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【報告】許紀霖教授講演会

2014.06.03 石井剛, 那希芳, 東西哲学の対話的実践

2014年2月17日、東京大学駒場キャンパス101号館2階研修室にて、華東師範大学の許紀霖教授が「新天下主義」について講演された。

「天下」は古代中国の核心概念である。価値の面では、儒家の求める普遍的価値を意味し、空間の面では中原、華夏を中心とする、同心円的階層秩序を意味する。「新天下主義」の「新」とは、「従来の中国中心論を揚棄し、普遍的平等な関係」を作る、というところにある。具体的には「中華文明を中心とするのではなく、違う国家や民族が共有できる普遍的文明を中心にする」ことである。この場合の普遍性はウィトゲンシュタイン(1889-1951)のいう「家族的類似」の方式で存在する普遍性を念頭にしており、それぞれの民族・国家の特殊性が保たれた上での普遍性である。許教授は自分の主張する「新天下主義」とは「天下意識」すなわち「普遍的人類的立場」から価値を考え直すことだという。そして現在流行っている「中国特殊論」は「反普遍価値」のもの、中国の伝統にも合致しないものと、批判している。

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許教授は中国のチベット、新疆における国境の問題を取り上げた。西洋近代の民族国家の枠組みでは一民族一国家で、政治制度や文化上の同一性と本質化の問題を引き起こした。そのような制度構想の下で、「大漢族主義」な名のもとで少数民族の文化的多元性が圧迫される可能性がある。また世俗主義の普遍性が力を持つようになってから、宗教と文化の間の深刻の相違性が取り除かれてしまったのである。これに対して大清帝国を代表とする近代以前の帝国体制では、王朝内部に「多宗教、多文化、多種の治理体制」の併存が実現され、そのようなあり方から現代のわれわれが学べるのではないかと、許教授がいう。近代以前の東アジアにおける「華夷秩序」について、許教授はそれが文化概念にすぎないとみている。つまり、それは各種族や各民族の本質的な違いやレベルを表すものではなく、あくまで文化的な問題を捉える概念で、「華」と「夷」は相互転換できる相対的な概念に過ぎないのである。

許教授はまた現在東アジアにおけるナショナリズムの高揚と領土紛争について、その危険性を指摘し、そのメカニズムを分析した。今の現象は東アジアが欧州からの絶対主権の考え方を継受し、絶対化した結果だという。だが、西洋近代の民族国家の枠組みでは、東アジアの国家間の摩擦を処理できない。やはり古代の天下システムから、危機解決の道を見出すべきである。現在のEUは欧州的世界主義の立場から、欧州の一体化をはかっている。それに対して、われわれは東アジアのグローバル的普遍性を求めべきである。古代の天下システムでは、陸地についての主権認識はありが、海洋はむしろ公的ものであった。このような視点は尖閣諸島の問題に向けて、新たな解決道を提案できると許教授がいう。

許教授の発表後、小林康夫教授はコメントにおいて以下のことを指摘した。許教授に提示された「新天下主義」にはヨーロッパ的な普遍と違う、新しい普遍の可能性があり、高く評価すべきである。この議論にあたって「天下」という言葉の翻訳が重要である。普遍はいつも翻訳可能性の問題にぶつかるから、「新天下主義」の議論において、「天下」という言葉の普遍化をまず考えるべきである。ヨーロッパの「個人指向性」の普遍主義は現在行き詰まっている。如何にして個の普遍性を乗り越える、新しい普遍性に導けるかが重要な課題である。「家族的類似」は実際に運用可能かどうかについてさらに検討すべきであり、間違えると、「個」確立以前の段階に逆戻りする危険さえ存在するからである。

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その後質疑応答の時間に入り、多くの建設的な意見が交換された。梶谷真司准教授は、アジアとヨーロッパの違いは、ヨーロッパ各国においてある程度の「力の平均」が取られていたが、アジアでは中国が多きな勢力としてある。中国が圧倒的に強い状況の下で、弱いものとの共存や対等的立場を保持することの難しさが考えられる、と指摘している。王前准教授は、「天下主義」という言葉の歴史性をもっと重視すべきだとし、過去には同化できなくて戦争になったこともあった。それを念頭にいれて考えると、「新天下主義」がいかにして「大中華主義の再来」を防止するかが課題である、と指摘した。林少陽准教授は、「帝国」外部の問題も重視すべきだが、その内部の民主主義についてもっと考察すべきであり、その際に「強民」か「強国」かが議論になるはずである、と指摘した。

石井剛准教授は、「民」は「天」と同時に生じた重要な概念で、「天」は「民」の代表であり、民意と政権の合法性を意味している。孔子にとって「天」は時には存在の根拠を意味し、空間的な概念ではないのである。この意味の「天」は「文」と一部意味が重なる(孔子「文不在茲」)。だから、「天」と「民」と「文」を結びついて考えることが大事である。もう一つ、前近代において天が有効に機能している間、知の面からそれをサポートしたのは「経学」である。「経学」が壊れた現在、「天」の普遍性はどのように知的構成すべきか、これは重要な問題である、と指摘した。

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中島隆博准教授は、「新天下主義」と「コスモポリタニズム」の関係について言及し、新しい普遍性を考える場合、国家の「よこ」または「下」にある普遍性、即ち地域的な普遍性について考えるべきだと指摘し、さらなる検討の要する三つの問題を挙げていた。「新天下主義」下の国家の位置、国家の合法性の問題。近代性について、「新天下主義」はハーバマス的な近代性とどのような関係にあるかの問題。「新天下主義」の枠組みにおいて、大漢族主義や世俗主義など、具体的な文明性と宗教性をどう考えるかの問題。UTCP助教の川村覚文氏から、「新天下主義」とは特殊を媒介する普遍か、特殊を批判する普遍か、という質問があった。

夜9時半まで議論が続き、発表会は盛況の中で終了した。

(文責 那希芳)

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