【報告】UTCP若手研究者ワークショップ「サルトルと共生の哲学」
2015年1月25日(日)、東京大学駒場キャンパスのファカルティハウスにて、東西の大学の博士課程に在籍する6名の若手研究者により、「サルトルと共生の哲学」をめぐるワークショップが開かれた。立教大学の澤田直先生をコメンテーターとしてお招きし、5時間超にわたって研究報告と討議が行われた。
本企画は、サルトルの再読を試みる複数の若手研究者が同じ世代に集まっているという状況的な偶然に端を発したものである。企画のこうした成立そのものが、サルトルのアクチュアルな読み返しの機運を感じさせる。この哲学者を今新たに読み返すため、いかなる切り口が有効なのか。このワークショップは、サルトルを読み解く視点の現在を問う、格好の機会となった。
発表では、「嘘」、「障害」、「手紙」、「音響」、「旅」、「老い」――といった主題を入り口に、サルトルにおける「共生」の複数の可能性が引き出された。具体的な内容については、発表者による以下の報告を参照されたい。
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関大聡(東京大学)「透明と障害――サルトルにおける嘘」
最初に関大聡は「透明と障害――サルトルにおける嘘」という発表を行った。ルソーやカミュのような作家は他者との直接的で透明な交流を重視し、それを阻害する噓を「障害」と見做す、という指摘がある。では、サルトルにおいて他者との共生という観点から嘘は如何なる役割を果たすのか。これを問う具体的な手続きとして、まず『存在と無』や『倫理学ノート』の記述が辿られ、嘘が倫理的には他者の自由の侵害と見做されつつも、それが潜在的に備える反撃可能性がボクシングの比喩から説明された。また、狂気と嘘とが見分けがつかない短篇「部屋」の内実が紹介された。サルトルにおける嘘は、倫理的には批判を招くものではあるが、人間の自由を証すものでもあるという両義性が発表から明らかにされた。(文責:関)
栗脇永翔(東京大学)「他者・障害・歴史――ヴィルヘルム二世を分析するサルトル」
二番目の発表者である栗脇永翔は、エミール・ルートヴィヒの伝記を通じてプロイセン皇帝・ヴィルヘルム二世の身体障害が考察される遺稿『奇妙な戦争日記』の一部を手掛かりに、サルトルにおける「評伝=生の記述」と「歴史記述」の連続性、あるいはそのことの問題点を指摘する発表を行った。しばしば「最初の実存的精神分析」と呼ばれるこの箇所は、後のジュネ論やフローベール論にもつながる示唆的な箇所であるが、他者の生を語る際にその障害に着目し、それに対するコンプレックスという「物語」を紡ぎだすサルトルの方法はどこかで他者の生を取り逃してしまう危険性を孕んでいるのではないか。例えば、「伝記素」を重視するロラン・バルト等、評伝=生の記述を問題にする同時代の他の思想家との比較を通して、サルトルの実存的精神分析を改めて考え直す必要があるのではないか、という問題提起がなされた。(文責:栗脇)
赤阪辰太郎(大阪大学)「不在の他者とのコンタクト――初期サルトルにおける」
1940年代後半のサルトルの倫理思想は作品を介した他者との間接的関係による相互承認論という性格をもつ。赤阪辰太郎は戦前の、いまだ〈まなざし〉による相克の他者論を展開していた時期のテクストから、疎外に至らない間接的他者論の源泉を見出すことを目指した。赤阪が注目するのは〈不在の他者のあらわれ〉、〈手紙の経験〉、〈他者によって所有された事物への関係〉である。結論として、サルトルが〈まなざし〉と名づける経験が、身体的現前を前提しない経験をも含みこむ非常に広い射程をもったものであること、他者が事物と結ぶ関係を読み取る経験の中に、他者へとかかわる新しい関係が見出されうることを提示した。(文責:赤阪)
高山花子(東京大学)「未聞の音――サルトルがブランショに見出したファンタスティックなもの」
報告者は、「未聞の音――サルトルがブランショに見出したファンタスティックなもの」と題し、ブランショの小説『アミナダブ』(1942)再読を試みた。サルトルが指摘するメッセージの問題の背景には、物語中で変化する奇妙な物音と反響があり、それもこの書物が奏でる未聞の音les sons inouïsなのではないかという仮説を提示した。発表後は、騒音に阻まれる伝達やブランショにおける聴覚について質問をいただいた。澤田直氏からは、ドゥルーズのプルースト論と共に読めるのではないかという助言に加え、なぜサルトルはブランショにファンタスティックなものを見出したのかという問いをいただいた。ひきつづき考え、未来に応答したい。(文責:高山)
小林成彬(一橋大学)「アンガジュマン文学とは別の仕方で──イタリア旅行をするサルトル」
戦後、サルトルは「アンガジュマン文学」を提唱し実践する傍ら、アンガジュマン文学ではないイタリア旅行記『アルブマルル女王と最後の旅行者』の執筆にも力を注いでいた。本発表では、「なぜ旅行記だったか?」「なぜイタリアだったか?」という二つの疑問を提出し、その解決の糸口を探った。サルトルは、若年期から、ポール・モランをはじめとした旅行文学に多大の関心を寄せており、「アンガジュマン文学」の思想形成にも影響を及ぼしていることが分かった。また、「イタリア」はサルトルにとって詩的夢想を呼び起こす土地であることも分かった。『アルブマルル女王』の執筆を通じて、サルトルはアンガジュマン文学とは別の仕方で旅行記の新たな可能性を探っていたのだ、というのが発表の結論である。(文責:小林)
中村彩(東京大学)「ボーヴォワールから見たサルトル――『別れの儀式』を中心に」
最後に中村彩が、ボーヴォワールの『別れの儀式』を取り上げ、ボーヴォワールから見た晩年のサルトルに関する考察を発表した。そこで明らかにされたのは、第一に、ボーヴォワールは晩年のサルトルとの関係を理想化しつつも、そこに含まれていた亀裂についても語っているということ、そして第二に、ボーヴォワールは晩年の「強いサルトル」を称賛しつつも、「弱いサルトル」を前面に出しているということであった。発表者はその身振りを、ボーヴォワール自身が提示した老いの哲学の実践であると同時に、公の場で活躍する「知識人」とはまた異なる、ひとりの人間としてのサルトルの生を自分が見たままに描くものとして解釈した。(文責:中村)
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以上の発表後、澤田先生から各発表者への応答と全体的な講評が行われた。多岐にわたる個別の議論をここで詳らかにすることはできないが、全体として、とくにサルトルにおける「現実」という概念の捉え返しの必要や、同時代の近しい哲学者たち(メルロ=ポンティやボーヴォワールなど)との比較研究に意外にも未開拓な部分が多く残されていることなどが浮かび上がった。加えて、報告者の印象に強く残ったのは、最後に「教育的付言」として付け加えられたコメント――「王道を忘れないでほしい」――という言葉である。内容を概括させていただけば、近年更に強まっているオリジナルな成果へのプレッシャーに負けず、新しい切り口や補助線を用いた上で、あくまでサルトルにおいて中心的と見なされる主題や問題の読み直しへ挑戦してほしい、という励ましのコメントであったが、このことはサルトル研究に限らず、一定の積み上げのある研究対象の「読み直し」を目指すとき、折にふれ立ち返るべき視点であるように思われる。この点において、本ワークショップはまさしく、サルトルを搦手から読み開きつつ、そこからその思想の大きな問題圏の読み直しへと向かう、刺激的な試みに満ちていたように思う。
最後になるが、「若手」と銘打った本ワークショップに対して、当日は20名を超える多数の方々に来場していただいた。このことは、現在の国内外におけるサルトル研究の興隆、および新しい眼差しへの期待の高さを示すものであるように思われる。コメンテーターの澤田先生を初め、当日足を運んでいただいた方々にこの場を借りて感謝申し上げ、報告を終えたい。
報告:大池惣太郎(UTCP・RA研究員)