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【報告】文京区立誠之小学校での哲学対話

2013.12.15 梶谷真司, 清水将吾, 小村優太, 宮田舞, 神戸和佳子, Philosophy for Everyone

2013年10月22日火曜日、文京区の誠之小学校でUTCP協力のもと哲学対話イベントがおこなわれた。

以下はその報告を、参加者のひとり、小村優太の視点から語ったものである。じつはこのイベント、本来ならば2週間前の10月8日におこなわれるはずだった。しかし折悪くその数日前から訪れていた台風のせいで、本来の開催日が運動会の予備日となっていたため、2週間後の22日に相成ったというわけである。当日もあまり天気は良いと言えなかったが雨も降らず、参加者は無事22日の午前8時に三田線白山駅に集合。参加者は私のほかに、東京大学UTCPの梶谷真司先生、同じくUTCPの清水将吾氏、神戸和佳子氏、宮田舞氏であった。前日に集合時間が変更になるなど、二転三転したが、当日はさしたるハプニングもなく集まることができた。

誠之小学校は白山駅からほど近いところにあった。白山駅前の大通りを後目に入り組んだ路地に入ると、ちょうど小学生たちの登校時間と重なったらしく、先生に導かれながら行列で校門をくぐっていく彼らと一緒に登校、まずは校長室にて校長先生とお話をして、その後哲学対話をしに、体育館に向かうことになった。校門を見たときにもその小ささに驚いたが、小学校という空間そのもののスケール感に大いに驚嘆した。何と言うか、全体が七割程度の大きさで作られているような感じがした。実際に小ぶりに設えられているのか、それが単に、20年ぶりに小学校という空間に足を踏み入れたことが引き起こす錯覚なのかは定かでないが。

やはり小さな、しかし小学生たちにとっては十分広大であろう体育館に参加者皆で入ってゆく。今回の哲学対話は、この誠之小学校の5年生たちで、1~2限は2組3組、3~4限は1組4組が参加し、各回60人ずつ、それをさらに15人ずつのグループ4つに分けて対話を行うという形式であった。授業1時間は45分なので、合計90分が1回の哲学対話に充てられることになる(あいだにはさまれる休み時間は休憩時間とした)。

まず入ってきたのは2組と3組の面々。担任の先生に導かれながら入ってくる姿を見て、自分も小学校のときには、こんなに規律正しく動いていたのかと思うと不思議な気持ちになる。4つのグループには、担任の先生と保護者の方にも入ってもらい、それぞれひとつのグループに2人以上の大人が参加するようにした。

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哲学対話の方式としては、あらかじめこちらで決めておいた5つのテーマから選んでもらうという方法を採った。ブルニフィエの本から選んだ5つの題(「幸せなときってどんなとき?」や「はやく大人になりたい?」など)を小学生たちに見せて、それから多数決で決定する。

哲学対話そのものに入る前に、参加者の意識をひとつに集中させるためにアイスブレイクを行う。「明日急に時間ができたら、どこに行ってみたい?」という題でみんなに一通り話してもらった。自分の担当したグループでは、自分が「スカイツリーに行ってみたい」、担任の先生が「京都に行ってみたい」と、大人が「旅行系」の発言をしたのに対し、子どもたちは「バレーボールの試合に行きたい」や「ゲームをしたい」、「本を読みたい」など、趣味をしたい系の話が多かったのが印象的であった。

哲学対話そのものでは「幸せなときってどんなとき?」という題が選択された。45分のうち全部が使用できるわけではないが、対話25分で前半後半と、かなりの時間を対話に使用できたので、対話も一様ではなかった。まず挙手をし始める子どもたち、ファシリテーターがそれを少し手助けしながら進めていく。前半はおそらく活発で社交的だと思われる子どもたちが積極的に発言してゆく。主に「幸せに感じるとき」という具体的な例を挙げながらの会話で、「対話」というよりも例の出しあいという風でもあった。ある程度出そろったと思われる辺りで、やや抽象的な話へと移ってゆく。「いろいろ幸せに感じるときはあるだろうけど、それに共通するものってなんだろう?」抽象化のプロセスがつねにうまくいくとは思われないが、今回はそれがなかなかうまく嵌ったようで子どもたちの思考も段々と抽象に向かって行ったと思われる。但し抽象的な話になっていくと議論が煮詰まっていくのも確かで、これからどうしようと思ったタイミングで休憩。

時間的にも1限と2限の休み時間なのだが、子どもたちはその間(10分前後)にも、体育館を本来の目的で使用しはじめ、どこからともなくボールを取り出し、走り回っていた。大人の方はさすがにそんな元気もなく、小学生たちの小さな体から発散される多大な熱量に圧倒されっぱなしだった。

10分の休憩が功を奏したのか、後半はまた新たな気持ちで再開できたように思う。後半はまた議論も少しずつずれていって、最終的には「好きだけど下手な人と、上手だけど好きじゃない人、どちらに任せる?」といった話に移って行った。運動会のリレーの場合、立候補したけどそんなに早くない人と、走るのが早いけど立候補していない人がいたら、どちらを選ぶ?合唱コンクールのピアノ奏者に、ピアノ好きで立候補した人(それほど上手くない)と、ピアノがすごく上手だけどべつにやりたいと思っていない人がいたら、どちらを選ぶ?基本的にはやりたい人を優先してあげたいという意見が優勢だったが、しかし試合などの場合は勝ち負けがあるわけだし、勝てる方を選ぶべきという意見もあり、単純な理想論に終始しなかったのは興味深かった。また、「大人は何事も結果重視だが、子どもはその過程も見るので、大人とは違う」という意見もあった。個人的にはこの意見の妥当性にやや疑問があるが、これは子どもたちの喝采を浴び、私と担任の先生は苦笑いをするしかなかった。

ちょうどその辺りで最初の授業は終了。2時間続きはさすがに疲れるが、子どもたちはまだ体力が有り余っているようだった。続いての3~4限は1組と4組に入れ替え、同じようにセッションを開始。こちらも同じように進んでいった。但し、今回私のグループは「はやく大人になりたい?」という題材を採用した。こちらも同じように進んでいったが、後半になると「大人への不満」というテーマに話が移ってゆき、そうなると子どもたちは俄然やる気を出し(なにを言っても大丈夫と事前に言われているわけだし)、普段から大人に言いたいことを次々に言い合っていた。そこで時間終了。ファシリテーターの介入具合は、どの程度を理想とするか、人によって違いはあるだろうが、対話の速度を落とすために割って入るというのも大事なものだと実感した。また、2回目のセッションにかんしては、子どもたちは先生の方を向きながら話すことが多かった。そもそも哲学対話から現実世界の上下関係を完全になくすことなど不可能だとは思うが、これは我々の側が事前に、「大人も子どもも同じ目線で楽しむ時間です」など、そういったアナウンスをしておくとよかったかもしれない。

我々に与えられた時間が終わると小学校はすでに昼食の時間となっており、各教室は給食の準備を始めていた。私は個人的に給食を食べたことが一度もないので(小学校の頃からずっと弁当だった)、給食の匂いでノスタルジーが刺激されることはなかったが、「なるほど、給食の雰囲気とはこういうものか」という新たな気付きを戴き、食欲の方は刺激されながら小学校を後にした。

(報告:小村優太)

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