて、トラヴァールさんを偲びながら、この翻訳を行いました。

2017年5月15日 中島隆博


追悼

ジョエル・トラヴァール (1950-2016)

セバスティアン・ビリユー

中島隆博訳

 2016年3月7日、悲惨な癌に数週間苦しんで、ジョエル・トラヴァールが逝去した。残念ながら癌に気付くのが遅すぎたのである。中国学は傑出した研究者を失った。優れた見識、巨大な知的好奇心、実に多様な文化世界に関するほとんど百科全書的な知識が、トラヴァールの深く独創的な思考を支えていた。また、同僚や友人からは、繊細で、エスプリに富み、根っから開かれた人物そして、大いに謙虚な人物としても記憶されることだろう。
 ジョエル・トラヴァールは、1950年にブレストに生まれた。グランゼコール準備級時代は1968年の戦闘的な雰囲気に彩られていた。その後、ウルム通りのエコール・ノーマル・シュペリオールに入り、そこではとりわけモーリス・ゴドリエ[人類学者]の授業に出席していた。トラヴァールはゴドリエとはずっと親しく付き合ったが、並行して、哲学と歴史の研究を行っていた。中央アジアに関心を持ったことから、考古学とその地域の言語(ソグド語、古典イラン語、そしてロシア語)を学ぶことになる。博士課程では、考古学者として、アフガニスタンのアイ・ハヌムというギリシア的な土地で働くことになった。そこで、フランス考古学代表団の最後のパンショネール・シャンティフィック[研究者]として、数年を過ごしたが、1980年のソ連の侵攻によって中断されることになる。それによって、トラヴァールの最初の学問プロジェクトは突然の終わりを迎えた。偶然が重なって、その後中国に行く機会を得た。最初は上海で学び、その後いくつかのポストに就くことになる。北京でのアタシェ・キュルチュレル[文化担当大使館員](1981-84)、香港中文大学での研究員(1984-1991)、そして香港での文化顧問である。文化顧問として行った重要な役割は、ミシェル・ボニンによるCEFC[Le Centre d’études français sur la Chine Contemporaine]の立ち上げを支え、ジャーナルであるPerspectives chinoisesの刊行を行ったことである。1994年にアジアを離れ、EHESSの中国センターの一員となった。
 ジョエル・トラヴァールの中国研究にはいくつかの大きな段階がある。最初の段階は、海南島北西部の民族学的研究に捧げられていた。公式的には漢族として分類されている人々の中に、いくつかの顕著な特徴が見いだされるというものであった。ここから、「ナショナリティ」の問題そして中華世界における「民族」の諸関係に関する一連の研究が始まった。トラヴァールはこれらを分析する際に、幅広いさまざまな文化的実践を通じて接近していった。すなわち、親族関係(系譜の構築)、宗教、ジェンダー間の諸関係(「夜這い」現象の研究とともに)に基づいて行ったのである。これらの論文のいくつかは、学生の世代にとっては古典的なものになっていた。たとえば、1999年のPerspectives chinoisesに掲載された「中華文化世界に適用された民族概念の用いられ方」がそうである。
 香港中文大学の新亜書院に長く滞在したことで、トラヴァールは中国の文化的世界への詳細な認識を持つことになる。その中でも、近代西洋哲学の観点から再考された儒教を考察したアカデミックな共同体に対してとりわけそうであった。ここからトラヴァールは二重の関心を持つようになる。すなわち、近代中国における西洋の諸観念の需要と、伝統的な儒教教育がどのようにカテゴリー化され、理論化され、実践されているかの方法についての関心であった。そして、2000年から2002年にかけて日本に滞在したことで、その思考に比較の次元が加わった。
 大陸中国での知識人の議論に関する鋭い論文(「記憶の政治学」、「夢見られた伝統」、「歴史意識と社会的想像力」)は、時代の精神を認識し、詳細に分析する豊かな才能を示している。それに加えて、トラヴァールの仕事は20世紀の儒教思想にも及んでいた。とりわけ、哲学者牟宗三(1909-1995)のケースがそうである。牟宗三をフランスの読者に初めて紹介したのがトラヴァールである(とりわけ「聖賢の理想と哲学的戦略-牟宗三思想序説」を見よ)。牟宗三がトラヴァールの関心を特に引いたのは、現代儒教の「哲学化」のある理念型を体現していたからであり、また中国でのカント需要を理解するのに不可欠な知識人でもあったからだ。ジョエル・トラヴァールは、中国でのカント受容を多く研究したが、同時に、ヘーゲル、シェリング、ウェーバー、シュトラウス、シュミットの受容、そしてアメリカのプラグマティズムが中国に与えた影響についても研究した。そして長く残る重要な著述を残したのである(「知的直観と現代儒教哲学」、「魔術から理性へ-ヘーゲルと中国の宗教」、「現代中国におけるプラグマティズムの魅力」等々)。残念ながら未完のものもいくつかある。
 トラヴァールの研究の最後の段階は、今日の中国における民間儒教の復興に関する研究であった。このプロジェクトによって、わたしはトラヴァールと十年ほど一緒に働く機会を得た。最初は民間儒教という観念が受容されるにはほど遠かった。出発点となった仮説は、儒教と同じくらい古い伝統が常に「遊魂」にとどまることはできないというものであった。「遊魂」は歴史家の余英時が唱えたものである(余はこの語によって、テキストの上には折りたたまれているが、古い実践からは離れている伝統を意味していた)。この状況を理解するために、一連のフィールドワークを行うことを決意した。ジョエル・トラヴァールがとくに夢中になったのは、社会の中で「生きられた儒教」を明らかにするという考えであった。それはアカデミックな場所ではなく、かつてトラヴァールが海南島で行った仕事の精神と再び結びつくものであった。それは、海南島の村落共同体の中に、古い儀礼的実践と系譜関係が保存されていたというものであった。この作業の結果、わたしたち二人はいくつかの出版を行った。それらは、刺激的な意見交換から生まれたもので、しばしばトラヴァールの味わいあるユーモアのセンスに彩られていた。これはトラヴァールの友人や同僚もがよく知っているものである。
 最後に、ジョエル・トラヴァールの知的な道程を語るのに、EHESSでのセミネールに触れないわけにはいかない。そこには学生の聴衆だけでなく多くの人々が参加し、席を見つけるのがしばしば難しいほどであった。トラヴァールはセミネールのいくつかを同僚や親しい友人と一緒に開くことを喜んでいた(エリザベート・アレス、アンヌ・チャン、ミシェル・ボニン)。そして、近くのカフェで生き生きとした議論がしばしば続いたのである。自分の知識を伝えることは、トラヴァールにとってきわめて重要なことであり、その教えの影響ははかりしれないものであった。セミネールで準備されていた多くの出版プロジェクトを完成させる時間はなかったが、それでも多くの重要な仕事を残してくれている。たとえそれがどれだけバラバラのものであろうとも。2017年にはトラヴァールの主要業績を集めた遺稿集が出る予定である。

出典:Sébastien Billioud, « In memoriam : Joël Thoraval (1950 -2016) », Perspectives chinoises, 2016/3.

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