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梶谷真司「邂逅の記録75:キックオフシンポジウムを通して見えたもの」

2015.05.27 梶谷真司

5月9日、キックオフシンポジウムが行われた。今年も各Lプロジェクトから一つずつセッションを出した。L1「東西哲学の対話的実践」からは、広州中山大学の廖欽彬さん、L2「共生のための障害の哲学」からは、学術振興会特別研究員で国立民族学博物館の研究員でもある松嶋健さん、L3「Philosophy for Everyone」からは、立教大学兼任講師の土屋陽介さんと教育学研究科博士課程の神戸(ごうど)和佳子さんが登壇した。それぞれの細かい内容については、個別の報告に譲るとして、ここでは全体を通して感じたことを記しておこう。

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L1で招聘した寥さんは、もともと台湾の出身で、民主化運動をへて、現在は大陸の大学で教鞭をとっている。そのような立場から、国家の存在そのものの意義、善悪を問う。そこで西田幾多郎や田辺元の国家論を再検討し、来るべき国家のあり方、その可能性ついて論じた。日本で京都学派の哲学は、政治思想として積極的に論じられることはあまりないので、それをアクチュアルな問題に反照する形で論じるのは、とても新鮮であった。助教の川村さんがそれに応答する形でコメントしていたが、結局、ここで重要なポイントは、国家対個人という枠組みの間に現実的な次元をどう設定するかであり、それが田辺の「種の論理」で問うたことだった。それはおそらく、グローバル化した世界で国家の境界が曖昧になり、国を超えた結びつきが現実的に強い力をもつようになった現状において、思想的にもよりリアルな可能性をもっているのだろう。
 
L2でお招きした松嶋さんは、医療人類学が専門で、博士論文では、世界で唯一、イタリアで行われた精神病院全廃を実現した精神科医、フランコ・バザーリアの活動、その背景、意義について論じた、大変ユニークな研究者である。当日は、その研究を「地域を耕す」という視点からお話し下さった。松嶋氏によれば、バザーリアの活動はまず、モノのように扱われ、個性も人格も奪われ、ただ病院に閉じ込められている入院患者を、世の中でごく普通に営まれている生活に戻すことから始まった。すなわち、その人自身の服や持ち物を返し、鏡を与えることでその人の「顔」を返す。そして、職員も制服ではなく、私服で接するようにする。そこからさらに、精神病院から社会に戻す――したがって精神病院が不要になる=廃絶する――ということは必然的な帰結であろう。けれどもただ患者を野に放てば、軋轢が起き、拒絶されるだけである。だからこそ、病者が受け入れられ、異なる者たちが自然に共に生活できるよう、その「地域を育てる」必要がある。ここでもまた、国家でも個人でもない、実際に人々が協力して作り、変えていける共同体が大きな意味をもっていることが分かる。
 
最後のL3のセッションに来ていただいた土屋さんは、埼玉県の開智高校で哲学対話の授業を継続的に行っており、哲学教育の国際学会にも毎年のように参加しており、現在日本で現場をもちつつ、国内外の事情にも通じている哲学教育の第一人者である。神戸さんは、3年前の夏にハワイでP4C(子どものための哲学)に出会い、翌年、L3プロジェクトが始動して以来2年間、RAとして哲学対話の活動において中心的役割を担ってくれた。この4月からは、東洋大学付属京北高校で倫理の授業で哲学対話を軸とする授業を行っている。この二人に、自分たちの実践を踏まえて、哲学教育について語り合ってもらった。哲学対話では、哲学という分野の知識を教えるのではなく、考えること、問うことを共同で行うことが目指される。そして教師としては、それを導くのではなく、彼らの探求に寄り添う存在としてそこにいる。そこで達成される思考の自由さは、学校という制度の外に出る、あるいはそれを揺るがすものである。同時に哲学対話では、お互いの差異を認めつつ共感するという独特の現象がしばしば起こる。それは、年齢、世代、性別、職業、学歴など、境遇や立場の異なる者どうしの間に共同性を生み出す。
 
今回の3つのセッションには、図らずもどこか通底する問題が現れていた。それは「共生」、「共に生きる」ということを、たんに言葉や理念の上だけでなく、具体的に実現することがどのようにして可能になるのかという問いである。そしてそこに向かう現実の動きと方途が、一見まったく異なるところで見えてきた。ある意味で、UTCPのこれまでとこれからを示すようなシンポジウムであった。

文責:梶谷真司(UTCP)

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