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【報告】「環境」をめぐる京都・熊本での活動(2)

2014.02.16 梶谷真司, 小村優太, 佐藤麻貴, 宮田舞, Philosophy for Everyone

2014年12月4日~8日の期間、梶谷真司先生のUTCPにおける「Philosophy for Everyone(哲学をすべての人に)」プロジェクト、ならびに総合地球環境学研究所におけるインキュベーション研究「地域性と広域性の連関における環境問題~実生活への定位と哲学対話による共同研究」の一環として、京都と熊本への出張があった。前回の佐藤麻貴氏による報告に続き、今回は、12月6日に熊本県阿蘇郡南阿蘇村でUTCP協力のもと行われた哲学対話の会、「南阿蘇でエネルギーを生み出せたらいいね!」座談会の報告を小村優太氏にしていただく。

 
12月6日 「南阿蘇でエネルギーを生み出せたらいいね!」座談会

その日(12月6日)我々は、朝早くに京都のホテルをチェックアウトし、大阪は伊丹空港へと向かっていた。その日の午後から南阿蘇で開かれる哲学対話のイベントに参加するためであった。ちょうどお昼前に熊本空港についた我々を、今回の対話イベントの現地コーディネーターである大津愛梨氏が出迎えてくれた。大津氏は南阿蘇でバイオマスなどの再生可能な持続エネルギーの普及にかんする活動を行っており、今回の対話イベントも、エネルギーにかんする対話を南阿蘇の人たちとするのが目的だった。大津氏の車に揺られながら南阿蘇に向かっていると、途中で長いトンネルを抜けた。どうやらこのトンネルの向こう側が阿蘇のようだ。

山麓の長いトンネルを抜けると、そこは一面黄色い大地だった。

この一面の黄色い大地は、なんとススキだという。阿蘇では代々このススキを「火入れ」や「野焼き」という行事で焼くことによって、植生を新しくしているのだという。しかし、人手も段々と足りなくなっていて、この行事も存続の危機にさらされているという。目の前に広がる黄色の大地、伸び放題のススキは、人手不足という地方の問題を体現しているようにも見えた。

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途中で立ち寄った店で阿蘇の赤牛を食べながら、夜の哲学対話の打ち合わせをする(参加人数が少なかったため、午後の部はなしにして、夜だけの開催となった)。我々は、哲学対話のファシリテーターとはいえ、言ってみれば余所からの参加者なわけで、大津氏から南阿蘇にかんする情報を事前に聞くことが出来たのはありがたかった。現在はどこにおいても、再生可能エネルギーにかんする議論はされていると思うが、南阿蘇は全体として豊かな土地であり、いまだ地域の人にはそれほど切迫感がないという現状も知ることが出来た。豊かな時代はいつもそうなのかもしれない。すでに上昇はしていないが安定している時代というのは、実を言うと下り坂に向かう準備段階なわけで、この時点でどんな対策をするかによって、その後の命運が分かれるのだろう。哲学対話ひとつでこの社会状況が易々と変わるわけではないが、そういった意味で、今回の哲学対話がなにか意義を持つことが出来ればと思う。

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6時半から、ついに今回の南阿蘇行きのメインイベント、哲学対話が始まった。最初は人の入りもまばらで、だいたい7時過ぎまで断続的に参加者が増えていくという感じだった。参加者もなかなか幅広く、まさに農業をやっているという人から、大学生、さらには幼稚園ぐらいの女の子もいた(可愛い女の子だったが、それはそれは見事な青っ洟をこさえていたのが印象的だった)。参加者のなかには、遠く八代市から来ている方もいた。最終的な参加者は20人ほどになったので、グループをふたつに分けて対話をおこなった。

まずは参加者同士の緊張をほぐすために、質問ゲーム。お題は「あなたにとって理想の村とは?」みんなさまざまなことを言っていたが、「青年団、消防団が機能している村」という意見が個人的には印象に残っている。自分は地方都市の市部出身で、その後も東京に出てきてしまったので、青年団や消防団と聞いても、正直なところ具体的なイメージがわかない。しかしそれを具体的な共同体の紐帯の象徴として捉えるという立場もあるのかと感じた。(いまだに消防団と消防署職員の違いがよく分からない)

その後は哲学対話そのものに入っていったが、まずは皆で話したい内容を出し合っていった。但し、今回は大津氏から「エネルギーについて」というお題は戴いていたので、それに沿った内容を。最終的に「どのエネルギーがこの村にいいか?」「自然エネルギーは本当に良いのか?」「何のためにエネルギーが必要なのか?」の三つに絞られた。私がファシリテーターをしたグループでは、「自然エネルギーは本当に良いのか?」というテーマで話し合うことになった。

私としては、そもそも言葉の定義に不案内なこともあり、「自然エネルギー」というものの定義がよく分からなかった。なにが自然?たとえば火力発電だって、さらに言えば原子力発電だって、石油、石炭、ウランを使用しており、それらは自然界に存在する天然のエネルギーなのだから、自然エネルギーと言えるのではないか、という疑問があった。すると、どうやらここで言う自然エネルギーとは、水力、風力、太陽光などの、いわゆる「エコ」なエネルギーのことを指すということが分かる(乱暴なくくりかもしれないが)。そうやって話を進めていくと、いままでずっと黙っていた参加者の一人が、「いままでは水力発電がいいと思っていたけど、たとえば環境にたいする負荷が少ない木造の水車を使用するとしても、そのための木材を山に入っていって伐採してくるわけで、その意味では環境破壊をしている。それでは、環境に配慮しているとはどういうことなのだろうか」という疑問を提示した。そこから話はどんどん根源の方向へ進んでゆき、最終的に、「人類は、人間として道具を使い始めた瞬間から、生きるうえでつねに環境破壊をしている生物なのだ」という点まで到達してしまった。これはおそらく真理の一端だろうが、環境やエネルギーについて考える対話で、これほどラディカルな地点まで到達するのかと、少し驚いた。

しかしそこで、「それは正しいのだろうけど、だからといって、今ある送電線をすべて破壊するというわけにもいかず、やはり今あるものは利用して、今後は出来るだけ環境に負荷をかけないという立場でいかないとダメなんじゃないか」という意見が出た。一旦根源にまで到達した後だからこそ、この意見が活きるのではないかと思う。まずはすべてを否定し、否定し尽くした後に、新たな土台を構築してゆくという、ある種理想的な流れになっていったのではないか。

最終的には、南阿蘇はブロードバンド環境が来ていないということで盛り上がった。「現代は地方にいても東京と変わらない。ネット環境さえあればどこにいても同じ」と言う人がいるが、それはあくまでも「ネット環境が整っている田舎」に関してである。ネットがつながっていないところに行っても同じことが言えるかどうか、そういうことを言う人に聞いてみたいものだ(南阿蘇にネット自体はつながっている)。

その後の感想などで、結局9時を回ってしまい、参加していた小さな子供たちには少し辛かったのではないかとも思うが、結果的にとても良い対話が築けたのではないかと思う。

最後に、我々が熊本市内に帰る際、対話に参加していた大学生にどこから来たのか尋ねてみたところ、「ここから10分ほどのところです」と言われ、「あぁ、歩いて?」と聞いたら、「いやー、車です。歩いては無理ですね~」と返されたのが、地味にショックではあった。こういうところのコンセンサスが取れないまま話していると、お互いの誤解に気付かないまま、とっ散らかった結果になることもままあるものだ。

(小村優太)

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