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【報告】「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」

2017.03.28 川村覚文, 八幡さくら, 筒井晴香, 金景彩, 李範根, 石渡崇文

 2017年3月7日(火)、ワークショップ「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」が開催された。以下は企画・司会を担当した筒井晴香(UTCP特任研究員)による報告である。

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 本ワークショップは、日本のサブカルチャー(今回は主にアニメが話題となった)において見られるクィア性や攪乱性のあり方を考えたいという筒井の問題関心から出発したものである。司会・提題の筒井ほか、川村覚文氏(東京大学UTCP)、田中東子氏(大妻女子大学)を提題者に、隠岐さや香氏(名古屋大学)をディスカッサントに迎えて開催の運びとなった。

 川村氏の発表「帝国の記憶とアニメのポリティクス」では、アニメ『ラブライブ!』(2013-2015年)と神田明神のコラボ、また旧日本軍のモチーフが登場する「ミリ萌えアニメ」作品群、その中の一つである『ガールズ&パンツァー』(2012-2013年)への自衛隊の協力やコラボイベントの開催といった事例が取り上げられ、これらの作品群が単なる「ネタ」の範囲を超えてベタに戦前の帝国日本の肯定・復権につながってしまうのではないかという危惧が述べられる。
 川村氏は椹木野衣の議論を援用して次のように状況を整理する。戦後日本において、戦前から連続した国民的アイデンティティを持ちたいが持つべきでないというジレンマ状況が生じた。その中でマンガ・アニメ・特撮等日本のサブカルチャーは、それがあくまで虚構であるという前提の下で、虚構を通してアイデンティティへの欲望を充足させることを可能にした。また、虚構化され歴史性・倫理性を欠いた戦争や軍隊の物語は逆説的な批判性をも持ちえた。しかし、戦後70年をへて国民的アイデンティティへの欲望が再噴出する今日、アニメにおける虚構は戦前からのアイデンティティを回避させるのでなく、むしろそれに直接接続するような虚偽の歴史意識を構成してしまう危険性があるのではないか。
 グローバライゼーションの進む今日、日本アニメにおける神社やミリタリーといったネタに対して、ポストコロニアル的視座からの倫理的批判は切実な問題となりうる。他方で、ネタによって生じうる批判性・政治性をどう評価するかという問題もある。

 田中氏の発表「新しいメディア環境のもとで日本アニメを考える」では「日本的なるもの」を題材とするアニメ2作品『Axis Powers ヘタリア』(『ヘタリア』)と『サムライチャンプルー』が取り上げられた。今日、メディア環境の変化を経て日本のサブカルチャーがグローバルかつ同時的に消費されるようになったことを受けて、両作品の内容に加えその生産・流通・消費の文脈にも光が当てられる。
 『ヘタリア』はウェブ漫画(2006年-)を発端に書籍化、アニメ化し、近年では舞台化もされている。国を擬人化(主に男性キャラクター)した歴史コメディであり、典型的なエスニックジョークネタを多く含む。同作は国内外で人気を得る一方、国という政治性の高い題材に関してはファンの間でもしばしば論争を呼んできた。
 『ヘタリア』におけるステレオタイプ的な国の擬人化は、作り手側における受け手のグローバルな多様性に対する視点の欠如を示しているといえる。また、同作中で植民地支配や軍事同盟の歴史が国同士の兄弟や家族、友情といったメタファーによって語られる点はPC的には大いに問題である。2015年の舞台版は、生身の役者の演技や、衣装・舞台装置などのマテリアルな要素により、漫画やアニメ以上にストレートな軍国主義肯定に見えてしまう面がある。他方で『ヘタリア』では、擬人化された国達とその関係性の物語という設定が読み替えを可能にしてもいる。具体的には、中国のコスプレ愛好者により『ヘタリア』が中国中心の歴史観に読み替えられてコスプレ舞台劇化された例や、男性キャラクター同士の関係性に対するBL読みによる政治的文脈の無意味化といった例が挙げられる。
 アニメ『サムライチャンプルー』(2004年)は江戸中期を舞台にした二人の侍と少女のロードムービーである。主人公のひとりである琉球出身の侍をはじめ、作中では民族的マイノリティやアウトサイダーのキャラクターが多数登場する。また、衣装やダンス、音楽等において現代のヒップホップのモチーフが取り入れられている。侍というモチーフはともするとナショナリズムや文化本質主義に陥ってしまう可能性を持つが、本作は上記の特徴により、多種多様な人々の行きかう江戸時代を想像的に再構築して現代に接続させることを可能にしている。インタビュー等での制作者の発言には政治性・時代性に関する高い意識が現れていると同時に、テレビ放映上の規制という困難があったことも伺える。

 筒井の発表「現代日本アニメの攪乱性と危うさ:『プリパラ』、『KING OF PRISM』、『ユーリ!!! on ICE』」では『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ』(青土社)寄稿において取り上げた『プリパラ』、『KING OF PRISM』 及び同年のヒット作である『ユーリ!!! on ICE』 を取り上げ、日本アニメにおけるジェンダー攪乱性のあり方について考えた。
 『プリパラ』(2014年-)は少女がアイドルになれるバーチャル空間というSF的設定を持った女児向けアニメであり、大人の視聴者も多い。ステレオタイプに陥らない柔軟なジェンダー描写が評価を呼ぶ一方で、例えば第49話「いもうとよ」に見られるようなややきわどい描写や、成人ファンの存在を前提したイベント展開といった側面もある。教育的・啓蒙的な作品というよりは、性的な目線も含めた複数の消費の文脈をあえて線引きしないおおらかさ、猥雑さを備えた作品であり、その点が特有の魅力を生んでいるといえる。
 『ユーリ!!! on ICE』(2016年)(『ユーリ』)は男子フィギュアスケートを題材にした物語であり、国内外でのネット配信を通して実在のフィギュアスケート選手をも巻き込んだ消費・受容が見られた作品である。メインキャラクターである二人の男性「勇利」と「ヴィクトル」の間には、恋愛関係としての明示を避けつつも、愛の表現としてキスや指輪交換が描かれ、話題を呼んだ。また、スケートシーンや入浴シーンなど、セクシーな男性身体の描写も多く登場する。本作は優れたクィアアニメとして支持を得る一方、同性愛に親和的な描写を女性による男性の性的消費の言い訳にしているといった批判・反感も向けられた。
 『KING OF PRISM』(2016年)(『キンプリ』)は女児向けTVアニメ作品のスピンオフに当たる劇場版アニメである。声援やペンライトで応援しつつ鑑賞する「応援上映」のスタイルが話題を呼んだ本作は、男性キャラクターのヌードシーン・セクシーシーンを多く含むという特徴も持っており、一種の艶話と見ることもできる。『キンプリ』や『ユーリ』のように男性キャラクターの美しい裸体やセクシーシーンを含むアニメ作品は今日珍しくない(異性愛女性の欲望の肯定といった面ではよい傾向ともいえる)が、それらはしばしばユーモラスでシュールギャグ的であり、ベタに性的なのかどうか判然としない。
 上記の作品においては、ステレオタイプに嵌めづらいジェンダーや親密性の描写が見られるが、そのような柔軟さのひとつの源には、子供向けか大人向けか、ギャグなのかセクシーなのかといった点をあえて曖昧にしておく「猥雑さ」があると考えられる。他方でその曖昧さは、どんな表現がどの程度性的なのか、性的な表現だとして例えばゾーニング等に関しどういう扱いが要求されるのかといった点に関し、判断の難しさをも招きうる。

 3名の発表ののち、隠岐氏がコメントにおいて、各提題で示された状況を総括した。日本のサブカルチャー、特にアニメのダイバーシティを考える視点として、隠岐氏は作り手/受け手/作り手が想定するコミュニティの三点を挙げる。そして、日本のサブカルチャーにおいてはもっぱら作り手よりも受け手側において、つまり国際的に展開するファンの消費・創作において、受け手の創意工夫によるダイバーシティ的空間が実現しているのではないかと指摘する。この点は、例えばディズニー&ピクサー作品『ファインディング・ニモ』(2003年)に見られるような、多文化性や障害、性的マイノリティに対する明確な目配り・メッセージ性とは対照的である。日本のサブカルチャーはクィアではあるがユートピア的で、人種・性別・性指向の区別がない世界の描写を提示するものの、必ずしも実際の性的・人種的マイノリティに向けて発信されてはいない。そのユートピア性は、提題において示されたように、受け手による創造的な読み替えを可能にする一方で、虚構の歴史意識へ接続する危うさをも帯びている。

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 提題・コメントののちフロアディスカッションが行われた。以下では内容を抜粋して紹介する。話題の一つは人種的多様性の問題であり、『ヘタリア』や『ユーリ』等をめぐって議論がなされた。田中氏は『ヘタリア』におけるステレオタイプ化の例を踏まえ、単に民族的・人種的に多様な人々を登場させれば直ちに多様性が実現するわけではないと指摘した。また、受け手による創造的読み替えという点に関して、BL文脈での読み替えがダイバーシティにつながるものになりうるのかどうかといった問題提起もなされた。

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 最後に、イベントを終えての総括・コメントを簡単に述べておく。
 各提題で示された状況は次のように一般化して示すことができるだろう。日本のアニメ作品やその受容においては、一方で「ネタ」としてステレオタイプを反復しつつずらすことで生まれる、ドミナントな規範に対する攪乱性・批判性を持った多様な表現が、制作のみならず受容者の想像的な消費を通して生じている。他方で、そのステレオタイプが「ベタ」に受容されてしまうことで、単なるドミナントな規範の反復・強化になってしまうという側面もあり、両側面のせめぎ合いの状況がある。
 サブカル愛好者コミュニティ自体もまたひとつのマイノリティ集団と見れば「日本のサブカルがマイノリティの方を向いていない・向くべきだ」という主張自体に首肯しがたい向きもあるかもしれない(付言すれば、漫画・アニメの性表現を愛好するあり方のうちにはそれ自体をひとつの性的指向と見るべきあり方もあるだろう)。しかし、サブカルの文脈やコードを共有している層それ自体にももちろん多様性はあり、性的・民族的マイノリティもその中に含まれるであろうし、消費のグローバル化で多様化は一層進むと考えられる。今回の内容に即して言えば、隠岐氏はサブカル愛好者であると同時に、それ自体としての歴史性や社会的位置づけを有したマイノリティ集団としてのLGBTQの側に立った立場から日本アニメのユートピア性の利点・難点について整理を行っており、筆者にとっても学ぶところが多かった。
 グローバルかつ同時的な消費が一般化している今日、日本のアニメ・サブカルチャーが多様な立場からの視線にさらされ問われるということは避けられないだろうし、多様な立場からの想像的消費を通して変容していくことも予想される。私感では、そのような状況を契機としてなされるべきは、用語やモチーフの修正・自己検閲といった単純な仕方でグローバル基準に合わせることでなく、これまで生まれてきた作品群が誰の方を向いていたのか・誰にどのように読まれてきたのかを改めて振り返ることではないかと思う。そうすることで、短絡的な礼賛や非難でなく実情を捉え、評価することが可能になるのではないか。

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 本イベントの開催にあたりご協力いただいた皆様、またご参加いただいた皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。

 筒井晴香(UTCP)

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