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【報告】「環境」をめぐる京都・熊本での活動(1)

2014.02.15 梶谷真司, 小村優太, 佐藤麻貴, 宮田舞, Philosophy for Everyone

2014年12月4日~8日の期間、梶谷真司先生のUTCPにおける「Philosophy for Everyone(哲学をすべての人に)」プロジェクト、ならびに総合地球環境学研究所におけるインキュベーション研究「地域性と広域性の連関における環境問題~実生活への定位と哲学対話による共同研究」の一環として、京都と熊本への出張があった。梶谷先生に同行したのは、宮田舞氏(UTCP)と小村優太氏(日本学術振興会)、12月5日に佐藤麻貴氏(UTCP)が京都で加わり、12月6日には神戸和佳子氏(UTCP)と清水将吾(UTCP)が熊本で合流した。

出張先として訪れたのは、以下の3つの催事であった
・2月5日:総合地球環境学研究所「平成25年度 研究プロジェクト発表会」
      於コープイン京都(京都府京都市)
・2月6日:「南阿蘇でエネルギーを生み出せたらいいね!」座談会
      於岸野公民館(熊本県阿蘇郡南阿蘇村)
・2月7日:「愛を語ろうin上天草 Xmasカップリングパーティー2013」
      於フィッシャリーナ天草(熊本県上天草市)

これらの催事はすべて、「環境」と「対話」をキーワードとした繋がりをもつものであった。これから3回にわたり、それぞれの催事の報告をさせていただく。


12月5日 地球研「研究プロジェクト発表会」傍聴報告

総合地球環境学研究所・平成25年度研究プロジェクト発表会を傍聴する機会を得た。報告者は全3日間に渡って行われた報告会のうち、中日5日の午後のセッション、資源領域プログラムの発表5本を傍聴した。傍聴した5本の研究内容につき要点をまとめる。また、傍聴を通して感じた所感を述べる。

・「アラブ社会におけるなりわい生態系の研究―ポスト石油時代に向けて―」
中東アラブ社会を研究フィールドにし、自然資源の利用に制約を設けなくてはならないだろうと想定されるポスト石油時代に向けて、生活基盤再構築のための含意導出を試みる研究。特に「なりわい」に重点をおいた生態系(ナツメヤシの多角的利用方法など)の実証的な解明を通して、乾燥沙漠地域のアラブ社会において維持されてきた生命維持機構から、再生不可能資源に依存した現代文明の在り方を、再度検討するというアプローチ。

・「東南アジアにおける持続可能な食糧供給と健康リスク管理の流域設計」
フィリピンを研究フィールドとし、農漁業の現場における生態変化と食のリスクへの応答として、集水域を単位とした住民参加型のリスク管理社会の構築を目指す研究。特に流域単位に注目しているところが興味深いのだが、流域における地域コミュニティに対して、主要なステークホルダーをどのように今後、プロジェクトへ参画させていくのかが課題となっている。

・「沙漠化をめぐる風と人と土」
沙漠化問題に対し、沙漠化とは貧困と資源劣化の連鎖だと定義した上で、研究対象地域を西アフリカ、南アフリカ、南アジアと広範に設定し、得られた知見から望ましい地域支援の在り方を導出しようとする研究。

・「アジア環太平洋地域の人間環境安全保障:水・エネルギー・食糧連環」
セキュリティ型社会の構築のために「グローバル、リージョナル、ローカルな階層性を担保しつつも統合的な指標を作り出せるのではないか」という仮説を立て、水・エネルギー・食料の連環がトレードオフ関係にならないように、どのようにしたら人間環境のレジリエンスに繋がるのかを模索していく研究。

・「地域に根差した小規模経済活動と長期的持続可能性」
何等かのシステム転換(環境要因、社会要因など)の際に「食の多様性」と「社会としての持続可能性」こそが社会のレジリエンスに繋がり、カタストロフに直面した後のソフト・ランディングを可能にしたのではないか、という仮説を立て、縄文時代を対象とし古環境学や考古学の観点から、人類社会のソフト・ランディング・パスを可能にしうる何らかの含意導出を図る研究。

(報告者・所感)
以上、5本の研究を概観して感じたのは、いずれの研究もローカルな知識(在来知・伝統知)を如何にしてリージョナル、グローバルのレベルに応用できるのか、あるいはその逆が可能なのか、という研究的試みである。

個別のローカリティをリージョナル、グローバルに繋げていくということにより在来知あるいは伝統知であった「知」の汎用性は高まるのかもしれない。しかし、同時にその地域の独自性に基づいて発展した「知」にどこまで汎用性が担保しうるのか、というのは未知数に近い。極所において醸成された「知」の汎用性の模索という点では、今後、情報の非対称性において、何を本当に重視すべきなのか、といった観点が必ず必要になってくるだろうし、そこで果たして、個別に提示された「知」の価値判断を正しく行えるものなのか、疑問が残る。

上記論点は、データ収集の手法にも通じるものがある。すなわち、ミクロなデータ(局所的なローカル・データ)をいくら収集したからといって、マクロなレベルへのデータ利用がスムーズに行われるものでもなく、その逆も真である。マクロ・レベルで示される一定の方向性に基づいて主観的に収集されたミクロ・データは、ミクロ社会として備わっている暗黙知的な共同体知を含まないデータになってしまい、マクロ・レベルでの価値観や主観を反映した上での情報収集に終始している危険性を保持する。しかしながら、ミクロ・データを指針無しに収集することを重視する研究(こちらの研究手法の方が、より実態に即した実直な研究であると言える)では、研究報告の際に落としどころが見えないとの批判を受ける。この地域の人間社会が持つ「知」を情報として収集する際のパラドキシカルな側面を、どのように整理すれば良いのだろうか。

ミクロ・データを指針無しに収集し、そこから共同体が持ち得てきた暗黙的な環境に対する「知」を抽出できたとしても、ローカルな知から抽出できる「知」は人間社会の多様性を示し得るものではあるが、それをメタ化する作業に入る時点での価値観の設定、またメタ化のプロセスを経ることにより、ローカルな「知」は途端に生命の息吹を感じ得ない「創られし新たな知」となる可能性がある。その「新たな知」が果たして地球環境を主眼に置いた際のグローバル行政に何等かの意義ある政策的含意を提示できうるものであるのか。個別の研究を傍聴していて様々な疑念が湧いてきたものの、今後の研究成果に期待したいと思う。

(佐藤麻貴)

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