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【報告】2015年度東京大学-ハワイ大学比較哲学夏季インスティテュート(4)

2015.09.25 梶谷真司, 中島隆博, 川村覚文, 安部高太朗

引き続き、2015年8月に行われたハワイ大学と東京大学の比較哲学インスティテュートについての報告です。今回は、5日目(8月7日)の講義の様子について、安部高太朗さんに執筆してもらいました。

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5日目の8月7日(金)は、午前中に馬場紀寿先生(東京大学)が、午後に石田正人先生(ハワイ大学)がそれぞれ講義された。

午前中の馬場先生の講義は“Languages of the Buddha”(「ブッタの言語」)と題され、仏教の原点である古代インドの言葉(サンスクリット語およびパーリ語)について講義がなされた。例えば、いわゆる「Be動詞」についてみれば古代インドの言葉とヨーロッパ語とのつながりに気づくという。is (英語)、ist (ドイツ語)、est (フランス語)、est (ラテン語)、esti (ギリシャ語)、asti (サンスクリット)、atthi (パーリ語)といった感じでよく似ている。そのうえで、パーリ語仏典、チベット語仏典、漢訳仏典のそれぞれについて言及がなされた。講義では実際にそれぞれの読経(CD)が流されたが、どれも同じようなリズムで発せられる言葉のつながり、響きが印象的であった。講義の最後には、仏教由来の言葉についても言及があった。講義全体を通じて言葉のつながりと仏教の伝播が密接に関わっていることがよくわかった。だが、同時に、或る宗教の経典が、このように翻訳されていくことでどのような変質を受けて行ったのか、教えや解釈の違いに言語の違いはどれだけ関わっているのか、といった点が気になった。

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午後の石田先生の講義は“Voice, Word, and Resonance: Introduction to Kūkai’s Philosophy of Language”(「声、言葉、共鳴:空海の言語哲学入門」)と題され、空海の著作『声字実相義』の内容とソシュールの言語論およびパースの言語論を対比するものであった。空海によれば「内外〔ないげ〕の風気、纔〔わづ〕かに発すれば、必ず響くを名づけて声といふなり。響は必ず声に由る。声はすなはち響の本なり。声発〔おこ〕つて虚しからず。必ず物の名を表するを号して字といふなり。名は必ず体を招く、これを実相と名づく。声と字と実相との三種、区〔まちまち〕に別れたるを義と名づく」とされる(石田先生の講義資料, p. 2より孫引き)。つまり、空海においては、声を発するということは意味をつくりださずにはいない、というわけである。これは言葉を意味のラベルのように見なす言語観とは異質であろう。この点で、石田先生はソシュールのシニフィアンとシニフィエの区別、および、パースの言語論を参照したわけである。三者の議論についてそれぞれ紹介がなされたわけであるが、そもそも空海流の言語論あるいは言語哲学では、こうした名指すことというのはどのようなものとして捉えられうるのか、という点が気になった。あるいは、翻訳するということはこうした意味の範囲の違いにも影響を受けそうであるから、この問題も考えてみたい、と思った。

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安部高太朗(UTCP・東京大学大学院博士課程)

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