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【報告】ワークショップ『〈心〉とネイション:東アジアの近代経験を巡って』

2013.12.09 石井剛, 杉谷幸太, 那希芳, 東西哲学の対話的実践

2013年11月16日、台湾交通大学の劉紀蕙教授を招いて、『〈心〉とネイション:東アジアの近代経験を巡って (“心”与Nation――反思東亜地区的現代経験)』と題するワークショップが開催された。場所は駒場キャンパス18号館、コラボレーションルーム4である。劉教授は政治哲学が専門で、章炳麟に代表される近代中国思想と、西洋政治哲学との比較研究をされている。UTCPからは石井剛准教授と林少陽准教授が参加し、他に一橋大学の鈴木将久教授、明治大学の志野好伸准教授を招いて行われた。

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なお本ワークショップは、発表、討論など全て中国語である。下記の記事は、志野氏、林氏に関する部分をRA研究員の杉谷が日本語で、それ以外を同じくRAの那希芳が中国語で執筆し、それぞれの文章を翻訳して繋げたものである。このため、同じ記事の中国語版を読むこともできる。

劉紀蕙氏の『勢と法の政治的パラドクス――ジュリアンの問題』と題する講演では、まずフランソワ・ジュリアンの学説の特徴と矛盾についてまとめた。ジュリアンは、道家の「勢」および「虚空」の概念が中国の独裁的統治のためのロジックを提供し、それが歴代の統治者と民衆の心に浸透することで、命令と服従の体系を共同構築したという。他方でジュリアンは、「形勢」の作り出すシステムを受け入れ、賛美しさえする。

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そこで劉教授は、章炳麟(章太炎)の思想によって、「勢」と「虚空」をどう見るかについて新たな観点を提示する。章炳麟は各人の「独自性(不斉)」を承認し、「道」は各人を「各々其の欲するに適(ゆ)」かしめるのであると強調する。章にとって、歴史とは「持続的に変化する運動状態」であり、ジュリアンの言うような最初の「起点」はない。あるいは歴史上のどの点も「起点」でありうる。そしてそれぞれが「勢」を含んでいるという。そのとき「虚空」とは「百姓の心を(自らの)心とする公器」であり、「持続的に回転し開閉し、虚にして物を俟つ『心斎』」であるだろう(※訳者注:「心斎」は『荘子』「人間世」冒頭の顔回と孔子の問答に出てくる概念。心から欲望を遠ざける、心の物忌み)。その両者が重なってはじめて理想状態となると劉氏は考える。

討論では、石井氏が章炳麟研究における法と歴史、法と秩序の重要性について提起した。また志野氏は、ジュリアンの「勢」概念がある種の歴史性を持つのではと述べた。杉谷が章炳麟の「虚空」と法華経や禅の関係について質問した。また林少陽氏は、ジュリアンの中国・西洋二元論的な分析が、中国を単純化しており、もっと多元的な読解を行うべきとコメントした。

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続く鈴木将久教授の『民族と啓蒙――民族形式の論争における胡風』は、「胡風理論の、民族形式論争のコンテクストにおける意義」を解明した。鈴木氏によると、毛沢東が「マルクス主義の中国化」「中国的やり方(作風)と中国的態度(気派)」を提起してから、文芸界では向林氷がそれを「旧い形式によって通俗文芸を広める」こととし、「大衆の自己調整、自己否定能力」を強調した「民間形式」論を打ち出した。すなわち向は、都市の青年知識人中心だった「五四・新文化運動」を否定したのである。

これに対して、胡風は抗日戦争時期の文芸を「啓蒙運動」と位置づけた。つまり五四の伝統の先にある問題として「民族形式」を思考した。鈴木氏によれば、胡風の着目点は「作家と知識人の思想問題」にあり、彼の言う「啓蒙」とは「知識分子がリアリズムの方法で一定程度の自己の思想改造を行い、主観の力を作り上げるプロセス」のことであった。

向と胡の対比から、鈴木氏は向の「農村民間社会の自発的能力を信頼する」方向と、胡の「知識人が主観的な力を得るプロセス」という主張が、実は共通の問題に直面していたと結論付ける。それは、「農村の地方文化の統合、都市の知識人の位置づけ」であり、それゆえ彼らは農村であれ、知識人であれ、共に自己改造、自己否定をとりわけ強調したのであった。

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討論では石井氏が、胡風の世界革命論と民族形式の関係、および胡風の「民族」概念について質問した。(聴衆からは)張昭軍氏が「マルクス主義の中国化」という言い方について毛沢東選集を含め、文献学的考察が必要であると述べ、毛沢東と胡風の文学論の違いなどについて討論した。

志野好伸氏の『哲学の衰弱――王国維の哲学と国家』と題する発表は、王国維が1907年に発表した『屈原文学之精神』の背後に、彼の個人主義思想から国家的(儒家的)思想への転換を読みとるというものであった。王国維はもともと、戴震や阮元を孔子・墨子流の北方実用哲学の流れを汲むとして批判し、南方の老荘思想こそ西洋の観念哲学につながるとして高く評価していた。そして儒家哲学とくに宋学に対しては、カントやショーペンハウエルなどに依拠してその倫理的色彩を薄め、「内観」をキーワードに普遍的な認識哲学の構築を目指していたのである。

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しかし、もともと「人生問題」を解決せんとして哲学に進んだ王国維は、どうしても自己と他者、倫理というテーマに戻ってこざるを得なかった。『屈原文学』を書く直前、彼は自身の「愛する」高邁な倫理説・偉大な形而上学・純粋美学と、自身の「信ずべき」快楽主義、実証主義、経験的知識論との分裂について語り、「哲学に疲れた」と漏らしている。このために彼は北方の孔子・墨子的伝統を再評価せざるを得なかった。この「疲れ」ゆえに、王国維は最終的に哲学を放棄し、考古学へと沈潜していくことになったのである。

林少陽氏の発表は、『章炳麟と明治日本のアジア主義――岡倉天心、日英同盟、インドとの関連』というタイトルであった。林先生は、アジア主義を批判的に再考するために、「方法としてのインド」という視点の導入を主張する。すなわち、日本にとってはインドの宗主国であるイギリスとの同盟が、自らのアジア主義を問い返す批判の鑑になる。他方、仏教哲学に依拠して革命理論を組み立てた章炳麟にとっては、仏教発祥の地である「インド」が、ちょうど竹内好における中国のように、実態を離れて理想化されていたという。それゆえインドは、章炳麟のアジア主義的人種思想を問い直す鑑としても機能する、というのが発表の骨子であった。

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志野氏と林氏の発表に関する討論では、戴震に対する章炳麟と王国維の評価の違いや「歴史」観の差異――王国維の「実証主義」と章炳麟の「テクスト主義」――が、両者の哲学を理解する鍵になるとの指摘が石井氏からあった。また、そもそも章炳麟の革命思想は「人種」より「民族」に重点があった、という面も見逃せない。インドをめぐっては、毛沢東の第三世界論や人民概念にもつながるが、毛(彼は章炳麟を高く評価した)と章炳麟のアジア主義の違いはどこにあるか。また梁漱溟のインド観、共産党のインド観なども含め、中国にはインドに対する傲慢さが一貫して存在するのではないか、そこを批判的に検討すべきという意見は新鮮であった。

石井剛氏の『内村鑑三の信仰と国家』は、丸山真男、竹内好、伊藤虎丸などによる近代化と主体形成の議論をまとめ、「なぜ近代の主体性はnationの名で正当性を確立するや、ただちに差別や排外といった抑圧機制へと転じるのか」という問題を立てた。

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石井氏は、内村鑑三の思想は「キリスト教信仰と愛国心が表裏をなし」、満洲や朝鮮の民族的主体性への想像力が欠如していると指摘した。内村の「忠孝道徳」批判は、本来「内在的な『掙扎』」のはずだが、彼はそれを「中国式道徳」として批判し、それを「取り去る」ことで純粋な主体性に立ち返ることが可能とした。(※訳者注:「掙扎」とは「あらがう、もがく」意。竹内魯迅論のキーワード。自己の内部にある影を見出し、それとの対決を通じて自己を保持しつづける態度のこと)。したがって「内在的な道徳信仰の改造」であるべきものが、「外部勢力への抵抗」と読み替えられ、内村の主体形成は「『中国』の刻印を取り除く」プロセスになってしまった。内村は現実のnationに抵抗しつつ、同時に東方世界における日本の唯一無二の優越性を証明しようとした。そのため国内の非戦論者、朝鮮人、中国人は「みな彼の『日本』の犠牲になった」のである。

討論では林少陽氏が、内村のいう「儒教」とは具体的に何かを検討する必要を説き、杉谷は魯迅と内村を並べる伊藤虎丸は、両者にある強烈な「個」の思想を見ていること、「個」に基づくヨーロッパも「犠牲」の問題に直面することがあると主張した。鈴木氏は、魯迅の主体性にある(幻灯事件などによる中国人であることの)「恥辱」の感覚が、内村にも見出せるかを問うた。劉紀蕙氏は、nationと民族の関係から国民国家を問い直す契機があるとした。

最後の全体討論では、まず民族と国家、主権について討論がなされた。たとえば章炳麟の「君を虚にして共に和す(共和)」をどう理解するか、孫文は五族共和の以前、「駆除韃虜」つまり満洲のくびきからの独立を主張しており、中国近代の民族と国家の関係は複雑であることなどである。

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林少陽氏は、章炳麟の「革命道徳」について、彼の仏教信仰とりわけ「衆生の平等」と、革命における暴力が矛盾するのか否か、という疑問を提示した。劉紀蕙氏からは、章のなかにアジア聯盟の構想があったことから、彼の主権概念について再考する可能性が提示された。

他に「犠牲」の問題も重要なテーマとなった。劉紀蕙氏は「犠牲」が「参与」と一体感をもたらすのは、それが本来宗教的であるためで、それに対して法律は異質なものを排除する性質があることが近代国家の問題だとした。志野氏は、「犠牲」と共同の信仰、共同体を関連付けて考察した。石井氏は、「生生主義」と国家をつなげることで、全く新しい角度から「犠牲」を考えられるのではないか、と提起した(生生主義とは、明末に顕著になる思想で、「生生已まず、自彊して息まぬ」(易経)気によって外的世界が生み出され、それが自己の内面の「真情」と一致するという立場。主観主義的な気の哲学)

(文責:杉谷幸太)

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