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【報告】2014年度東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナー(8)

2014.10.08 梶谷真司, 中島隆博, 川村覚文, 星野太, 佐藤麻貴, 神戸和佳子

引き続き、2014年8月に行われたハワイ大学と東京大学の比較哲学セミナーについての報告です。ハワイ島はキラウェア・ミリタリー・キャンプで行われたセミナー8回目の講義は、ハワイ大学と東京大学の教員による講義の最終日でした。また、セミナー9回目からは、鳥取県天徳寺から来ていただいた宮川敬之和尚による講義が行われました。これらに関して、佐藤麻貴さんに報告してもらいます。それに加えて、8月20日に催行されたスタディツアーの模様について、IHSの星野太さんに報告してもらいます。

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セミナー8回目

今日、8月18日で東京大学とハワイ大学の先生達による講義シリーズを受けるのも最終日です。

午前中は”Obedience and Freedom”と題した梶谷先生による講義でした。「Determinism(決定論)は自由か?」という切り口から始まり、そもそも何かを計画することができるということ自体が、決定論に基底されているのではないかという議論から「自由とは何か?」という本題へと展開されていきました。自由の問題の根底にあるのは、自由を「Existence(存在)」として捉えるのか、「Meaning(意味)」として捉えるのかにあるのではないか、という問題定義から、「自由を与えられるということは、そもそも与えられる選択肢の中から選ぶことを強制されているのではないか」という問いを導出した上で、自由という概念には「sense of self:感情的あるいは合理的決定を下す自由→決定をする時に作用する感情」と「sense of freedom:事象に左右される態度→態度と感情の相互影響」に大別されるのではないかとし、「being free (自由であること)」と「feeling free (自由であると感じること)」は異なり、第三者からみえる自由と本人(当事者)から見える自由には差異があるという議論が展開されました。

Kajik_hawaii2014.JPG

上記の議論から応用問題として、1)「規範と自由について」:茶道に見られるような動作の細かい規範の中に自由をどのように見出すのか、2)「モダンと自由について」:ポストモダンにおいて、自由は個人化(individualism)を推進し過ぎているのではないだろうか、モダン社会においては選択肢が少ない分、安定した社会構造を築けていたのではないだろうか、ポストモダンにおいてはグローバル社会とは個人と社会の間にどのような規範を含意するのだろうか、といった示唆に富んだ問いが提示されました。授業の最後は「今回の講義では特に何か結論を導出するのが問題ではなく、学生一人一人が今後の哲学的思考を深めていくに当たり、何かのヒントになれば良いと思う」という梶谷先生の一言で締め括られました。梶谷先生から多くの課題が出され、思考の海へ放り投げ出された感のある授業でしたが、そこに「思考することの自由」が与えられたという、タイトルに見られるObedienceとは対極の状況を先生が講義を通して示されたのではないかと、感じました。

午後は石田先生による”Watsuji’s Climaticity”の最終講義です。テキストを読んでいくことで進められる講義ですが、今回の報告では報告者が気になったポイントだけ抜粋して御報告します。Originalityとは何かということから、起源そのものよりも、その言説の継続性に注目した上で議論を展開することが重要という話になりました。これに対し、報告者は、起源について比較哲学的に考察を深めることについて、そこからどのような知見を導出するのか、その議論が導出する含意の方が重要なのではないかと感じました。また、和辻の「表象としての身体-表象を造る力としての身体」という概念から、心身の互恵関係(reciprocity of body and mind)という話へ展開し、心身の相互性を語る際に心身を分離するという概念が無ければ、そもそも心身相互性、あるいは心身互恵のような概念も生まれないという指摘がされました。報告者は、逆に、こうした二元性を持ちださないと、間柄についても語り得ないということが、どの事象においても共通して言えることなのではないかと思いました。

Ishik_hawaii.JPG

上記の話題から”what you do is what you think”、に具象されている、目に見えるものと見えないものとの関係性について展開され、ニーチェや和辻が指摘した、ある状況において身体的反応が感情や意識的反応より先に起こる状況が示されました。そこで、ある状況に応じて言語が言葉として表現される前に、ある人々の間で同時的に共有され得るのか、といった議論がされました。サマーインスティチュートでは三週間という長い時間を、ハワイ大学と東京大学の学生が共に同じ講義を受けることで成立します。同じ状況を、その継続性において共有することによって、無意識の構造において、何等かの共意識が共有されるのだとしたら、それはどのような意識であり、それはどのように言葉に置換され表象されるのだろうか…と、考えていたところで講義は終わってしまいました。石田先生の講義は、三週間の連続講義を締め括るのには、最適な問いを残してくれたと思います。

セミナー9回目

今日、8月19日は昨年に引き続き曹洞宗天徳寺の宮川和尚の講義と初参加のハワイ大学ヒロ校のTimothy Freemanによる講義となります。

午前は宮川和尚による「宗教論としての風土」と題した講義でした。和辻で博士論文を執筆された宮川和尚にとって『風土』は恣意的であるということから、最も嫌いな和辻の作品だという出だしから講義は始まりました。なぜ、和辻の『風土』において「モンスーン、砂漠、牧場」の三類型なのか、といった疑問から世界宗教(非人格神的仏教、人格神的ユダヤ・イスラム・キリスト教、非宗教としてのギリシャ的合理性)との関連性が指摘され、和辻が『風土』の草稿初期に考えた様式(『東洋美術の様式について』)の話へと展開されました。最後に和辻倫理学における空の弁証法が紹介され、「個人の限界が共同体へ向かわせる」という、個人の否定(negation)が共同性を導出、共同性の否定が個人を導出するという相互関係が説明され、無常(私の存在には根拠が無い)にあった時に社会性に戻るのだという道元が『学道用心集』で表明した概念へと導かれました。

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報告者は、宮川和尚の議論からレヴィナスの他者論と和辻の他者論の比較に興味を持ち、レヴィナスが他者論において時間を持ちだすのに対し、和辻が和辻の他者論において土地(背景には共同体)の概念を持ちだすのはどうしてなのか、問うてみました。これに対し、中島先生や和尚と昼食時に議論をし、和辻が過去に関心を抱いたことに帰結し土地、風土を議論せざるを得なかった、逆にレヴィナスは未来に関心を抱いた故に未来性を内包する時間に関心を抱いたのではないだろうか、との示唆をいただきました。報告者個人としては、他者論(他者との間柄)を通して、過去=土地、未来=時間という単純な構造に帰結させることに対し若干の不満を感じました。報告者の個人的な研究課題として、空間概念と時間概念の交差点を考えているのですが、これを考えていくにあたり、和辻とレヴィナスのそれぞれの帰結するところが上記のように分かれている、しかしながら彼らの議論を踏まえ、現在を空間と時間の交差点と帰結することが可能なのか、今後の思索を深めていく上でのヒントを得たように思いました。

午後はTimothy Freemanによる”The Abode of Pele: Reflections on an Extraordinary Place”と題したプレゼンテーションでした。ハワイの神話において、キラウェア火山の女神として知られるペレを題材に、キラウェア火山の溶岩の流れの美しいスライドを見ながらのプレゼンでした。ニーチェが愛したと言われる保養地の紹介から、特異な場所が特異な思想を生み出す可能性を前提に、キラウェア火山地帯に暮らすTimothyが考えたことをコーラの概念に触れながら展開されました。刻々変化する溶岩の様子を見せながら、世界自体が芸術作品なのだとし、世界は解釈(interpretation)の生産物であるに過ぎず、そうした解釈は我々の文化に基底されており、芸術自体が人間の可能性と不可能性の両方を内包しているのだとしました。ここでニーチェの「ある種の解釈を加えることでしか世の中を解釈できない」という言葉を引用し、我々は宇宙から与えられた状況においてしか自らの存在を正当化(justify)できないのではないか、と問いかけました。結論として、どこにいようと、我々は一瞬一瞬を享受(appreciate)することが重要なのではないか、という提言で結ばれました。

このプレゼンテーションに対し参加者から人間の存在について、他の種を考慮に入れた際に、人間がますます栄える(flourish)するよりも、その存在がいなくなった方が良いのか、という問いが発せられました。またどのようにしたら、人間の存在がjustifyできるのか?との問いも出されました。時間の都合上、ある意味でありきたりとも言える、人間中心主義あるいは自然中心主義的な概念の説明や議論に留まり、上記質問に対するTimothy自身の哲学的考察、あるいは彼がどのように考えるのか、といったことについては深くお伺いすることができず、残念でした。Timothyは最後に彼の庭の小さな噴水で日本から連れて来られたメジロが水遊びをしている動画を何度か見せたのですが、もし彼が伝えたかったことが、人間も動物も共に繁栄していくことなのだとしたら、その背景にある哲学的視座を示すべきであったと思うし、もしそうした視座が無いのであれば、それは調和を前提としたユートピア二ズムにのっとった、とても浅い論点の示し方であったと思いました。

文責:佐藤麻貴(東京大学大学院)


8月20日

8月20日は、翌日からの最終プレゼンテーションを控える中、ハワイ大学のメンバーを中心に複数のグループに別れてハワイ島のさまざまな場所を見学した。この日、筆者が参加したグループは、午後にプウホヌア・オ・ホナウナウ国立歴史公園(Pu’uhonua O Honaunau National Historical Park)を訪れた。「避難場所(Place of Refuge)」という通称を持つこの国立公園はハワイの歴史にとって特別な場所である。かつて、この地の共同体の法を破った者は死罪に処せられることになっていた。だが、追っ手を逃れて無事にこの神聖な場所に辿り着いた者は、例外的に刑罰を免れることができたという。

hoshino_hawaii2014.jpg

そのような歴史的背景をもつこの「避難場所」は、それゆえ、ハワイ島における紛れもない「聖地」のひとつである。公園には、かつて存在した寺院の跡地(Old Heiau Site)、16世紀に建造された石造りの大壁(The Great Wall)、さらにその他の歴史的な出来事に結びついたさまざまな見どころが存在していた。この日の前日には、「場所」という今回のサマー・インスティテュートのテーマに沿うかたちで、ティモシー・フリーマン(Timothy Freeman)氏によるハワイの自然風土に関する講演が行なわれたが、この日のエクスカーションは「自然」と双璧をなすハワイの「文化」的特異性を実感する絶好の機会となった。

文責:星野太(IHS)

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