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【報告】亞際文化批判思想跨國網絡ワークショップ「東亞社會與共生哲學」

2015.06.15 梶谷真司, 石井剛, 林少陽, 川村覚文, 星野太

今日の人文学の危機に対して、我々はどのような方途を取ることができるのか?この問いへの何らかの解答を模索する上で、一つの光となりうるのではないか。この2015年6月1日から三日間にわたって、国立交通大学(台湾・新竹市)で開催された、Transnational Network for Critical Inter-Asia Cultural Studies(亞際文化批判思想跨國網絡)発足を記念するワークショップ並びにシンポジウムは、我々参加者の多くにとってそのような強い印象を与える経験となったのではないでしょうか。

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とくに6月3日の午後に行われたLaunching Workshop and Preparatory Meeting for the Transnational Network for Critical Inter-Asia Cultural Studiesでは、基調講演をされた4人のスピーカーのうち、コーネル大学の酒井直樹さんの発題とそれに対する聴衆との応答が、我々参加者にとって大変印象に残ったものだったのではないでしょうか。酒井さんは、近代とは本質的に植民地主義的近代(colonial modernity)であること、境界を構成していくという行為(bordering)によって文化本質主義的な国民国家の国際法的な分割がなされていくこと、そして翻訳とはまさにこのような境界を構成していく政治的な営みにほかならないことを指摘された上で、翻訳や国民国家的想像力に規定されない、より先験的なものとしてのtrans-natoinoalityを思考/志向することこそ、近代国民国家が本質的にはらむ植民地主義的な不正義や暴力への批判が可能になり、その限界を超えた想像力が可能になると言われました。

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そして、今回のようなtrans-nationalなネットワークの形成は、国民国家というレジームへのオルタナティブとしての、いわば流浪(exile)への想像力といった批判的な知性の追求という目的を支えるものとなると言われました。そういった言わばハイブリッドな知の形成こそ、グローバル化の中でその意味が失われつつある国民国家の相対化が進む世界において、最も必要とされているものとなるでしょう。しかし、気をつけなければならないのは、これはグローバル化への追従であるということではなく、むしろグローバル化への抵抗でもあるということです。昨今の大学における人文学の排除は、国民国家がグローバリゼーションへと自らを適合させる過程においてなされているものだからです。つまりは、国民国家レジームとグローバルな支配レジームの共謀関係こそが今日の人文学の危機を引き起こしているのであり、その意味では人文学の危機への抵抗は国民国家レジームとグローバルな支配レジームの共謀関係を、グローバルな形で抵抗するというものになるのです。

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酒井さんが強く指摘されたように、近代の人文学は国民国家の構築にとって重要なものとして、統治階級であるエリートの知として編成されてきました。その意味で、人文学は不正義や暴力を正当化するモメントを本質的に内在させていたのです。そして、グローバリズムの進展する現在においては、統治にとってもはや人文学は必要ないと判断されているわけなのです。このような状況下、危機の中の人文学がなしうるのは、統治(あるいは統治権力の望む形での社会・経済秩序の編成)にとって有用であるということを権力に対して訴えるということでは決してなく(それは人文学が持つ権力性・暴力性の反復・再生産となるでしょう)、むしろ統治にとっては厄介(有害)なtrans-nationalな連帯を構築していくこと、それによって統治権力が望む秩序や制度によって排除され抑圧されている人々の声が上がるの支えること、そしてこれらを通じて統治権力のあり方そのものを変えていくということ、これらなのではないでしょうか。そして、このような知的実践を通じてこそ、批判的な意味での「共生」が可能となるのだと思います。

文責:川村覚文(UTCP)

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ここからは、UTCPより参加された大学院生の方たちの参加報告となります。全体的な流れとしては、UTCPと交通大学社会文化研究所との間で、6月1日に大学院生による発表があり、続く2日に教員による発表がありました。ここでも、活発で熱気のある討論がなされ、自身のnationalityやborderを超えるような批判的な思考の可能性が垣間見れました。

また、交通大学/台湾大学連合システムのカルチュラル・スタディーズ国際センターのwebサイトにも、このワークショップ・シンポジウムの模様がアップロードされています。http://iics.ust.edu.tw/en/publicatoions_8_item.php?bgid=22
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川端康成の作品ついて国外で、英語で論じることは、私にとって大きな挑戦だった。相対化を試みた「日本の美」の体現者としてのイメージが、そもそもどの程度受け容れられているのか、考えても事前にはわかりきらないところがあった。「Kawabata Yasunari」ではなく「川端康成」と中国語で発音されたとき、あぁ、と理解の声が上がったことに、翻訳という行為の複雑さの一端が見えた気がする。そして翻訳は、当然ながら作家の名前のみならず作品自体にもかかわる。英訳を用いなければならないこと、それが原文とも中訳とも異なっているであろうことは、テクスト分析という方法の活かし方の再検討を私に求めた。いずれも日本という文脈に閉じこもっていては得難い示唆であったと思う。

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文責:平井裕香(東京大学大学院)

研究内容を海外で発表するということが自分には初めてであり、大きな経験となりました。自らが研究に参与する必然性などは普段背景に退きがちですが、今度のような広い視野、多様な文脈に身を曝す機会があれば、その文脈において自分の研究がどういう位置を占めるのか、或いははどのようにその文脈を捉えるのかといったことが必ず問題になります。この感覚を得たことが最大の収穫でした。そしてこの感覚を支えるのは、他ならぬ朋友の存在だと思われます。最大の喜びは、新たな友を得たことでした。帰国してより「有朋自遠方来」の句を噛みしめる思いです。

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文責:宮田晃碩(東京大学大学院)

本報告者は「メルロ=ポンティにおける自由の概念」と題する発表を行った。『知覚の現象学』において主題の一つとなる自由の概念を、前期の行動主 義心理学への考察と、後期の制度への考察との間に位置づけられるものとして示すことを試みた。

この発表に対して、いくつかの質問が寄せられた。例えば、メルロ=ポンティは(フーコーのように)権力が作用するものとして制度を考えていたの か、歴史により既に決定されているという問題はどう考えられるのか、といったものである。これらの質問は、台湾交通大学のSRCSが、あるいはこ のワークショップが目指している方向を顕著に示しているように思われた。メルロ=ポンティもまた制度や歴史について彼が置かれた状況の中で考えていたし、その問いが別の思想家に引き継がれ、私たちにも伝えられている。 普遍的であろうとする言葉に対して、その言葉が発され翻訳され受け取られる過程に何が起きているのかを突き詰め、「事実性」や「歴史性」といった 言葉を語るだけでなく、実際に歴史の中に置き直しながら問い続けることの重要性こそが、諸先生方の発表や質疑応答においても問題になっていたよう に思う。

最後に、この貴重な機会をくださった梶谷先生・石井先生・林先生ほかUTCPの皆様、支えてくださった東京大学からの参加者の学生の皆様に感謝の 念を申し上げたい。また、何より温かく迎えてくださった台湾交通大学の皆様にも厚く御礼申し上げたい。今回のシンポジウムで提示されたから何を受 け取ってどう自分に活かせばいいのか未だに咀嚼できていないが、今回のシンポジウムや夕食の席で議論を交わした仲間たちの顔を思い浮かべながら ゆっくり考えていきたいと思う。ありがとうございました。

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文責:河合隼雄(東京大学大学院)

台湾交通大学のワークショップに参加を通し、交通大学の大学院生をはじめ、様々な研究者たちとの学問的交流を経験したが、この経験により、私自身の研究に対する「認識」を、改めて問い直すことができた。今回のワークショップのキーワードでもあった、「Transnational」の視座――地政学的・認識的「境界」としての「National」なるものを問題視する視座――についての考察を含め、今後は、従来の「学問」という領域のみならず、その従来の「学問」によって築かれてきた諸「認識形態」をより批判的に捉えつつ、自分の研究をいかに社会の諸問題につなげることができるのかについて、一層真剣に考えていきたい。

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文責:李範根(東京大学大学院)

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