Blog / ブログ

 

【報告】ブリュス・ベグ講演会

2015.05.18 桑田光平, 大池惣太郎

2015年3月11日(水)から14日(金)、東京大学駒場キャンパスにて、フランスの哲学者であり作家であるブリュス・ベグ氏(Bruce Bégout)による公開レクチャーが行われた。このレクチャーは桑田光平准教授(東京大学)により、UTCP・S7プロジェクト「比較哲学研究のための研究者招聘」の一環として企画されたもので、同氏が全体のモデレーターを務められた。

Bruce20141.JPG

「哲学者」、「エセイスト」、「小説家」、「シネアスト」、ベグ氏をどの言葉で紹介すればいいだろうか。ボルドー第3大学で教鞭を取られるベグ氏がアカデミズムの領域で専門とされるのはフッサール研究と現象学だが、近著を手に取れば、「郊外」的空間をめぐるエセー『サバービア』(Suburbia, Inculte, Collection "Temps réel", 2013)や、「ポスト・ゴシック」と著者自ら形容する異色の短編集『黒さの原始的蓄積』(L'Accumulation primitive de la noirceur, Allia, 2014)など、要約しがたい多彩な活躍が目に留まる。しかしながら、今回ベグ氏の多彩な仕事に触れるうちに見えてきたのは、多面的な関心を持つマルチな文化人の姿というより、一貫した関心を情熱的に追っているうちに、研究から創作まで分野の障壁を自由に飛び越えてしまった、言葉の本来の意味でのphilosophe(「知を愛する人」)の姿だった。氏の一貫した関心とは、とりわけ80年代以降のアメリカ的な郊外文化に表象されるような、現代生活における日常的時間性・空間性をめぐる哲学的考察である。そうしたライフワークの中心となる著書が、現象学を方法として「日常」(le quotidien)を分析した600ページに及ぶ大著、『日常の発見』(La découverte du quotidien, Allia, 2005)であり、3月11日のレクチャーではまずこの本を下敷きに、ベグ氏の現象学的「日常」論の一端を紹介して頂いた。

「日常については日常的に話さない」――レクチャーはまずこのことの確認から始まった。実際、私たちの普段の時間を「日常」たらしめているのは何かとあらためて問うてみると、何か驚くほど捉えがたいものが問題となっていることに気がつく。氏によるなら、日常的な時間とは特にそれとして意識されないまま親しまれている時間であり、むしろ意識の前面から消え去っているときにこそ「日常」は実現されていると言える。ベグ氏がまず私たちに思い出させたのは、自明とくつろぎのうちにある「日常」とは、実は「根本的な非知」の様態において営まれている、ということだった。

加えて、「日常」のそうした本来的見えにくさに輪をかけているのが、西欧哲学における「日常軽視」の伝統である。哲学とは日常的気遣いの外の真理を探究することであるという考えが、最近まで西欧の思想を支配していた、とベグ氏は指摘する。氏によれば、「日常」が最初に哲学的関心となるのは19世紀初頭、エマーソンやソロー、コルリッジといったアメリカにおける「超絶主義」近傍の哲学者においてであり、それがさらに哲学的思考の中心に据えられるようになるのはようやく20世紀になってから、フッサールやハイデガーの現象学、あるいはウィトゲンシュタインに続く日常言語学派といった諸思潮においてであるという。

Bruce20142.JPG

では「日常」が存在するとはどういうことなのだろうか。ベグ氏は、「日常」においては一体何が「日常化」されているのか、と問いを立て直す。そこで参照されるのはハイデガーの現象学的実存論である。ベグ氏は、「世界の内に在ること」の本源的な「異邦性(étrangèreté, Fremdheit)」という観点をハイデガーから借用する。実存は「世界のうちに在る」というあり方をしているが、それが潜在的に意味するのは、実存が常に自分ではないものの内に存在していること、ラディカルな「異邦性」の中に置かれているということである。その観点で見るなら、「日常」とは「静穏(quiétude)の生産」――すなわち、根源的な「異邦性」に抗って、人間的な持続の相のもとで世界を捉え続ける運動――であることが分かる、とベグ氏は述べる。絶えざる「日常化」が、「異邦性」という恐るべき無世界状態の露呈を防いでいるのである。

このように、ベグ氏の観点に照らされた「日常」は、静的な状態としてではなく、動的な運動の持続として浮かび上がる。「日常」は「異邦性」に抗って産出され続け、また忘却され続ける。というのもベグ氏によれば、忘却されることが「日常」の本質だからであり、日々が単調な反復に感じられるとするなら、それは「日常」が形骸化や反復によって動性を失い、それによって露呈してしまった状態に当たる。

Bruce20143.JPG

この議論において興味深いのは、ベグ氏が用語や切り口においてハイデガーを踏襲しながら、議論の組み立て方をまったく逆転させていることである。ハイデガーにおいて、「世界」をそれとして開示する情態は「不安」であり、「不安」を欠いた日常性は「存在忘却」として批判される。それに対してベグ氏は、「異邦性」の「無限定l’illimité」がいかにラディカルであるかを、ハイデガーは甘く捉えていると指摘する。氏の考えでは、「世界」があるのはむしろ耐えざる「日常化」の運動があるおかげなのであり、「日常」の成立と忘却は不可分である。そのことへの無理解が、日々の営みの向うに「日常外的なものl’extra-quotidien」として真理や存在を求めさせると氏は指摘する。

ベグ氏がこうした特異な観点で思考を展開するのは、「日常」の存在は不可思議で驚くべきものだという氏の洞察による。「日常」は単調であるどころか、創発と発見と親しみに満ちた時間である、そう述べるベグ氏にとって、「日常」はその自明性そのものの内に底知れぬ驚異を宿している。発表の中で最も興味深かったのは、ベグ氏が現象学的な分析の限界を逸脱し、「日常」は外的な規範力とは何か別の規範性において生まれる、と断言されたことである。ベグ氏によれば、人は外からの統制を失った場合も単に「野生」に戻ることはなく、内在的な規範への希求を保ち続ける。氏はそれを「人類学的衝迫」という類的視点で説明されたが、その是非はさておくとして、まずはこの力動を、外から課されるモル的な規範性とは異なる「小さな」規範力として捉える氏の視点に、非常に関心をそそられた。「日常」の親しみと反復はそこから作られる、と氏は述べた。

Bruce20144.JPG

ベグ氏のレクチャーは専門とされる現象学の重厚な分析手法により支えられたものだったが、平易で活力に満ちたその語り口の節々には、「日常」が存在することそれ自体への驚嘆と、その不可知な原理に対する好奇心が伺われた。氏が「日常の発見」の先駆を「超絶主義」に見出す理由もそれと無関係ではないだろう。「生活を形作る力をもつものは、信念であるよりも遥かに事実の数々である」というベンヤミンの言葉を想起するなら、「日常」の哲学とは、「事実」の成立とは何かを洞察することであろう。反対に、「事実」の規範性は説明可能であり、それを思考の対象とし得るとみなす素朴な「信念」において「日常」は二重に忘却されているわけであり、20世紀の「日常」の哲学はまさしくこの蒙を解くことに努めてきたのだが、その遺産は現在再び忘却され始めているように見える。「philosophe」 ベグ氏のレクチャーは、そうした課題を新たに考えさせる実り多い学びの機会であった。

文責:大池惣太郎(UTCP RA研究員/東京大学大学院博士課程)

3月13日と14日の2日間にわたって、ブリュス・ベグ氏よるセミナー「都市と日常性」が開催された。「現代の都市空間において(非)日常はどのように構成されているのか」を考える本セミナーで話題となった事柄のいくつかを以下に列挙しておく。

(1)都市における「遊歩(flânerie)」の経験とは19世紀的なものであり、もはや現在においてそれは不可能になりつつあるのではないか。これはベグ氏のアメリカ滞在から生まれた発想である。都市の日常のなかに潜む非日常性の発見という遊歩経験は、シュルレアリスムの時代においては可能だと思われていたが、それは一種の幻想に過ぎず、自身がどこを歩いているのかがはっきりと分かる安定した状況の中で日常とは異なる何かを発見するという行為は、現代ではもはや一つの産業にすらなっているといえる。

(2)そのような19世紀的「遊歩」ではなく、現代において考察すべき都市現象は、郊外という(ここでもアメリカの都市郊外が念頭に置かれている)一見、日常の極致とも言えるフラットな風景において、逆説的にも、その過度のフラットさのために自分がどこにいるのか分からない不安を覚える「彷徨(errance)」の経験である。郊外は整備の最中にある場合が多く、密集した都市とは異なり土地も広いため、車やバイクでの移動が多い。単調な風景であるため、目印を見つけにくく、初めて行く郊外では、自分がどこにいるのかも分かりづらい。またギャングの抗争や犯罪が起こりやすいこともあって、日常そのものに見える単調な光景が常に「非日常」の脅威にさらされているとも言える。

(3)こうした郊外における「彷徨」経験において、新しい文化現象が生まれてきている。たとえば郊外においてすべての移動や生活は車であるため、ドライブインシアターをはじめ、独特の車文化が生まれてきている。

(4)確かにかつての意味で「遊歩」がもっていた文化的意味は多くの大都市においては失われ、都市は未知の非日常を孕んでいるどころか、すべて既知のものによって作り上げられているのだと言えるかもしれないが、東京では、たとえば、商店や飲食店がマンションの一室に看板もなく開かれている場合が多くあり、「既知(=日常)」から逃れ「非日常(=未知)」を作ろうとする意志が見られる。これが居住空間と商業空間の区分を曖昧なものにし、日常と非日常の新たな境界を作り出し、初めてそこを訪れる者に、ある種の不安――ただの居住空間なのかそれとも商業空間なのか――を与える。都市の「遊歩」は新しい形でなおも可能といえるのではないだろうか、など。この他、都市における「(非)日常」を巡ってベグ氏と参加者とのあいだでさまざまな議論がなされ、セミナーは盛況のうちに終わった。

桑田光平(東京大学UTCP)

Recent Entries


↑ページの先頭へ