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【報告】「共生のための障害の哲学」第19回研究会・シンポジウム「合理的配慮の現在と今後」

2016.06.06 石原孝二, 筒井晴香, 共生のための障害の哲学

 2016年4月17日(日)、「共生のための障害の哲学」第19回研究会・シンポジウム「合理的配慮の現在と今後」が開催された。以下はオーガナイザーを務められた石田柊氏(東京大学)による報告である。

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 2016年4月17日、東京大学駒場キャンパスにおいて、「共生のための障害の哲学」第19回研究会「合理的配慮の現在と今後」が開催された。本研究会の焦点は、去る4月1日に施行された「障害者差別解消法」の中心的理念「合理的配慮 reasonable accommodation」である。「合理的配慮」とは、主に就労や教育の場で、障害者が能力を発揮するために必要な環境調整を行うことであり、これは「アファーマティブ・アクション」(障害者全体に利益供与を行うことで障害者を救済する政策)と対比される。けれども、「合理的配慮」の意義や正当性、および具体的にどのような環境調整が「合理的配慮」であるのかについて、日本はもとより国際的にもまだ共通した認識は得られていない。そこで、この理念に関わる研究者が、理論・制度・実践といった多角的視点から議論を交わすことを通して、「合理的配慮」に関する理解を深め、現在および今後の課題を明らかにすること、および国内の「合理的配慮」に関する議論を活性化することが本研究会の目的である。研究会では、長瀬修特別招聘教授(立命館大学)、近藤武夫准教授(東京大学)、および報告者である石田柊(東京大学大学院)の3人が論題提供・発表を行った。以下は、3人の発表およびそれを踏まえたパネル・ディスカッションの様子を報告するものである。

 はじめに長瀬氏が、米国と日本に焦点を当て、障害者関連法制の歴史と今後の課題を解説した。世界人権宣言や公民権法を通して、20世紀後半の米国は人権の擁護に熱心に取り組んできた。けれども、障害者の権利が(福祉の主題ではなく)人権の主題と捉えられるようになったのは、相対的に見れば最近のことである。「合理的配慮」もまた、先行する宗教差別禁止政策から、後発の障害者差別禁止政策に応用されたものである。そして、障害者の人権擁護の必要性が一定のコンセンサスを得ている現在でも、課題はまだ残っている。第一に、障害者権利条約および「合理的配慮」の理念そのものが、決して単純明快なものではない。このため、日本や北欧諸国では、批准や国内法の整備が非常に慎重に行われている。第二に、「合理的配慮」が即時実施義務であるのに対し、「教育を受ける権利」自体は漸進的義務と考えられている。学校があれば「合理的配慮」の提供という義務が生じるにもかかわらず、そもそも学校がなければこの義務は生じないのである。「合理的配慮」の理念を空洞化させないためには、この矛盾の解決が期待される。

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 次に近藤氏が、教育現場での「合理的配慮」の実践例を紹介し、それらの意義を説明した。「合理的配慮」の典型例として、視覚障害や学習障害を持つ児童生徒が試験や授業を受ける場合に、紙の教科書・ノートの代わりに(タブレットなどの)ICT機器の使用を認めるというものがある。ICT機器は、文章の音声読み上げ、文字の拡大、フォントや色の変更、文字のキーボード入力等に用いられる。実際に、紙を使った書字・読字に困難がある児童生徒の中には、このようにICT機器を用いることで、試験や授業の内容をよく理解し、適切にノートを採り、解答を筆記できる人がいるのだ。こうした取り組みは、とくに米国の教育機関では幅広く行われており、障害を持つ多くの学生が大学で学んでいる。翻って日本では、教育機関における「合理的配慮」はまだ発展途上だと言える。しかし、「合理的配慮」の実施を妨げている原因は、機会の均等性に関する認識の不十分さ、すなわち差別を防ぐために異なる取り扱いが求められうることが広く知られていないことだけではない。国内での前例の少なさに起因する教育現場でのノウハウ不足も、「合理的配慮」の実施を妨げているのだ。それゆえ、「合理的配慮」の提供が求められる側への啓発はもちろん、より多くの前例を積み上げること、および「合理的配慮」を受ける側が自らニーズを説明することも、今後求められるのだ。

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 最後に石田(報告者)が、「合理的配慮」という語の意味の曖昧さを解消することを試み、その研究成果を発表した。米国の連邦最高裁・地方裁の判決文において “reasonable accommodation” の語は遅くとも19世紀初頭から断続的に使われており、人権擁護というトピックに特有の概念として作られたわけではない。伝統的な用法は、現代的な人権概念とはむしろ関係のない用法であり、とくに顕著なのは、民事訴訟における原告と被告との利害調停や相互の合意を意図した用法である。こうした利害調停の用法は、人権擁護の文脈にもある程度共有される。たとえば、障害者に対する「合理的配慮」は、当初は連邦政府と企業との利害調停を意味していた。すなわち、企業の利益を無視した障害者雇用促進政策が失敗したことを受けて、障害者の権利を現実的に保障するために、連邦政府は企業の利益を考慮しながら障害者の雇用を促進したのである。このとき、従来的な「アファーマティブ・アクション」が見直され、「合理的配慮」の語が導入されたのである。

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 3人による発表を踏まえて、質疑応答とパネル・ディスカッションが行われた。そこで論じられたのは、いずれも「合理的配慮」を受容し実践しようとする日本が今後取り組むべき課題である。第一に、「合理的配慮」はいわゆるジョブ型雇用に強く依存しており、いわゆるメンバーシップ型雇用の場合には「合理的配慮」自体が成り立たない可能性がある。第二に、米国の障害者関連法制は傷痍軍人の救済を起点としており、他の人権擁護法制と同じ文脈で論じられない点が多い。第三に、「合理的配慮」は政治的リベラリズムを背景としており、意思の表明が困難でない障害者ばかりが対象となるという批判がなされてきた。とくに第三の論点については、今後の日本の実践が「合理的配慮」の射程を広げる可能性を秘めている。しばしば「合理的〈配慮〉」という訳は誤訳として批判される。しかし、意思の表明が困難な障害者への「合理的配慮」は、周囲の人間が当人の困難に気づき声をかけるという〈配慮〉から始めざるを得ない。このような〈配慮〉がなければ、「合理的配慮」の恩恵は一部の障害者にしか与えられないだろう。

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 本研究会を通して、日本が「合理的配慮」を受容・実施する上で直面する課題が明らかとなった。日本を過度に特別視することは別の危険をはらむ。しかし、現に「合理的配慮」はハイコンテクストな理念であり、その咀嚼と消化はじっくりと腰を据えて取り組むべき課題である。「合理的配慮」理念によって日本の障害者の権利保障が実現されるか否かは、「合理的配慮」の理念と既存の日本の制度とが今後 “reasonably accommodate” されるかどうかにかかっていると言っても過言ではないだろう。

報告:石田柊(東京大学)

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