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【報告】『大乗起信論』と主体性

2016.01.18 石井剛

『大乗起信論』という仏教理論の奇書をめぐって、これほど刺激的なディスカッションが繰り広げられたというのは、当初想像もしなかった喜びだった。2016年1月9日に東洋文化研究所を舞台に行われたUTCPと国立政治大学哲学系(台湾)との共同ワークショップのことである。

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政治大学の林鎮国先生を舵取りとして始められたこの共同ワークショップは、昨年の同じ時期に台湾で第一回の会合が開かれ(ブログ報告はこちら。)、今回は第二回という位置づけだった。第一回が終了した翌日に政治大学ゲストハウスのロビーで林先生から次回は『大乗起信論』をテーマにしようという提案があった時には、正直なところ漠然としたイメージしか持っていなかった。林先生のねらいはこの書物が日本と中国の近代思想史の中でどのように読まれてきたのかを、仏教学から離れて、東アジア哲学史・思想史における論争史として整理してみようということだった。今回のテーマが「主体性」であったというのも、東アジアにおけるモダニティの受容と展開を考察する上で最も重要な「主体」なる概念の形成過程で『大乗起信論』が重要な役割を果たしたという林先生の見通しによる。ワークショップでのディスカッションが刺激に満ちたものとなったのも、この見通しが的を射ていたからに他ならない。

『大乗起信論』が奇書であることの最大の所以は、それが起源を持たない翻訳書であるということだ。はるか昔に中国語(漢文)の翻訳が中国に登場し、大乗仏教の教理を説く最も重要な書籍として漢字圏文化に広く影響を与えてきた同書だが、オリジナルが存在していないために、原作者が「馬鳴」という人物であること以外、この書物が漢訳される前にどのような経緯をたどったのかが謎として残されているのだ。「馬鳴」という名前さえ、「アスヴァゴーシャ」というサンスクリットからの漢訳に過ぎず、結局これが何者かについて明確に定めてくれる資料は残されていない。

こうした奇妙さにもかかわらず、同書は東アジア仏教界で長らく読み継がれ、近代に入ると、若き鈴木大拙がアメリカで英訳を出版し(1900年)、中国では宣教師のティモシー・リチャードがキリスト教に通じる思想の書として高く持ち上げるなど、『大乗起信論』は東西文明の橋渡しとして格好の題材であると見なされるようになる。最近でも晩年の井筒俊彦が「間文化的意味論」の世界を開く書物として、同書に注目していたことはよく知られているだろう。
 
こうした奇妙さが実は東アジア近代における主体概念の歴史を特徴づけ、同時に可能性を示唆しているのではないかというのが林先生の趣旨であったとわたしは理解している。すなわち、主体性そのものにははじめから他者性が組み込まれているのであり、それは翻訳的なものとしてしかありえないのではないか、という見方である。翻訳的な主体のあり方の中にこそ、アトムのように析出される個人とも共同体に埋没するように従属するほかない自我とも異なる「主体性」の可能性がひそんでいるのではないだろうか、そして、それは、近代のナショナリズムやいわゆる「超克」論が悲劇と傷を残す歴史を経てきた今日にこそ、もう一度批判的に取り上げるべきものではないだろうか。これが議論を通じてわたしなりに今回のテーマから読み取ったメッセージである。
 
議論の具体的な内容は、若い博士課程生の廖娟さんが別途報告してくれるのでここでは触れない。ただ、このようなテーマのワークショップが他者の言語としての中国標準語と英語で行われたということ、そして、そのような他者の言語を媒介にすることでわたしたちと林鎮国先生ら台湾の学者たちとの友情がつながっていることこそは、今日における哲学と人文学のあるべき姿を想像する上で大きな手がかりとなっていることを改めてここで確認したい。そして、このようなダイアローグの場として、彼らからの希望が、他でもなく、UTCPにかけられたこと、その歓びこそが今回の最大の収穫であったことをここで強調したいと思う。論文とともに議論に参加くださった方々、当日会場に足を運んでくださった方々、そして準備と運営に携わったスタッフや関係者のすべてにこの場で心よりの感謝を申し上げたい。

文責:石井剛(UTCP)

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