Blog / ブログ

 

【報告】シンポジウム「人間から溢れ出るもの」

2014.06.30 小林康夫, 馬場智一, 栗脇永翔

《見えないもの》(l’invisible)を思考すること。このことを今、大学的な知の配置の中でいかに位置づけることが可能であろうか。あるいは、それはどのような仕方において「共生の哲学」と関係を持ちうるものなのであろうか。去る6月25日に開催された国際シンポジウム「人間から溢れ出るもの」(L’Humain débordé IV)で考察されたのは上記のような問いに他ならない。

パリ高等師範学校のドミニック・レステル氏、パリ第一大学のマリオン=ラヴァル・ジャンテ氏、そして本学の小林康夫先生によって企画された本連続セミナーは、今回で四度目の開催(日本での開催は初)となる。当日は、オーガナイザーの三者に加え、京都大学の鎌田東二氏、京都造形大学の山田せつ子氏を迎え、長時間にわたり活発な議論が行われた。

第一セッションでは、オーガナイザーの三者による鼎談という形で連続セミナーの趣旨が簡単に説明された後、レステル氏より、現代社会における《見えないもの》――フランス語においては極めて多義的な表現であるが、さしあたり「霊」や「聖霊」「悪霊」等を指すものと理解しておけばよいだろう――を巡る思考のいくつかの事例が紹介された。とりわけ、フランスの忘却された哲学者レイモン・ルイエ(1902‐87年)の「一万年後に生き残る人々は時間を支配するだろう」という言葉等を手掛かりに提示された「科学的シャーマン」(chaman scientifique)という概念が多くの聴衆をひきつけることとなったが、インターネット時代の幽霊を描く黒沢清監督の『回路』(2000年)に目配せがなされる等、広く現代社会における「技術」と《見えないもの》、あるいは「シャーマニズム」の関係が考察された。

deborde1.JPG

昼食休憩をはさんで行われた第二セッションでは、コルシカ島のシャーマンの家系に生まれ、現在は大学で民族精神医学(ethnopsychiatrie)を研究する傍らアーティスト活動を展開するジャンテ氏により講演が行われた。人類学者らによって「フランスにはシャーマニズムは存在しない」と言われる中でシャーマンとしての自らの出自を引き受けることの困難や各国のシャーマンとの交流や葛藤等が語られると同時に、スライドを用いてジャンテ氏自身のいくつかの作品が紹介された。中でも、3トンと想定される鎖に女性――ひょっとしたらジャンテ氏自身かもしれない――が繋がれた様子を表現する作品は、自身がフランス的自由に反すると説明するシャーマンの抑圧された状況を表現するものとして理解することも出来るものであり、ジャンテ氏の作品が自身の生――こう言ってよければ「実存」(existence)の問題――と深く結びついていることが明らかにされた。

deborde2.JPG

続く第三セッションの冒頭では、法螺貝の音が会場を包み込んだ。緑色のジャケット、緑色と白のボーダーシャツ、緑色のパンツ、緑色のシューズ――この緑にも多分に意味が含まれている――に身を包んだ鎌田東二氏によって行われた講演では、一部パフォーマンスを含みつつ、「起・承・転・結」の流れに沿って自身の修験道、幼少期の「オニ」(=日本版《見えないもの》)との出会い、自身のシャーマン体験と学問や著作活動との関わり、さらには「神道ソングライター」という興味を引く活動までもが紹介された。「俳優」という単語を「人に非ず、優れたるワザ」と読み替えたり、「かがみ(=鏡)」から「が(=我)」を引くと「かみ(=神)」が現われる等、独特な発想からの思想が展開される一方で、自身の体験が精神科医からは「統合失調症」と診断されることもあるという話がなされる等、主観と客観のパースペクティヴが交差=循環する極めて独特な語りが披露された、というのが報告者の率直な感想である。

deborde3.JPG

最終セッションとなる第四セッションでは、舞踏家の山田せつ子氏の経験が語られた。大学で演劇を学ぶ傍ら、グルジエフやシュタイナー等の神秘思想に関心を抱く舞踏家・笠井叡が主宰する「天使館」で活動を開始した山田氏は、そこで自らの神秘的な力を発見することになる。通常は公の場で話すことはない内容であるということなのでどこまで詳細に記録すべきか悩むところではあるが、山田氏は、当時「修行」に近いような生活を送るうちに「人間の身体というものが意識にはどうしようもないような仕方で何ものかに持っていかれてしまうことがある」という感覚を知ったという。報告者の理解する限りでは、こうした感覚は山田氏の現在の舞踏に直接結びつくものである。例えば、ある時期山田氏は自らが意図しないにもかかわらず手が震え、勝手に動き始めてしまうといういわばシュールレアリスム的な身体感覚を経験したというが、講演の後半で上映されたパフォーマンス映像では、こうした身体の振動をあえて作品に導入する試みがなされていた。講演の末尾では、舞踏家にとって身体とは「生贄」のようなものであるという幾分か衝撃的な言葉が発せられたが、自分の意識をはみ出す身体から身を守るための舞踏という氏の考えは、他のセッションでも時折問題になったシャーマニズムが不可避的に孕むある種の「危険」(danger)の問題とも通底するものであるように思われる。

deborde4.JPG

上記のような極めて領域横断的で個人的な話題を簡単に要約することは出来ないが、最後に一点だけ報告者が関心を持った点を記しておきたい。それは、シャーマニズムと「治療」(thérapie)の関係である。ジャンテ氏が大学のディシプリンとしては民族精神医学を選択したことや鎌田氏・山田氏の活動がいずれも「自己統制」や「自己救済」「自己治療」に結びついていたことに加え、しばしばシャーマン的素質が病の治癒に結びついていることを考慮するならば、例えば「精神医学の哲学」と呼ばれるような分野とも対話が可能であるように思われる。あるいは、シンポジウムの前日に開かれた小林先生の大学院の授業では、ラカンの「四つのディスクール」を手掛かりに知の体系を四元的に把握する試みの素描が示されたが、その際、ラカンが言う「分析家のディスクール」に対応するものとして挙げられていたのが「魔術」(magie)の思考であり、小林先生曰く、今回のシンポジウムの動機のひとつとなるものであるということであった。無論、《見えないもの》や魔術、シャーマニズムの問題を安易に精神病理の問題に還元すべきではないことは言うまでもないが、現代哲学が――あるいは哲学というものがそもそも――治療の側面を有しているならば、これらの問題は並行して継続的に思考されることが求められているように思われる。そしてその際には、小林先生がシンポジウムの末尾で述べたように、「他者の経験を聞く」という経験こそが出発点になることは改めて言うまでもないであろう。

なお、本学のパトリック・ドゥヴォス先生、長野県立短期大学の馬場智一氏にはシンポジウム中、長時間に渡りフランス語-日本語の同時通訳をお願いした。両者の御尽力がなければシンポジウムはこれほど実り豊かなものにはならなかったかもしれない。この場を借りて、改めてお礼を申し上げたい。

文責:栗脇永翔

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】シンポジウム「人間から溢れ出るもの」
↑ページの先頭へ