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【報告】「イケメン×2.5―境界、まなざし、在/不在」

2015.12.08 筒井晴香, 岩川ありさ

 2015年11月8日(日)、ワークショップ「イケメン×2.5―境界、まなざし、在/不在」が開催された。以下は企画・司会を担当した筒井晴香(UTCP特任研究員)による報告である。

 今回のワークショップでは、『ユリイカ』 2014年9月臨時増刊号『総特集イケメン・スタディーズ』、同2015年4月臨時増刊号『総特集2.5次元―2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント』の寄稿者・編集者を招き、『ユリイカ』発刊後の展開も含めて議論を行った。提題者は岩下朋世氏(相模女子大学)、岩川ありさ氏(東京大学)、石田美紀氏(新潟大学)の3名、コメンテーターは上田麻由子氏(上智大学)である。トークセッションからは『イケメン・スタディーズ』『総特集2.5次元』の編集を手掛けた明石陽介氏(青土社)にも加わって頂いた。

 初めに、筒井が導入として『ユリイカ』において示された「イケメン」と「2.5次元」という二つの概念を簡単に振り返り、その接点をまとめた。
「イケメン」はまなざされる男性という客体性、そして平均とそこからの微細な偏差によって認識されるという類型性がその特徴である。平均と偏差を味わうという認識のあり方に関し、象徴的な作品として筒井は現在放映中のアニメ『おそ松さん』(2015年10月~)に触れた。赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』における6つ子が青年になり現代を生きる様子を描いた本作は、まさに6人の偏差を楽しむ作品である。『おそ松さん』はこの後も度々話題に上り、高い関心を集めていることが窺われた。
「2.5次元」については、漫画やアニメの舞台化という代表的な定義を紹介した後、『総特集2.5次元』で示された大きな特徴として、「キャラクターの現前する場」という点に触れた。2.5次元舞台では俳優の身体にキャラクターを重ね合わせることで2次元=漫画と3次元=現実の世界が繋がれ、そこにおいては、キャラクターとしてあろうとする俳優と、その一挙手一投足にキャラクターを見出そうとする観客の共犯関係が働いている。
「2.5次元」の場において、「イケメン」俳優はその類型性ゆえに、キャラクターを現前させるための器としての役割を果たす。しかし他方で、『総特集2.5次元』の複数の論考において「ミュージカル『テニスの王子様』」(「テニミュ」)を通して語られたように、徹して「キャラクターとしてあること」のうちに「イケメン」俳優そのひとが現れてくることがある。「イケメン」と「2.5次元」はこのような形で関係し合っている。

 続いて、3名の登壇者による報告が行われた。
 岩下氏の発表「+0.5の世界と身体―マンガから見た2.5次元」では、『総特集2.5次元』における氏の論考「二次元と二・五次元の『テニスの王子様』―キャラクターの成長、キャラクターへの成長」の内容を踏まえ、「テニミュ」と舞台「弱虫ペダル」(「ペダステ」)という2.5次元舞台を代表する2作品において、物語世界とキャラクターが立ち上がってくる仕方の違いに光が当てられた。
『総特集2.5次元』での論考において岩下氏は、伊藤剛のマンガ論や東園子の宝塚論を引用しつつ、自身のマンガ研究における「キャラ図像・キャラ人格・キャラクター」の概念を用いて、マンガと2.5次元舞台のキャラクター表現を比較した。マンガにおいては、同じキャラクターが生々しく描かれたりコミカルに描かれたりなど、異なる図像のズレや差異を通してキャラクターの多面性が表現される。すると、ひとつの身体が類型化されたキャラクターの扮装をまとう2.5次元舞台において、キャラクターの表現はかえって単調なものになってしまいかねない。しかし「テニミュ」においては、役者が役にどこまでも近づき、体現しようとする努力の中で、逆説的に現れてくる役者の努力・成長の生々しさ、そこに見えてくる役者自身と役のズレ・差異が、舞台上のキャラクターに多面性を付与することに成功している。
 今回の発表では上記を踏まえ、「ペダステ」の分析がなされる。「ペダステ」では、メインキャストがモブも含めた複数の役を演じるシステム等により、役と役者の関係はむしろ切り離されている。代わりに「ペダステ」では、自転車レースを描いた原作における、過剰に劇的でテンションの高い表現と、舞台上で走り続ける役者の身体の酷使が重なり合う。ここで役と役者の切り離しは、マンガにおけるキャラの図像の複数性と同様に、ズレを生み出す効果的な切断の操作として働く。
 マンガと2.5次元舞台における様々なキャラクター描写を踏まえ、岩下氏は、リアリティを減ずるようにも思われる「ズレ」や「不自然さ」といった要素が、かえってそこで描かれている/演じられているものの「向こう側」の物語世界を生々しく感じさせる効果をもつことを指摘した。

 岩川氏の発表「サブカルチャーと歴史認識―「刀剣乱舞」をめぐるポリティクス」において取り上げられたのは、PCブラウザゲーム「刀剣乱舞」、そしてその世界観監修・脚本を担当する芝村裕吏氏の発言である。「刀剣乱舞」は「歴史修正主義者」と呼ばれる敵による歴史改変の企みを阻止するため、名刀を擬人化した「刀剣男士」たちを育成し、時間を遡行させて戦わせるというゲームである。芝村氏は2015年5月のコンテンツ文化史学会例会で、「刀剣乱舞」のファンダムの隆盛や商業的成功のことを「大東亜共栄圏」と喩え、大きな物議を醸した。自身も「刀剣乱舞」ファンであり、この問題に深く悩んだという岩川氏は、80年代ドイツにおける「歴史家論争」の例を引いてこの件を分析する。「歴史家論争」において、ナチスのユダヤ人虐殺を単なる集団虐殺の一例として相対化しようとする歴史修正主義の主張は、ナショナルアイデンティティ確立のための統一的歴史像を求めるものとして批判を受けた。歴史をめぐる語りは多くの人々の記憶のネットワークの中に位置づけられており、統一的歴史像による単純化・平準化を許すものではないからだ。「大東亜共栄圏」発言においてなされたのはまさに歴史の「平準化」と出来事の固有性のはく奪であるとして、岩川氏は芝村氏の発言を批判する。
 その上で、岩川氏はヴォルター・ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」(1940)におけるパウル・クレーの絵画「新しい天使」に寄せた一節を引き、刀剣男士たちを、取り返しのつかない過去の廃墟をただ見つめるほかない「歴史の天使」と位置付ける。彼らに応答するためにわれわれができるのは「原作」や「公式」の意図を「逆なでにして」読み、「歴史の天使」としての「かれら」に向けて、二度と惨劇が行われないための「いま」をつくると誓うことである。世界中に広がる「刀剣乱舞」のファンダムは、「大東亜共栄圏」でなく、「いま」を変容させようとする人々の共同体であると述べ、岩川氏は発表を締めくくる。
 発表の冒頭、そして最後で引用された小説「消滅世界」(村田沙耶香、2015年)では、アニメのキャラクターへの愛によって自己を築いてきた主人公の姿が描かれる。岩川氏は、キャラクターの生が、3次元にいる「わたし」の背中を押してくれるように感じる瞬間にこそ、2.5次元は生まれるのではないかと述べる。そして、われわれもまた別次元にいる彼らに向けて、祈るようにしながら、その背中を押すことができるのではないか、とも語った。

 石田氏の発表「イケメンとイケボ」では「イケボ」即ち、整った容姿を想像させるような男性の声が取り上げられる。『イケメン・スタディーズ』への寄稿「阿部寛―顔との戦い」を踏まえ、石田氏は、80年代後半に流行した「ソース顔」「しょうゆ顔」、そして「イケメン」という語において、彼らを見るしかできない受容者がその立場を逆手に取って遊ぶ「受容者本位の分類」という特徴がみられることを指摘する。
「イケボ」もまた「聴取者本位の分類」といえるが、特徴的な点は、その出自にアニメというジャンルの成立・成熟が深く関わっていることである。イケボから聴取者が想起するのは、たいていアニメのイケメンキャラクターである。この点でイケボは声優身体の視覚的側面からは切断されている。声優は視覚的にはキャラクターの背後に退きつつ、声にいわば自らの署名を入れて流通させ、受容者はその署名を聞き分けて楽しむ。アニメにおいてはこのような形で「声のスターダム」が形成されてきた。
 この点を象徴する作品として石田氏はアニメ『おそ松さん』を挙げる。この作品では、現在の「声のスターダム」を体現する人気男性声優たちが6つ子を演じている。第一話ではBLゲーム『学園ヘヴン』(2002~)のパロディが登場するが、この『学園ヘヴン』は『おそ松さん』キャスト陣のうち複数が若手として活躍を始めた時期に出演した作品であった。PCゲームに始まり、アニメを本拠地としつつCD等の隣接音声媒体に波及していった『学園ヘヴン』、そこに見られる「声のスターダム」の先鋭化のありようは、BLCD・ゲームというジャンルがイケボの揺籃のひとつであったことを示している。
 石田氏はさらに、イケボがアニメの周辺領域で様々に氾濫している状況を紹介する。一例として、料理指南やエクササイズ、安眠導入など、具体的な状況設定のもとでイケボが聴取者に語りかけてくる「シチュエーションCD」が挙げられる。ここではイケボは物語の枠を超え、聴取者の日常生活の中の親密な空間において現れている。
 このように、アニメと共生しつつアニメの外部で展開し、聴取者とのコミュニケーションを前提として成立しているイケボのあり方は、一種の2.5次元的現象と呼べるのではないか。石田氏はそう問いかけ、発表を締めくくった。

 以上のような導入と各発表に対し、上田氏によるコメントがなされた。氏はまず、度々話題に上がった『おそ松さん』を取り上げ、現代のイケメンの傾向やイケメン声優をめぐるシーンの事情など、今日の様々な事象が参照されている点を同作の人気の背景として指摘する。さらに、もともと個性の薄かった6人にマイナーチェンジを加え、バリエーションを持つチーム男子として提示している点にも、現代のチーム男子ブームの影響が窺えると上田氏は述べる。
 続いて上田氏は「2.5次元とは何か」という問いを取り上げる。漫画アニメ原作の舞台化という定義はひとつの分かりやすい形ではあるが、十分なものではない。上田氏は『イケメン・スタディーズ』及び『総特集2.5次元』への寄稿において示した「2次元と3次元の綱引き関係」「2にも3にも寄るあわいの空間」という2.5次元の定義を提案し、2と3のあわいという幅をもつあり方が、2.5次元作品の豊かさや受容の多様さに繋がっていることを述べた。
 その後、各発表へのコメントがなされたが、ここでは抜粋して紹介する。岩下発表については、「切断」や「ズレ・差異」がかえって物語世界を生々しく感じさせるという論点に関し、2.5次元舞台における「ここにないもの」を観客に見せるという誘いの重要性が述べられた。「テニミュ」においてはボール、「ペダステ」においては自転車の存在を観客が想像力で補うことが求められるが、そのような誘いに乗ることで観客も2.5次元の世界に没入していく。この点は2.5次元における成功や失敗に関わっているのではないか、と上田氏は指摘する。
 岩川発表について、上田氏は作者を倒しキャラだけが生き残るような発表であったと述べ、それもまた2.5次元的状況であると評した。実際のところ「刀剣乱舞」においては、豊かなファンダムとその中での新しい物語が生まれている。さらに上田氏はゲームの舞台化である「ミュージカル刀剣乱舞」が岩川発表の中で「彼らの背中を押せる空間」として位置づけられたことに触れ、観客とキャストとの触れ合いを売りにするようなスタイルの2.5次元舞台に関して、賛否はあれども、商業演劇ならではのポジティブな可能性と捉えられると述べた。
 石田発表について、上田氏は「イケメンとイケボ」がいわゆる「(声も見た目も美しい)イケメン男性声優」の話ではなく、もはや男性声優身体をも必要としない「イケボ」の話であったことへの驚きを口にした。発表で示されたように、「イケボ」を巡り、声だけで発信者と受容者のコミュニケーションが成立する状況がある。アニメや声優ブームの外にある新たな2.5次元的領域の指摘は、これまでにない新鮮なものであると上田氏は述べた。

 トークセッションでは『ユリイカ』編集の明石氏も交え、限られた時間ながら活発な議論がなされた。「2.5次元の『0.5』は、受け手がテキストを解釈し意味を与えるための抵抗の場と考えられる」というフロアからのコメントに触れ、明石氏は2冊の『ユリイカ』編集にあたっての思いを述べた。氏によれば、「2.5次元」は言葉にしなければ何者かに簒奪されているように感じてしまう領域である。近年のブームに乗って分かったようなことを言われたくはないが、そのためには議論を尽くし、言葉を費やすことが可能な領域だということを示さなければならない、それこそが批評の営為であると氏は述べる。その背景には個人的な動機もあり、「顔の区別がつかない」とも揶揄されるイケメンたちのグラデーションの中から、しかし慣れてくると無意識にでも「推し」を見つけてしまう、その感覚を言葉にしたいという思いが出発点であったと明石氏は語った。

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 まさに2.5次元舞台同様、当日はフロアの熱気にも大いに支えられた会となった。終了後、びっしりと書き込まれた40枚超のコメントペーパーを頂いたことは、登壇者一同嬉しい驚きであった。

「2.5次元」という語に関して、いくつか付言しておきたい。
 まず、この語については定義の難しさもあり、導入では漫画アニメの舞台化というオーソドックスな定義と『総特集2.5次元』の振り返りに触れるに留めたものの、かえってその後の議論における広がりを捉えづらくしてしまった面があるかもしれない。「2.5次元」に関し、今回の発表とそれを受けた議論は、既存のいわゆる「2.5次元舞台」と呼ばれる作品群や、単なる「マンガ・アニメの舞台化」ということに必ずしも囚われず、2次元=漫画・アニメの物語世界と3次元=現実の世界の間の往還や、その間に生まれるいずれとも位置付け難い領域の多様なあり方を描き出すものであった。その点を踏まえ、上田氏が述べたように「2次元と3次元のあわい」と意味を広く構えた上で分析を進めていくのが、「2.5次元」という語には適切であるように思われる。
 さらに、今回のワークショップを終えて感じたのは、「2.5次元」をめぐる現象は、単に作品や表現(それを支える受け手の鑑賞態度も含め)だけではなく、それを取り巻く欲望や親密性のあり方にまで言及しなければ捉え切れないのではないかということである。単に舞台表現としてどうか、他の演劇作品に比べ何が新しいのかといった話だけではなく、ここにいないはずの存在とともにあるという親密性のあり方、そのような親密さをかけがえのないものとして経験しつつ生きていく生のありようといったところまで射程に含めて初めて「2.5次元」をめぐる事象のユニークさが見えてくるのではないだろうか。

 最後に、今回の企画を立ち上げた動機について述べておきたい。企画者自身、イケメン俳優や2.5次元舞台の一ファンとして、もちろん個人的な動機もあってのことである。しかしそれにとどまらず、これらをめぐる現象が現に多くの人々の心を動かし、行動させ、社会経済も動かしているにもかかわらず、そこにある欲望がきわめて単純化・画一化された形で語られてしまう状況が未だに根強いのではないか―そのような疑問がかねてからあった。女性が若い男性の見目の美しさを目当てに群がっている、といった語り方「だけ」では到底尽くされないような欲望や情熱の多様さがそこにはある。その面白さをそのまま学術ベースの議論に乗せることができないか、というのが企画者の思いであった。

 企画段階からご協力くださった岩川様、明石様、上田様、またご発表頂いた岩下様、石田様、ならびに本ワークショップの運営をサポートして下さったスタッフの皆様、そしてご参加くださった皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。

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