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【報告】シンガポール哲学ワークショップ

2016.03.29 信原幸弘, 林禅之, 西堤優

シンガポールの南洋理工大学(NTU)の三宅輝准教授をオーガナイザーとして、同大学で2016年3月16日にNTU-Tokyo Workshop on the Philosophy of Science, Mind, and Moralityが開催された。このワークショップでは、UTCPから4名(信原、西堤、林、千葉)、NTUから4名、オーストラリアのモナシュ大学から1名、日本の埼玉医科大学から1名、合計10名が研究発表を行った。発表者以外の聴衆は約10名であった。発表のテーマは多岐にわたり、自己知、病的妄想の哲学、道徳に関する暴露論法、道徳的実在論、功利主義、博愛、自己制御、現象的意識、意識の流れ、地震学のモデルと表象について、じつに興味深い発表がなされ、また各発表について活発で有益な議論が交わされた。以下、UTCPから参加した4名の発表の様子を発表者自身により簡単にお伝えする。

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信原幸弘 “How can we explain both tenacity and restrictedness of delusions?”

妄想は他者からその誤りを合理的に説明されても執拗に維持される。この執拗さが妄想の定義的特徴である。しかし、多くの妄想には、もうひとつ重要な特徴がある。それは限定性である。たとえば、カプグラ妄想の患者は、自分の妻を見ても、親しみの感じが湧かないために、妻を妻だとは思わずに、妻に扮した詐欺師だと思うが、かれが抱くのはこの妄想だけであり、かれのもつ誤った信念がすべて妄想になるわけではない。

妄想についての代表的な説としては、「経験の異常」と「信念評価の異常」というふたつの要因によって妄想が起こるとする二要因説と、「経験の異常」のみによって妄想が起こるとする一要因説がある。しかし、二要因説は信念評価の異常を想定するために、妄想の限定性を説明するのが困難になる。なぜなら、信念評価に異常があるために、妄想の誤りに気づけないとすれば、どんな誤った信念についてもその誤りに気づけないであろうから、誤った信念がすべて妄想になると思われるためである。他方、一要因説は経験の異常だけを想定して、信念評価を正常だとみなすために、妄想の執拗さを説明するのが困難になる。というのも、信念評価が正常なら、妄想患者は粘り強く妄想的信念の評価を続けていけば、いずれその誤りに気づき、それを撤回できるはずだと思われるからである。

わたしは今回の発表で、妄想の執拗さと限定性を説明するために、二要因説を採用しつつも、たんに経験の異常と信念評価の異常を想定するのではなく、経験の深刻な異常(異常な「実存的感じ」に見られるような異常)と信念評価の軽微な異常を想定する必要があると主張した。信念評価の異常が軽微なために、経験の些細な異常(よくある錯視など)にもとづく通常の誤った信念なら、その誤りに気づくことができるが、経験の深刻な異常にもとづく根深い誤信念については、軽微であれ、信念評価に異常があるために、その誤りに気づくことができない。こうして妄想の限定性と執拗さが説明される。

わたしの発表にたいしては、実存的感じについてもう少し詳しく説明してほしいという要求と、非認知的過程が信念にどんな影響を及ぼすかという質問がなされたが、たしかにいずれの点についても、説明が不十分であったことを反省しつつ、簡単な説明を行った。そして今後の課題として、妄想の執拗さと限定性が経験の深刻な異常と信念評価の軽微な異常によって説明されるという考えをもっと具体的に肉付けすることが重要だということを痛感した。現状では、たんなる形式的な説明で終わっており、妄想の内実にまだ十分に迫りきれていない。今後の重要な課題をしっかり自覚できた実りある機会であった。

千葉将希 “Do evolutionary and psychological explanations for the origin of our morality undermine moral realism?”

今回のワークショップでわたしは、道徳的実在論に反対する議論として近年メタ倫理学者たちのあいだで注目を浴びている「暴露論法」とよばれるタイプの論法に関して発表を行った。

この論法は大まかには以下のようなものだ。「われわれは道徳に関していろいろな信念(e.g., 個々具体的な道徳的信念、客観的な道徳的事実は実在するという一般的な道徳的実在論の信念など)を抱いているが、そうした信念は実のところ、種々の進化論的過程や心理学的過程といった認識論的に信頼できない過程の産物にすぎない。したがって、(道徳的実在論者の意に反して、)道徳に関するわれわれの信念は実のところ正当化されていないということになり、ここから道徳的懐疑論が誘発される」。

本発表でわたしは、道徳的実在論に対するこうした暴露論法として、個々具体的な道徳的信念の生成過程に着目したタイプのものと、より直接的に道徳的実在論の生成過程に着目したタイプの2種類が考えられることを提示したうえで、それぞれどのような形式や長短をもった論法なのかを分析・考察した。そのうえで、はたしてこれらが現時点で道徳的実在論を貶める論法としてどの程度確固たるものと言えるのかどうか、Fraser (2014) などの研究を参照しつつ批判的な吟味を行った。どちらのタイプについても、この論法をひとまず成立させるには、専門の倫理学者でさえ種々の進化論的過程や心理学的過程に強い影響を受けていることを挙証しなくてはならないが、まだこの重たい挙証責任が果たされているとは言いがたいというのが本発表での結論である。

発表後は会場から、いくつかの質問やコメントがなされた。とりわけ印象深かったのは、メタ倫理学や道徳心理学を専門とされるAndres Luco氏からのものであった。氏からは、この論法をめぐる本発表では扱えなかった先行研究を補足していただいたうえで、わたし自身がどのような広域的な見取り図をメタ倫理学において持っているのかに関する質問をいただいた。残念ながらこの点について十分な回答を用意できなかったことが悔やまれるが、今後の課題としたい。

今回の発表の多くは道徳に関するものであり、質疑応答に加え、他の発表者による発表(とりわけわたしに続くLuco氏の発表“Revolutionary Moral Realism”という発表)からも、本発表での研究をさらに洗練させていくうえでヒントとなるような示唆を得ることができた。

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西堤優 “Emotion, self-control, and moral responsibility”

一般的に、私たちがある行為をし、その結果、道徳的に悪いとされるような結果を招いてしまった場合、その行為が自分で自分を制御できる状態で引き起こされたもの、つまり自己制御のものとで行使されたものであれば、その行為に対して責任があるとされる。別の言い方をすれば、自己制御がなされていないがゆえに引き起こされた行為については、責任がないということになる。昨今の科学的成果によると、私たちの自己制御は、実は私たちが思っているよりも損なわれやすいものであり、そこには情動が良くも悪くも働いていることが明らかになりつつある。今回の発表では、自己制御における情動の働きに注目し、道徳的責任について、自己制御の観点から考察した。

具体的には、まず、自己制御が道徳的責任にとって必要であることを示し、次に、自己制御において情動が不可欠であることをA. R. ダマシオが提唱したソマティック・マーカー仮説の枠組みで考察した。従来、自己制御のためには、情動をできるだけ排除し、理性に従わなければならないとされてきたが、近年の科学的成果によると、私たちが理性的に振る舞うためには、ある程度の情動が不可欠であり、もし情動が欠如していたら自己制御の喪失と呼ばれる状態が引き起こされることが明らかにされている。続いて、自己制御の喪失について、特に三つの要因に注目し、私たちの自己制御がいかに損なわれやすいのかを考察した。

最後に、責任帰属には、通時的責任と共時的責任の二つの局面があることを示唆し、たとえ自己制御の喪失のゆえに引き起こされ、共時的責任の帰属が不可能な行為でも、通時的責任の帰属が可能ではないかと結論付けた。つまり、行為者が実際に行為を行った時点では、自己制御の喪失ゆえにその行為に対して責任帰属がなされないとしても、もしその行為が引き起こされるに至ったどこかの時点で自己制御を発揮してその行為を生じないようにすることが可能であったなら、やはり一定の責任が行為者に帰属可能ではないかということである。

会場からは、今回の発表について、道徳的責任と法的責任の関係について鋭い指摘や、自己制御における情動の役割についての質問など、いくつかの忌憚ない意見や質問を頂いた。今回のワークショップで得られた示唆は今後の研究に役立てていきたい。このワークショップの開催に奔走してくださった南洋理工大学の三宅輝先生やスタッフの方々にはこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。

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林禅之 “Phenomenal consciousness, machines, and personhood”

我々は現象的意識と呼ばれる種類の意識を持つ。それゆえ、トゲを踏んづけた際の痛みのあの独特の感じや、ビールを飲んだ際に味わうあの独特な感じを持つことができる。他方で我々は、物事を考えたり、言葉を使ったり、あるいは自分自身の概念を持っていたりと、さまざまな心の働きを持っている。我々人間では、現象的意識はこれら他の心の働きと不可分に結びついている。だが、現象的意識をまったく欠いているが、しかし人間と同等の心の働きを持った人工知能が作り出せるとしたら、そのような人工知能は一体どのように扱われるべきなのか。本発表ではBostrom and Yudkowsky (2014)が提起したこの問題に取り組むことにした。

現象的意識を持つかどうかが決定的な道徳的境界線を引くのだという考え方を「現象的意識による境界付け肯定(Phenomenal-Consciousness-Demarcation Affirmative: PCD肯定)」、そうでないという考え方を「PCD否定」と呼ぶことにしよう。PCD肯定が正しければ、先ほどのような人工知能は人間と同様に扱われるべきではないことが帰結する。他方で、PCD否定が正しければ、たとえ現象的意識を持たないとしても、そのような人工知能は人間と同様に扱われなければならない。私は、PCD肯定とPCD否定をそれぞれ支持するアーギュメントを構築することを試み、さらに両者に向けられる反論とその応答を検討した。そして、現段階では決着はつけられないが、PCD肯定の方に若干の分がある可能性を示した。PCD肯定が正しければ、おそらく意識を持ちうるような人工知能より、まったく持たないようなものを作るべきだという帰結が生じるだろう。なぜなら、意識を持つ人工知能が孕むであろう大きな倫理的問題を回避しつつ、同等の有用さを持った人工知能を手にすることができるからである。

質疑応答では、現象的意識がその他の心の働きと乖離不可能だとする立場によればここで想定されている人工知能はありえないことになるが、その場合本発表はいかなる含意を持つのかといったことが議論された。そのような立場(たとえばタイプA物理主義と呼ばれる立場)が正しい場合、本発表のような概念分析によってPCD肯定が正しいと結論づけられれば、たとえば人工知能研究は意識が生じているのか疑わしい段階に差し掛かった時点で研究を続けるかやめるか検討すべきである。そして、その段階で研究を続けるかやめるか検討すべきならば、そもそも最初から人工知能研究は行うべきでないと言わなければならない可能性が生じてくる。だが、この帰結は、我々人間の子供を作るという実践と矛盾しないだろうか。このように、いろいろと考えさせられるところのある、得るところの多いワークショップであった。

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