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【報告】<現代作家アーカイブ>文学インタビュー第五回:横尾忠則氏

2016.08.31

2016年6月20日の15時から、東京大学本郷キャンパスの総合図書館にて、<現代作家アーカイブ>文学インタビュー企画の第5回、美術家・横尾忠則氏(1936年-)への公開インタビューが開催された。聞き手は、作家の平野啓一郎氏(1975年-)である。

<現代作家アーカイブ>文学インタビューは、UTCP、東京大学附属図書館、飯田橋文学会の共同企画として開催されており、今回で第5回目を迎える。企画の詳細や過去のインタビューについては、本サイトのイベントページや過去の報告記事(※)を参照されたい。

(※)
第一回報告(高橋源一郎氏)
第二回報告(古井由吉氏)
第三回報告(瀬戸内寂聴氏)
第四回報告(谷川俊太郎氏)

今回のインタビューは、普段から電話でよく話をするほど、横尾忠則氏との個人的な関係もあるという平野啓一郎氏の進行により進められた。インタビューは、基本的には横尾氏の生涯を、幼少期から回想していくようなかたちで進行し、2人のユーモア溢れる対話は、会場を終始愉快な雰囲気に包んでいた。以下では、会場にて交わされた対話の全体のやりとりを記述することはしないが、インタビューのなかで最も印象的だった部分をいくつかピックアップし、紹介していくこととしたい。

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<創作活動の原点としての模写とメディアの位相>
横尾氏は、5歳の頃、講談社の絵本『宮本武蔵』に掲載された挿絵を模写しているが、その絵は、本物の絵にそっくりに見えるほど忠実に再現されていた。それが、氏の現存する最初の作品だと言う。氏は、現実にある風景を写生することにはあまり興味がなかったようである。氏の関心は、あくまでも、絵本や写真など、特定のメディア(媒体)において表象されているものを模写することにあったと言う。メディアに表象されているものを、自分の絵に還元させることに、彼の創作活動における原点があったのである。

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<戦争経験と死への恐怖>
横尾氏の戦前の記憶を蘇らせていく中で、平野氏は、横尾氏の創作活動において、戦争体験がどのような影響を与えたのか訊ねた。それに対し、横尾氏は、「実際どのような影響があったのか、はっきりとはわからないが、死に対する恐怖は自分の中に存在していた」と答えた。ところで、氏は、戦争を体験する中で死が近づいてくるような恐怖を覚えていたわけであるが、それ以前からも、常に死への恐怖を抱いていたと言う。実は氏は、4歳の時、実父の実兄の家庭の養子となったのだが、養父母がすでに年をとっていたため、2人に死がやってくることを想像し、死への恐怖を覚えていたようだ。氏はこのような、2つの次元の死への恐怖が、自分の創作活動において、何らかのかたちで存在していたのかもしれないと、捉えていた。

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<三島由紀夫との関係>
横尾氏と三島由紀夫(1925-70)の関係は、すでに他のインタビューや記事によって広く知られているが、今回のインタビューにおいても、氏と三島とのエピソードが多く取り上げられた。氏は1965年に東京で開催された初めての個展にて三島由紀夫と出会い、三島が没する70年まで、親交を持っていたのだが、三島との思い出話から、横尾氏が三島に抱いていた憧れが十分に伝えられた。氏は特に、作家業とともに、様々なメディアに露出する三島の活動ぶりを見て、三島の行動する作家としての一面に影響を受けていたようである。

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<グラフィックデザイナーか画家か:いわゆる「画家宣言」と主体性の問題>
横尾氏は、1960年、グラフィックデザイン界の大御所である亀倉雄策(1915-97)や原弘(1903-1986)などが中心となって設立された日本デザインセンターに入社する。実は氏の名を有名にしたのは、商業的なグラフィックデザインの作品群であった。しかしながら、そのような作品群には、単なる商業デザインとして片付けられないほど、アートとして見られ得る要素が内包されていた。氏がグラフィックデザイナーとしての活動を本格化していく過程で、1972年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にて個展が開催されるほど、国内外に注目されるようになる。
 このように、横尾氏は、創作活動を続けていくなかで、世界的に著名なグラフィックデザイナーとして位置づけられるようになるわけであるが、その過程でデザインとアートの境界を認識するようになり、自分の立ち位置についても考えるようになったようだ。そのような認識から、やがて氏は自己をめぐる問題に傾倒していくことになるのだが、その帰結として、氏は1980年代になってからは、「画家」として仕事をするようになる。
 それでは、横尾氏が、デザイナーではなく、画家になりたい、絵画をやりたいと思うようになった理由は何であったのだろうか。氏が絵を描きたいと思ったのは、自己に忠実でありたいという意識があったからである。つまり氏は、デザイナーとしての仕事は、その性質上、いくら主体性を発揮しようとしても、常にクライアントを考慮しなければならないが、画家としての仕事なら、自己により忠実になれると感じたのであった。

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<絵を描くということ>
「絵を描くということは結局のところ、どういうことなのか」というのが、インタビューの最後の質問であったが、これに対し、横尾氏は、「絵を描くことそれ自体が目的としてあること」と答えた。氏は、絵を描くという行為は、何かのために、誰かのためにあるのではなく、それ自体で完結している、自由な行為であると捉えている。即ち、氏の述べる絵を描くという行為とは、他を必要することなく、それのみで成立できるものとして構想されているのであろう。 

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以上が、横尾氏のインタビューにおいて取り上げられた内容の一部分の紹介である。インタビューに続いて、質疑応答の時間では、「横尾氏の創作活動におけるデザイナーあるいはデザインに対しての違和感及び肯定的意義」や、「氏が創ったポスターは、それが貼ってある空間を、横尾化しているのだが、人の眼を引くポスターはどのような意識の下で創られたのか」、また「個人的に交流があったジョン・レノンとのエピソード」、「影響を受けた作家は誰か」などの質問が挙げられた。これらの質問への横尾氏の答弁のなかで、最も報告者の心を響かせたものを紹介することで、本報告を締めくくりたい。

「横尾氏のポスターを見ると、ものすごいエネルギー感じてしまう、部屋に氏のポスターを一枚飾っておくだけで、その部屋は、もう自分の部屋ではなく、「横尾部屋」になってしまうが、横尾氏は、わざと意識して、力強くて目立つようなポスターを創ろうとしているのか、あるいは、創っていくうちに自然にそのようなものになるのか」という質問者の問いに、横尾氏は、「自然にそうなっていく」と、微塵の迷いもなくすぐに答えた。氏は続けて、自分がどのようなことを念頭においてポスターを創っていたかを話してくれた。
 氏は「ポスターは、クライアントの要望に沿えるように、創らなければならない。そのような前提を満たしつつも、気付かれないで、その要望に反抗してみようという遊び感覚でやってみたりする。それはゲームでもあり、遊びでもある。そういう遊ぶ自由というのを、楽しめるというか、作品に持ち込むことによって、わからないものを創ってしまう」と述べていた。自分は、あくまでも、「わからないもの」を創っていったのだと。この発言を聴いて、報告者は、横尾氏の創作行為において通底しているものがあるとするならば、それは、「行為自体への忠実さ」ではないだろうかという印象を受けた。「意味」や「理解」という次元を希求しないで、たとえ依頼された仕事であるとしても、出来る限りにおいて徹底して自分の創作行為そのものに忠実でいられる、夢中になれる力が、横尾氏にはある。80歳のアーティストは、今後も夢中となって、自分の創作行為そのものに忠実でいつづけていくであろう。


文責:李範根(UTCP)

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