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【報告】国際シンポジウム:「日本における<フレンチ・セオリー>」

2016.03.31 桑田光平, 小林康夫, 郷原佳以, 星野太, 西山雄二, 大池惣太郎

3月19日(土)、パリ国際大学都市ハインリッヒ・ハイネ館にて、シンポジウム「日本における <フレンチ・セオリー>」(« French Theory » au Japon)が開催された。本シンポジウムは、国際哲学コレージュ(CIPh)の主催、首都大学東京およびUTCPの共催によるものであり、UTCPからは3名(小林康夫、桑田光平、大池惣太郎)が参加した。

本シンポジウムは、6年に亘り国際哲学コレージュのプログラム・ディレクターを務められた西山雄二氏と、元ディレクターのジゼル・ベルクマン氏、および現ディレクターのジェローム・レーブル氏ら三人のイニシアチブにより実現されたものである。その趣旨は、1960年代以降フランスで興隆したいわゆる「フレンチ・セオリー」の日本における受容、および日本からの還流を再評価し、そのアクチュアルな争点を問い直すことだった。

当日は、3月の陽が差し込むドイツ館グランド・ホールを会場に、日本の中堅研究者からなる6名の発表者、国際哲学コレージュを中心とした4名のコメンテーター、そして「日本における<フレンチ・セオリー>」を長年に亘って牽引されてきた小林康夫先生をクロージング・リマーカーに迎えて、計11名が参集した。会場には日本とフランスから多くの来場があり、セッションごとに来場者を交え活気あるディスカッションが交わされた。9時間超に及んだ会の全体についてここで詳述することはできないので、以下、シンポジウムの流れとハイライトのみを簡単に振り返って報告としたい。
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午前の部では、星野太氏(東京大学)と関美玲氏(立教大学)により、それぞれジャン=フランソワ・リオタールとマルグリット・デュラスについて報告が行われた。コメンテーターは姜丹丹氏(上海交通大学/CIPh)と大池惣太郎(パリ第7大学)が務めた。
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星野氏の発表は、日本におけるリオタールの受容を三期に分けて概観したのち、続いてリオタールにおける「日本」の姿について報告するものだった。発表においてとくに強調された点は、『ポストモダンの条件』の作者として知られるリオタールが、意外にも「ポストモダン」的状況の典型と見なされた当時の日本についてほとんど言及していない事実である。リオタールが参照したのは、「能」(世阿弥)や「禅」(道元)といった古典のなかの「日本」であり、星野氏は、リオタールの関心が、日本固有の完成された「記号のシステム」にではなく、その完成を自ら破砕する「リビディナルな圧力」に向けられたことを指摘した。さらに星野氏は、それが当時リオタールの論じていた「リビドー経済」と通底するものであることを明らかにしつつ、リオタールの思想と日本の伝統との間の「アナクロニックな関係」を浮き上がらせた。

続いて関氏は、マルグリット・デュラスが脚本を手がけた映画Hiroshima mon amour(アラン・レネ監督、邦題『二十四時間の情事』)を中心に、デュラスが前衛作家として日本に流入される過程を詳細に辿った。多岐に亘る内容をここに記すことはできないが、いずれにせよ全体から浮き上がったのは、この映画をめぐる日仏の言説の複雑な錯綜の様子であった。「ヒロシマ」の政治性・歴史性に対する製作者サイドの距離感や配給会社の商業的意図、それらに対する日本批評家の違和感や苛立ちなど、映画が当初、ヌーヴェル・ヴァーグの前衛的映画に収まらない多面的な観点のなかで受容されたことが報告を通じて浮き彫りにされたと言える。また最後に関氏は、近年日本で同作家をめぐる回顧的な催しが断続的に続いていることを紹介し、日本におけるデュラス研究の活況を強調しつつ報告を締め括った。

続いてコメンテーターを交えたディスカッションが行われた。最初のコメンテーターは報告者(大池)が務めた。大池は、映画Hiroshima mon amourにおいて日本的な歴史性/身体性の抹消があることや、リオタールと世阿弥の演劇論の間に、諸関係の外へと向かう批評=批判のプラクシスと、固有のエートスの内へ徹底的に内在する修行のプラクシスという根本的な位相のねじれがあることなどを指摘したうえで、「フレンチ・セオリー」と日本との「出会い損ね」の理解にむしろ生産的批評の可能性があるのではないかと締め括った。

続く丹丹氏のコメントは、中国におけるリオタールやデュラスの翻訳状況を整理し、さらに「中国における<フレンチ・セオリー>」を外観する貴重な報告だった。とくに興味深かったのは、「フレンチ・セオリー」が急速に中国の大学へ紹介される過程で、柄谷行人や浅田彰、『批評空間』といった日本の知識人が媒介として大きな役割を果たしたこと、またその結果生じた欧・中・日の言説の「混交」状況が、中国の大学人・知識人のアイデンティティをいっそう脱中心化させているという事実などであった。

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午後の第一部では、CIPh元ディレクターのジゼル・ベルクマンをコメンテーターに迎え、桑田光平氏(東京大学)と郷原佳以氏(東京大学)により、ロラン・バルトおよびモーリス・ブランショをめぐる報告が行われた。
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桑田氏はまずバルトを「学ぶ」、あるいは「教える」ことの困難を指摘し、バルトの魅力的な概念装置を「セオリー」として学ぶことがかえって彼の「批評」と逆行すること、バルトの受容は「彼について」書くことではなく、むしろ「彼とともに」書こうとする批評のプラクシスのうちにあることを論じた。また発表の後半では、バルトが訪日の際に残したメモや草稿から、日本におけるこの批評家の「疲労」が巧みに読み解かれた。詳細を報告する余裕はないが、なかでも『記号の帝国』に書かれた「『ムール貝』を詰めたピーマンのてんぷら」という奇怪な料理名から、日本とフランス双方の「ステレオタイプ」へ向けたバルトの批評を浮き彫りにした氏の考察には、鍛えられたエクリチュールによるバルトへの応答がまさしく企てられていたように思われた。

続く郷原氏の発表は、最初にブランショにおける「批評」の射程を掘り下げて考察し、次にその観点から、日本の翻訳家=批評家たちのブランショ受容における密やかな功績へと光を当てるものだった。郷原氏は未完に終わったブランショの『国際雑誌』(Revue internationale)の計画を取り上げ、彼の「雑誌」に対するパッションは「すべて(tout)」へ赴こうとするパッションであると指摘する。それは完結した「全体(totalité)」への欲望とは異なり、逆に「全体」の外へ、あるいは「間(entre)」へと向かう情熱であると郷原氏は論じ、そこから「翻訳家はある意味で、雑誌の真なる作家となろう」というブランショの一節が解読された。それによれば、翻訳家はまさに「間」へのパッションを生きる者であり、ブランショ的「批評」の体現者そのものとなる。最後に、粟津則雄、清水徹、宮川淳をはじめ日本の翻訳家=批評家の仕事を丁寧に紹介した郷原氏の発表は、まさしくブランショと日本の「批評」をつなぐ友愛の証言だったと言えるのではないか。

続いて、本セッションのコメンテーターであるベルクマン氏とのディスカッションがあった。ベルクマン氏は、バルトとブランショの「批評家」としての類似点−−−既存の理論や概念から距離を取ろうとすること、「中性的なもの」をめぐる同じ関心など−−−を確認した上で、発表者へ多岐にわたる質問を行った。そのいくつかを紹介すれば、「バルトは実は晩年になっても理論への関心を持ち続けていたのではないか」、また逆に「ブランショの批評には時代を通じた<進展>が認められるのではないか」というような質問であったが、それに答えて桑田氏は、バルトの理論への態度には否定でも肯定でもない両義性があり、それはいわば理論のエロス化とでもいうべきものであると応答した。また郷原氏とベルクマン氏の間では、ブランショにおける「進展」の有無をめぐり熱の入った議論が繰り広げられた。

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午後の第二部では、廣瀬純氏(龍谷大学)と西山雄二氏(首都大学東京/CIPh)より、それぞれジル・ドゥルーズとジャック・デリダに関する発表報告が行われ、コメンテーターにジェローム・レーブル氏(CIPh)が登壇した。
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廣瀬氏の発表は、ドゥルーズにおける「日本人」の概念を、その映画論を通じて浮き彫りにするものだった。ドゥルーズにとって「日本人」は実在の民族というより一つの「概念」であり、それは一貫して「地平線の知覚」という別の概念とともに使用されている、と廣瀬氏は指摘する。ドゥルーズがとくに「日本人」的とみなす映画は小津安二郎の作品だが、それによれば小津映画は日常的凡庸さを不変的な「地平線」とするのであり、そこにおいてはいかなる変化も凡庸さのうちに知覚されることになる。ドゥルーズはそうした小津映画に、「映画史」ひいては「歴史」に拮抗する別の知覚の形式(「分類学」)を見るのであり、廣瀬氏はそこに、まさしく「日本人になる」ことで「映画史」からの逃走線を引くドゥルーズを見出す。ドゥルーズにおける「日本人」とは、「地平線の知覚」を持つ「来るべき人々」ではないかと問い、廣瀬氏は発表を終えた。

続いて西山氏は、日本におけるデリダの翻訳史や、デリダ来日の際の様々なエピソードを豊富な写真資料と共に紹介し、また<空間>、<島国性>、<写真の切迫>といったテーマを通じて、デリダと日本との交点を探った。そこで紹介された日本におけるデリダの受容の歴史から何か一つハイライトを取り出すとすれば、1978年に磯崎新がパリ装飾芸術美術館で開催した「間(MA):日本の時空間展」がまず念頭に浮かぶ。そこでは日本の空間の概念(「間」)とデリダの「コーラ(khôra)」をめぐる哲学の交錯が試みられたのであり、西山氏は様々な位相からその同一性と差異を分析した。西山氏の発表は全体を通じて、デリダと交流した日本の知識人たちへの参照に溢れており、それ自体がデリダおよび日本のデリダ研究へ向けたひとつのオマージュとして構成されていたと言えるだろう。

その後ジェローム氏より廣瀬・西山両氏に対して、様々なコメントがなされた。その内容についてここで細かく振り返ることはしないが、その後も会場を交えた盛んなディスカッションがあったことを報告しておきたい。

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最後に、UTCPより小林康夫先生(青山学院大学)がシンポジウムのクロージングを務められた。
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小林先生は「日本のフレンチ・セオリー」の歴史と併走されてきたご自身の活動を振り返られ、その中で生じたいくつかの重要な瞬間、パッション、出来事の記憶を会場に居合わせた人々と分かち合った。そこには示唆に富み心に響く多くの言葉があったが、その一つ一つをここで報告することはできない。会の趣旨に照らして一つ紹介するとすれば、「フレンチ・セオリー」に関する次のような言葉である。「それは本来、野蛮で荒々しいものです。それは理論ではない、暴力なのです」。そこから先生は、「フレンチ・セオリー」がその名と外観に反して、構築、翻訳、構造を志向するフランス的知性に対する野蛮な反抗にほかならないということを指摘され、「フレンチ・セオリー」のそうした荒々しいダイナミズムが、情報論的なものの全体化のなかでもはや終息している今日、脱構築を経た再構築(reconstruction)を何らかの形で模索する必要があると強調して、シンポジウムを締め括られた。

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最後に、本シンポジウムは、CIPhにおいて6年に亘りプログラム・ディレクターとして活動されてきた西山氏にとって、その活動の総括となる催しでもあった。同時に、「日本における<フレンチ・セオリー>」のアクチュアルな試みとしても、それ自体一つの節目を刻む催しだったと言えよう。
当日会場の準備等を行ってくださったCIPhを中心とするスタッフの皆さんにこの場を借りて感謝を申し上げ、報告を終えたい。

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文責:大池惣太郎(パリ第7大学/UTCP共同研究員)

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