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【報告】 2015年度 駒場祭「こまば哲学カフェ」[2/3]——(2)二日目編

2016.01.15 梶谷真司, 土屋陽介, 水谷みつる, 神戸和佳子, 阿部ふく子, 安部高太朗, Philosophy for Everyone

 2015年11月21日(土)から23日(月・祝)まで第66期 駒場祭が東京大学駒場キャンパスにて開催され、今年もP4E研究会のメンバーを中心に「こまば哲学カフェ」を企画しました。年をまたいでしまいましたが、その模様をご報告いたします。第2回目の今回は、二日目の様子をお伝えします[2/3]。

Session 4: 「出張!!SPA」(企画:St.Paul's Agora [立教大学])
——11/22(日) 10:00-12:00

 こまば哲学カフェ2日目の午前中、「私たちはいま何をしているのか」という問いで哲学対話を行いました。この問いは筆者も所属している立教大学の哲学対話サークル「St.Paul’s Agora(以下、SPA)」の10月の活動で出てきた問いです。このサークルでは前の月の対話を踏まえて次の月の対話をしていこうという「問いの引き継ぎ」を試みています。今回は、まず私たち学生の哲学対話を皆さんに見てもらい、その当日の哲学対話についての対話を全員でするという流れで企画を計画しました。ただ、当日は人数の都合から学生でない方にも前半の対話に入っていただくことになりました。

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 まず「私たちはいま何をしているのか」という問いの意味が分かりづらいという話から入りました。そして対話の中で、「私たちはいま対話をしている」という答えが可能だとして依然「対話とは何をしているのか」と問うことが可能だということが言われました。その後は「いま私たちがしているとされる対話とは何をしているのか」という問いについて対話が進み、会話と対話の違いが中心的な論点となりました。休憩をはさんだのち、今回の対話について形式としてどうだったかということから伺いました。私たちの活動で使っている「三色発言カード」や、レポートと録音による「問いの引き継ぎ」という試み、そして今回の対話についてという流れで対話が進みました。一般参加者の方からは「問い(「私たちはいま何をしているのか」)を問う意味が分からなかった」ということ、「対話」には「主張の異なる相手と妥協点を探り合う」というようなポジティブな語感があるといった感想を頂きました。

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 SPAにとっては開かれた空間で活動について意見を伺う貴重な機会になりました。まだ創設されて半年、課題の多いサークルではありますが、意義ある活動を続けられるよう今回の経験を活かして前を向いていきたい、そんなことを考える企画となりました。

(廣畑 光希)


Session 5: 「開智学園ありとぷら」(企画:開智中学・高等学校ありとぷら)
——11/22(日) 13:00-15:00

 2015年11月22日、東京大学第66回駒場祭にて哲学対話の企画を出させていただいた「開智学園ありとぷら」です。企画者は全員開智学園の中学生と高校生でしたが、想定しているよりも多い50人超の方にご来場いただき、楽しく話すことができました。

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 今回は「世代」をテーマとして、2つのコンセプトを持って運営しました。1.高校生が運営するので、幅広い年代の方々とお互いに考えを深めあおうというものと、2.年齢や考え方、職業によらず誰もが安全に対話が行えるようというものでした。

 まず、代表の倉田(高1)が企画のコンセプトを説明した後、企画側が様々な人に協力を仰いで集めた、「世代」というテーマに関連したものをそれぞれみてもらって、「世代」に関連した問を出してもらいました。やはり参加してくださった方が多かったため、問出しの時点でもたくさんの意見をいただきました。

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 そのあと問を絞り、4つのグループに分かれてそれぞれ話し合いました。今回はファシリテーションを僕以外の高校生・中学生が二人ずつついて行いました。ファシリテーターは皆終わってから大変だったといっていましたが、外から見ているとどのグループも多様な意見がグループ内にあふれていて、飽きることのない実のある対話になっていたと思います。

 一時間ほどグループで対話したのち、グループごとの意見を全体共有し今回の企画は終わりとなりました。
今回は安全性について配慮していたこともあり、見ている限り気分を害していていた方も少なく終わることができたことが良かったと思っています。

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 企画が終わった後、何人かの方から「今回の哲学対話よかったよ。」という声をいただきました。ありがとうございました。しかし、哲学対話を有意義なものにするのは場を提供する我々企画者側ではなく、参加者の方あってこそなので企画者一同無事に企画を終えることができ感謝しおります。

 実は僕たちの学校の開智発表会(他の学校の文化祭のようなもの)でもほとんど同じメンバーで企画を行ったのですが、流石に規模が違いすぎて圧倒されました。このような素晴らしい場を僕たち高校生に与えてくださった土屋先生とUTCPのみなさん、東京大学の方、本当にありがとうございました。
今後も学生主体の哲学対話企画を行えたらと思います。

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(倉田 英 [開智中学・高等学校 4年生])


Session 6: 「Death Cafeこまば」(企画:水谷みつる)
——11/22(日)15:30-17:30

日常では正面切って話す機会の少ない「死」について、飲み物やお菓子を片手に気軽にオープンに語り合う「Death Cafe」は、2004年にスイスで始まり、ロンドンを経由して現在、世界各地に広まりつつある。

日本では近年、まだ充分な数とは言えないものの、死をめぐる相談や分かち合いの場が増え、死について語ることはかつてより容易になった。しかし相談や分かち合いの場では、死をめぐる一般的で抽象的な問いや、遠い誰かの死など、語りにくいテーマがあり、また、具体的な悩みや死別体験を抱えていないと、そうした場には参加しにくいなどアクセシビリティの問題もある。「Death Cafe」は、相談や分かち合いを目指すものではないが、だからこそ誰でも参加でき、死について個人的なことから抽象的なことまで語り合える第三の場になり得るのではないかと考え、今回、「Death Cafe こまば」を企画した。

当日は、10代から60代まで、幅広い年齢の延べ30名ほどの方々にご参加いただいた。進行としては、まず上記のような企画意図を説明し、次に「死」というテーマから思い浮かぶ問いを挙げてもらって、問い出しを行なった。この段階から、問いとともにそれぞれの死にまつわる経験が語られ、それがさらに別の問いや語りに呼び起こすなど、すでに対話が始まっているようであった。

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最終的に黒板いっぱいに20ほどの問いが出て、そのなかから一人二票ずつ入れ、多数決で問いを絞り込んだ。選ばれたのは、「医学的な死とその人の死は同じなのか」「なぜ死は悲しいのか」「どうすれば(他人、動物、自分などを)殺せるようになるのか」「子どもに『死』をどのように教えるか」の4つであった。それぞれの問いに関して、6人程度のグループをつくり、50分ほど対話をした。

その後、全員で大きな輪をつくり、20分強の振り返りを行なった。各グループとも最初の問いから出発してさまざまな考え、思いが語られたようで、「死はグラデーションで小さな死の積み重ねなのではないか」「死は悲しいとは限らず、死んでほっとする場合もあるのではないか」「自殺を考えたり計画したりすることはできるが、なかなか実行できない。そのできなさを『乗り越えて』実行するとは、いったいどういうことかと考えた」などの言葉が聞かれた。

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なかでも企画者の私にとって印象的だったのは、「子どもに『死』をどのように教えるか」のグループで出た、「大人にとっても死はわからないもの。子どもをお葬式に連れていくなどして死を見せることよりも、死をめぐるおとぎ話や物語を伝えることが大切なのでは」という意見だった。実は、今回、挙げられたものの探究しなかった問いに「そもそも『死』そのものについて考えることができるのか」という問いがあった。「生あるうちに、『死』そのものについて語り、考え、知ることはできないのではないか」という問いかけだった。「死」がどんなに考えても、あるいは知ろうとしても、真には知ること、理解することのできないものであるならば、そのわけのわからなさ、不可知さと向き合うためにも、死をめぐる物語が必要なのではないか、そしてもしかしたらDeath Cafeのような場は、死をめぐる物語を共同で、あるいは個として、編む場になり得るのではないか、と思わされた意見だった。

また、4つの異なる問いを探究したことで、振り返りが一周した時には、死をめぐる多角的な物語が一つ、その場に描けたように感じた。こうした対話を重ねていけば、その都度、その場ならではの物語が生まれ、参加者の記憶に残像として残っていくのではないかと予感させる経験だった。

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嬉しいことに、「心地よい経験だった」「また参加したい」などの感想をいただいた。安全に語れる場さえあれば、「死」について語りたいことは、きっと一人ひとりのなかにたくさんあるのではないだろうか。Death Cafeに存在意義があるとしたら、相談でも分かち合いでもない別の選択肢として、そうした場の一つになり得ることだろう。今後も機会があれば、継続して企画していきたい。

(水谷 みつる)

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