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【報告】第9回 UTCP「沖縄」研究会

2015.07.02 内藤久義, 崎濱紗奈

2015年2月6日、東京大学駒場キャンパス101号館研修室において、第9回「UTCP「沖縄」研究会」が行われた。

今回の研究発表は草野泰宏氏による「一八八六年の山県有朋の沖縄県視察に関する一考察」。草野氏は本学総合文化研究科博士課程の学生で、沖縄のヤマト化の問題についてメディア関連の資料から研究を行っている。

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1886年3月、明治政府の主要メンバーが沖縄を訪れる。大蔵・文部・内務省の官吏、沖縄県令西村捨三を従え、内務大臣山県有朋が沖縄・五島・対馬などの視察を行った。視察後、山県は『復命書』とその時の日誌『南航日誌』を閣議に提出する。草野氏は先行研究として、我部政男、近藤健一郎等の著作を引き合いにし、また沖縄視察の『復命書』や山県の書簡などの一次史料をもとに発表を行った。先行研究では軍事と教育の二点に着目している点を示しつつ、山県の沖縄視察の原因となったものは、何であったのかを一次史料から明らかにしようとしたのが今回の発表内容である。

1886年の視察は発足してまだ日の浅い明治政府が、明治憲法体制の確立と条約改正へ向けて、沖縄へも法制度を適用させるため「地方自治制度」の沖縄への導入、また1880年代半ばから沖縄でも旧慣習改革要求の声が高まってきたことも視察の一因であると『沖縄県史』には記されている。しかし、それだけではなく、琉球及び朝鮮問題で日清両国の関係はすでに緊張状態にあり、我部政男や『沖縄県史』では、この視察が徴兵令と関係していたことを指摘している。また近藤健一郎は沖縄において、沖縄人による陸軍部隊を編制する目的があり、そのためには愛国心の涵養が徴兵を可能にし、さらに沖縄のヤマト化をすすめる教育が重要な役割を果たすことを述べる。そしてそのために山県は標準語教育に重点を置くとともに、優秀な沖縄県人を内地の学校に入学させ卒業後、沖縄で教員としてヤマト化の先頭に立つ人材にすることを目指したとする。

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しかし、草野氏は上記の先行研究に対して疑問を提示する。明治政府の法制度を沖縄にも適用するという点について、山県の『復命書』には、沖縄行政は旧慣を残し民情を慰撫する意図が記されている程度で、法制度を変更する意図は見られない。また軍事面についても、当時の山県の役職は内務大臣であり職掌として軍事面について強調するのは疑問があると述べる。そしてさらなる問題点として、なぜこの時期に山県が沖縄を視察したのかということを示す。
山県が沖縄を訪問するきっかけとして、我部は清仏戦争を、また『沖縄県史』は琉球・朝鮮問題で日清関係の緊張が激化したことを挙げている。しかし、草野氏はこれらの点に疑問を呈する。
琉球・朝鮮問題での日清関係の緊張激化は、具体的には壬午軍乱・甲申政変を指していると考えられるが、実際に壬午軍乱・甲申政変によって沖縄に対する懸念や戦略的重要性が増したとは考えられにくいと分析する。また、清仏戦争についても、実際に清仏戦争が起きている時期に出された「巡視諸要地ニ対スル意見書」から反論を示す。同意見書では鳥羽港以西の港湾に対する防備強化について述べられているのだが、そこには奄美大島が含まれている一方で、沖縄の港湾防備については一切語られていない。この事実から草野氏は、清仏戦争の時期に置いてすら明治政府は沖縄に対して何等の懸念を示していないと述べた。

では、山県が沖縄を巡視した原因は一体何なのだろうか。草野氏は1885(明治18)年4月30日に、山県が外務卿井上馨に宛てた書簡から考察する。同書簡には「露英葛藤」の文字が見える。当時、イギリスとロシアはアフガニスタンをめぐって一触即発の状態であった。そのような中、イギリスはウラジオストックへの攻撃基地として朝鮮の巨文島を占拠した(巨文島事件)。大久保利通以来、明治政府にとって最も懸念されていた対象はロシアであり、イギリスが東アジアに進出することは考えられていなかった。しかし、実際にイギリスが進出してきた。草野氏はここから「イギリスとロシアによる覇権争い=グレートゲームが東アジアにまで波及しようとした」と述べる。このイギリスによる巨文島事件により、列強が東アジアに接近したという焦燥感が明治政府内に広まった。さらに沖縄県令西村捨三からの政府首脳の沖縄視察の要請もあり、山県の沖縄視察が行われたのではないかと述べた。

草野氏は以上の背景から山県有朋らの沖縄視察が行われたことを明らかにした。しかし、さらに『復命書』に記載されていた、沖縄での糖業の近代化、石垣島での牛馬の繁殖、西表島での開墾、内離島での石炭採掘など、山県は内務大臣としての職務上の問題についても記しており、これらの点も、今後、山県の沖縄視察をさらに鮮明にするうえで考慮していかなければならないと結んだ。


輪読は柳田国男『海南小記』(奄美編)の第3回目、崎濱紗奈氏が発表を行った。発表箇所は「八 いれずみの南北」「九 三太郎坂」「十 今何時ですか」「十一 阿室の女夫松」「十二 國頭の土」の範囲である。この範囲とは、柳田が1921年1月4日、2月8日から14日にかけて訪れた地であることを、前回発表した西原彰一氏が作成した「柳田國男南島旅行旅程」から明らかにした。

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崎濱氏はそれぞれの章に記される柳田が観察した民俗的事象を分析し、さらに『海南小記』に宗教(神)に関する記述が多いのは、この時期に「一国民俗学」形成の企図が既にあったかのではないかと指摘する。柳田はこの沖縄の旅で伊波普猷と出会い、伊波に琉球の政治と宗教について書くようにすすめた。伊波は『古琉球の政治』を上梓し、これは柳田が監修する炉辺叢書に収載されるのである。伊波は本書で、武力ではなく、宗教によって三山統一を果たした尚真王の政策を評価した。

これと関連して同氏は、柳田が、宗教や習俗の一致から奄美と琉球が「はじめから一つ」であったと主張していることに注目した。共通の宗教(神)を発見・抽出することによって「一国民俗学」の形成を試みた柳田の姿勢については、批判がなされてきた(例えば村井紀『南島イデオロギーの発生―—柳田国男と植民地主義』岩波現代文庫、2004年)。一方、柄谷行人『遊動論―—柳田国男と山人』(文春新書、2014年)は、柳田が「常民」概念の形成によって「一国民俗学」を形成し、その裏で「山人」概念を放棄したとする従来の見方に対し、異論を唱えた。

様々な角度から依然として批判あるいは擁護が試みられる柳田・伊波であるが、こうした動向を踏まえつつ、本研究会では引き続き『海南小記』輪読を進めていく予定である。

報告:内藤久義

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