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【報告】第3回沖縄研究会開催

2013.12.03 内藤久義

2013年9月6日、東京大学駒場キャンパス101号館研修室で、第3回沖縄研究会が開催され、吉田直子さんによる「沖縄戦の語り継ぎがもたらすもの―他者理解を経由する学びの創造の観点から―」 の研究発表がされた。

現在、沖縄では沖縄戦を語り継ぐ「平和ガイド」が、平和学習、沖縄の民俗や文化、史跡を案内する活動を行っている。しかし、戦後68年が過ぎ沖縄戦を体験したガイドが高齢化すると共に、沖縄戦の非体験者である戦後世代のガイドが多く活躍するようになってきた。非体験者は、平和ガイドの役割を担う経験を通じて、当事者(戦争体験者)という「他者」へどのように接近しようとしているのか、他者を自分の理解のうちに包摂してしまうことなしに、いかにして他者の経験、特に痛みの記憶の感受が可能なのか、という問題を通して語り継ぎの意味と可能性について発表した。

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語り継ぎには二つの問題が内在する。その一つが当事者(戦争体験者)と非当事者(非体験者)という二つにカテゴライズされた集団で、誰が何を語るのかという語りの正当性をめぐる混乱が起こり、そこには「語り得るのは当事者だけ」という声があがる。非戦争体験者の語りとは、当事者の言葉を踏襲するだけのものでしかない、それでは戦争の記憶の継承が途絶えてしまうのではないかという懸念がある。

二つ目の問題点として、沖縄に対してのコロニアルなまなざしがあったこと。ひめゆり学徒隊にしても、悲劇の主人公として国のために純真に尽くした悲劇的で崇高なイメージとして刷り込まれているが、ナショナルヒストリーにからめとられたイメージの表象でしかない。また、観光としての沖縄ブームや修学旅行における沖縄平和学習が決して問題解決につながっていないことを指摘する。しかし、語り継ぎの実践がこれらの問題の突破口になる可能性を示唆した。

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吉田さんは、宮地尚子著『環状島=トラウマの地政学』(2007年、みすず書房)から、「ポスト・コロニアリズムは、発話者のポジショナリティを深く問う契機を促した。それは必要不可欠な問いであった。けれどもそこからは、本来目指す方向とは逆に「当事者でなければ何もしゃべってはいけない」といった浅薄な誤解も生み出されてしまっている」ことを引用し、当事者の語りにこだわりすぎることで、民衆史が潜在的に持っていた権力者の支配に抗する力を逆に削いでしまうことを述べる。

また、語り継ぐことについて、〈共有〉〈ポストコロニアル論〉〈多声(polyphony)の創出〉等から指摘すると共に、ベンヤミンの翻訳論を援用し、「原作と翻訳が交差することで、原作も翻訳も共に深化する」という観点から、平和ガイドの戦争体験当事者と非当事者の関係性に言及した。

最後に吉田さんはあらためて語り継ぎの可能性について論じた。語り継ぎとは、一見同じに見えるものの微細な差異、及びそれを成り立たせている背景や構造に視点をずらす行為そのものであり、伝達可能・表象可能な何かを受け取ると同時に、伝達し得ない何かを同時に受け取ることが可能にするものであるという。

今後の語り継ぎの可能性については、沖縄戦を体験した当事者の不在を嘆くのではなく、当事者が身を引き裂くような思いで残していったテクスト、また言葉を残すことなく亡くなっていった戦死者たちが確かに生きていたという痕跡(≒記憶、戦跡)をどう読むのか、当事者に寄り添いつつ、また自身の語りによってその事象に名を与えることを自覚しながらも、出来事への多様な方法を可能にするもの、そして自身に潜むコロニアルなまなざしに対して常に自省をうながす契機にすることであると述べる。そして、沖縄戦の記憶が「死後の生」を生き延びるための手段であると結んだ。

次回の沖縄研究会は2014年1月開催予定。日程の詳細は後日ブログにアップいたします。

(報告:内藤久義)

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