Blog / ブログ

 

【報告】UTCPワークショップ「バートルビー再考」

2016.11.01 郷原佳以, 星野太

2015年12月17日(木)と18日(金)の二日間にわたり、東京大学駒場キャンパス101号館研修室にて、UTCPワークショップ「バートルビー再考(Bartleby Revisited)」が開催された。

本ワークショップは、2013年度から続く、ソフィア大学と東京大学(UTCP)の継続的な研究交流の一環として実施されたものである。今回、UTCPではソフィア大学助教のカメリア・スパソヴァ、マリア・カリノヴァ両氏を招き、同じくソフィア大学准教授のダリン・テネフ氏とともに、本ワークショップと、それに続く国際シンポジウム「文学における諸形象」を企画した。

12月17日(木)の第一セッションでは、冒頭で星野太(東京大学)が、これまでの両大学の交流にも触れつつ、本ワークショップの主旨を説明した。ハーマン・メルヴィルの『書写人バートルビー』(Herman Melville, Bartleby, the Scrivener: A Story of Wall-Street, 1856)に登場する「バートルビー」をタイトルに掲げたこのワークショップは、続く19日(土)のシンポジウム「文学における諸形象」への準備として、近代文学における特異な「人物/形象」としてのバートルビーについて広く議論を交わすことを目的としたものである。この日は、カメリア・スパソヴァ氏と郷原佳以氏(東京大学)による各30分程度の発表、および全体討議が行なわれた。

BR_1.jpg

スパソヴァ氏の発表は、(ジャン=リュック・ナンシーの書名を踏まえつつ)「複数にして単数の存在」としてのバートルビーに焦点を当てるものだった。まず、バートルビーの「単数性」とは、言うまでもなく「できればそうしない方が好ましいのですが(I would prefer not to)」という決まり文句(formula)に象徴されるような、その特異な言動・人物像に対して付与される形容である。しかし他方で、過去に多くの人々によってさまざまに解釈されてきたこの「決まり文句」は、時にバートルビーという人物、ひいては『書写人バートルビー』という物語そのものを単純化することにもつながりかねない。そこで注目すべきなのは、「単数性」とは対照的なバートルビーの「複数性」である。たとえばそれは、与えられた書類を淡々と書き写す「書写人」という彼の仕事内容に象徴的に示されていると言えるだろうし、「できればそうしない方が好ましいのですが」という決まり文句が、彼の同僚たちに次第に「感染」していくという事実も同じく見過ごすことはできない。以上のように、バートルビーを特異な単独者としてのみ捉えるのではなく、「書写人」としての職務や、決まり文句の「感染」といった観点から、バートルビーという人物の非−単独性を見ていく必要があるのではないか、というのが発表の全体的な趣旨であったように思われる。

続く郷原氏の発表は、ジゼル・ベルクマン『バートルビー効果』(Gisèle Berkman, L’Effet Bartleby : Philosophes lecteurs, 2011)の紹介を中心に、これまでバートルビーをめぐって提出されてきたさまざまな作家・哲学者の立場を明らかにするものであった。2002年から2005年にかけて国際哲学コレージュで行なわれたセミネールを元にした同作は、過去にブランショ、デリダ、ドゥルーズ、アガンベンらが行なってきたさまざまな「バートルビー」読解を整理しつつ、メルヴィルの『書写人バートルビー』が後世にもたらしたさまざまな「効果(effect)」について論じたものである。なかでも、今回の郷原氏の発表で強調されたのは、同書のタイトルに見られる「効果」および「読者としての哲学者」というテーマである。まず、前者について言えば、バートルビーをめぐって過去なされてきたさまざまな「解釈」の提出は、必ずしもポジティヴな「効果」であるとはかぎらない。むしろそれは、ミシェル・ドゥギーの言葉を借りれば――悪しき意味での――「文化的なもの」の領野に、バートルビーという形象を閉じ込めることにもつながりかねないものだ。ここから、後者の「読者としての哲学者」というテーマが浮上する。ベルクマンは同書の中で、ブランショ、デリダ、ドゥルーズ、アガンベン、ランシエールらによるさまざまなテクストを論じていくのだが、郷原氏の整理によれば、ベルクマンはバートルビーをある「哲学的な」読みに還元する傾向には総じて批判的であるという。ゆえに、ベルクマンが賛同するのは、ブランショと、ドゥルーズ(の一部)の読みに限られる。ベルクマンが立つのはあくまでも「文学」の側であり、文学という「謎」を前にした「哲学」は、そこである種の試練にかけられるのだ。

18日(金)の第二セッションでは、マリア・カリノヴァ氏と星野太がそれぞれ発表を行なった。

BR_2.jpg

カリノヴァ氏の発表は、メルヴィルの二つの作品、すなわち『書写人バートルビー』と『水夫ビリー・バッド』(1924)の比較を中心に進められた。この二作のタイトルの相同性に関する指摘から始まった同発表において、カリノヴァ氏は、後者にもまた『バートルビー』と同じような「決まり文句」が存在するという。すなわちそれは、「人権号(Rights-of-Man)」という商船に対する別れの挨拶(And good-bye to you, old Rights-of-Man)である。ここから、『ビリー・バッド』をめぐる幾つかの政治哲学的読解を紹介した後に、カリノヴァ氏は、同作にも『バートルビー』と同じ「意志の不在」、あるいは「否定なき否定性」を読み取ることができると述べた。

星野の発表は、スペインの作家エンリケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(Enrique Vila-Matas, Bartleby y compañía, 2000)の紹介に始まり、同作における「決まり文句」の増殖を主題とするものであった。発表のおおよその概要は、次のようなものである――ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』には、同作の語り手が「バートルビー症候群」と呼ぶ、書くことに対して何らかの「抵抗」を示す作家や哲学者たちがふんだんに登場する。ソクラテスからロベルト・ヴァルザーまで、きわめて多様な「バートルビー症候群」を紹介しながら進んでいく同作は、同時に小説であり文芸批評でもあるような特異な作品として屹立している。そのビラ=マタスの作品に登場する小説の中に、イタリアの作家ダニエーレ・デル・ジディーチェの『ウィンブルドン・スタジアム』(Daniele Del Giudice, Lo stadio di Wimbledon, 1983)がある。このジディーチェの小説は、ボビ・バズレンという、こちらもイタリアに実在した作家の素顔を追う男の物語である。『ウィンブルドン・スタジアム』は、『バートルビーと仲間たち』に登場する「バートルビー症候群」のなかでも重要な事例であると思われるが、その理由のひとつが、同作に寄せられたイタロ・カルヴィーノの序文の存在である。というのも、『バートルビーと仲間たち』に頻出する、ある「決まり文句」――未読の読者のために本報告では伏せるが、この「決まり文句」の多用は、明らかにバートルビーへのオマージュであろう――は、ほかならぬこのカルヴィーノの序文から借用されているからだ。この、いささか些細かもしれない指摘は、ビラ=マタスによる周到な間テクスト性の実践を示すものとして重要なものであろう、というのが本発表の暫定的な結論であった。

BR_3.jpg

事前に期待されていた通り、参加者のディスカッションを中心に据えたこの2日間のワークショップでは、以上に要約した個々の発表のみならず、『バートルビー』という作品をめぐって、きわめて豊かな議論が交わされた。本ワークショップにおいて浮上した論点は、翌日のシンポジウム「文学における諸形象」においてさらに展開されることになる(そちらの内容については別稿において報告する)。

報告:星野 太(金沢美術工芸大学専任講師)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】UTCPワークショップ「バートルビー再考」
↑ページの先頭へ