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梶谷真司「邂逅の記録87:心理療法と哲学の出会い」

2016.11.21 梶谷真司

11月3日から6日、東大駒場キャンパスにおいて、国際力動的心理療法学会(IADP:International Association of Dynamic Psychotherapy)の第22回年次大会の開催にUTCPとして協力した。

IADPは、現理事長である小谷英文氏が、アメリカで精神分析と心理療法を学び、日本でその知見を活かして精神的苦悩を抱えた人の治癒のために活動している。大会会長である橋本和典氏は、駒場キャンパスでカウンセラーとしても働いておられる心理療法士である。彼とは、福島での震災・原発被災地域でのトラウマ治療との関連で、哲学対話を行ったのが縁である。心理療法が重篤な症状の人を相手にし、患者は時につらく厳しい語りを体験する。それに対して哲学対話は、緩やかに柔らかく互いに語り、話を聞く場を開く。哲学対話は、そうした精神的な癒しにおいて、補完的な役割が果たせるかもしれないという感触があった。

トラウマ治療とは、危機を体験した人たちの精神的な傷をいやすものである。ところが、問題は、そうした経験をした人たちは――たとえば、震災・原発事故の被災者――は、それをできる限り忘れ、もう乗り越えたと考えようとする。だから地域でも学校でも、心理療法は乗り越えたはずのものを蒸し返し、忘れたはずのものを思い出させ、見えないようにしているものを目の当たりにさせるように見なされ、拒否される。「みんな元気に頑張っているのに、その邪魔をするのか!」というわけである。

けれども、実際には被災者が受けた傷は、乗り越えられてもいないし、忘れられてもいない。何の手当てもされないまま、ただ「なかったこと」「終わったこと」にされているだけなのである。だがその話を周りの人とすることは、ほとんど不可能である。学校でも会社でも、しばしば、そうしたつらいことを話すのを避けようとする力が働く。傷ついた本人も、そういう弱さを人に見せたくないし、自分でも認めたくない。人に気を使わせたくない、同情されたくない。だから「大丈夫です!」と言う。

私自身、東北大学の学生から聞いたが、震災後、周りの人たちがまるで何事なかったかのように日常を送るのを、不気味に感じていたそうである。平気なはずがないのに、平気であるようにふるまっている。それは彼にとって、大変な苦悩になったそうだ。震災自体が十分過酷な経験であったが、その後さらに傷が深くなった。いや、別の仕方で傷ついたと言うべきだろうか。

語るべきこと、語りたいことを語ることができない――このことは、哲学対話を通して、学校、会社、家庭、社会のいたるところで見えてきたことだ。そのような社会で、トラウマ体験を語るべき言葉など、あるはずもないだろう。それを心理療法士は、文字通り「命がけ」の治療を行う。患者自身の命だけではなく、その治療に当たる療法士自身の命も危機に見舞われる。それでも彼らがいなければ、救われない心がある。哲学対話にできるのは、せめてその手前で、語るべきこと、語りたいことを語る場を作ることであり、それが可能であることを示すことである。

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今回のIADPのシンポジウムは、橋本氏の強い希望で「心理療法と中国哲学」というテーマで行われ、UTCPの中島隆博氏が大会副会長を務めることになった。橋本氏も、また学会理事長で日本の心理療法をリードしてきた小谷英文氏も、長い臨床経験の中で、中国思想のなかに多くの示唆を見出してきた。また中島氏自身も、中国の思想形成にとって戦争のような危機とどのように向き合うかが、重要なモチーフであったと考えており、そこにこのテーマでの共同開催の趣旨がある。大会では、海外から4人の実践家が参加した。アメリカ・イスラエルからは、9・11でトラウマを負った子供や青年の治療に当たるセス・アロンソン氏と、アメリカ海兵隊のPTSD治療の専門家ラルフ・モーラ氏が参加した。中国からは中山大学心理健康教育カウンセリングセンター主任の李樺氏と、蕪湖市第二人民病院で臨床心理士として働いておられる李江波氏が招聘された。李樺氏は、諸子百家の思想研究を専門とする哲学者でありながら、学生の精神的ケアを行い、さらに四川大地震後のトラウマ治療にも奮闘しておられる。李江波は、老荘思想の無為自然等の考え方を実践にも生かしておられる。

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中島氏は、一日目は、「言語と精神のよりよい関係について」と題して、中国哲学の観点から心理療法における言葉の意義について考察する講演を行った。また二日目は、「混沌と神経症――中国の知恵・日本の知恵」というテーマで、森田療法研究の第一人者である北西憲二氏と中島氏の講演・対談が行われた。自らの治療法の確立の課程で、仏教、儒教、老荘思想から多くを摂取した森田が見出した「ありのまま」の思想の意味について議論が行われた。自分自身の「ありのまま」を受け入れるのは、決して受動的なことでなく、むしろ能動的なことであり、そこに自己の回復、新たな自己の形成が起きるのではないか、ということであった。

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私自身は、二日目に東工大のサテライトキャンパスで、心理療法の技法と哲学対話を組み合わせた公開ワークショップを行った。はじめにみんなで発生のエクササイズを行った後、哲学対話を行った。テーマは自由に出してもらい、「太陽の光や緑を見るとなぜほっとするのか?」「ストレスがたまった時、たくさん食べたりお金をたくさん使ったりするか?」「いつから疲れがこんなにたまってきたのか?」「うまく話せないのは自信がないからか?」「最近モヤモヤするのは声を出さないからか?」などの問いが出て、最終的には投票で「いつから疲れがこんなにたまってきたのか?」に決まり、対話を行った。対話の展開や質は、その場によって決まるが、ここでもまさにそうであった。やはり心理療法の専門家や、心の病や治療に関心を持っている人たちの集まりだったので、自分の疲れを過去や生活のなかでの執着、傷、後悔など、自分の心や人生を掘り下げていくような発言が多かった。対話の後は、臨床心理士の橋本氏が進行役となり、心の中にずっと引っかかっていること、こだわっていること、逃れられないことを話していくというワークショップを行った。

今回は、対話も含め、哲学と心理療法に通底するもの、連続性、共通性を考える貴重な機会となった。当初思っていたよりもずっと深いところで関連していることが分かった。「思ったことが言えない」ということは、トラウマ治療では、個人的・社会的な抑圧となって治癒の障害となり、人々にとっても社会にとっても大きな危機となる。この現状は、哲学の視点から見ると、教育や仕事においてごく普通に起きている「考える自由を奪うこと」と地続きになっている。そのことはまた、東洋思想や森田療法がテーマとした、「ありのまま」でいることの難しさに他ならない。今回「危機介入」をテーマに臨床心理の専門家たちとの出会うことで、私が哲学対話を通していろんな場で行ってきたことの社会的な意義や位置づけをあらためて捉え直すいい機会になった。

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