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【報告】クリストフ・ダヴィッド講演会「ギュンター・アンダース――世界の終わりと人間の終わり」

2013.11.11

2013年11月1日、レンヌ大学准教授のクリストフ・ダヴィッド氏を招き、国際ワークショップ「ギュンター・アンダース――世界の終わりと人間の終わり」が行なわれた。モデレーター兼通訳を渡名喜庸哲(東洋大学)、ディスカッサントを田口卓臣氏(宇都宮大学)、佐藤嘉幸氏(筑波大学)が務めたほか、エリーズ・ドムナク氏(リヨン高等師範学校)ほか多くの参加者があった。

クリストフ・ダヴィッド氏は、レンヌ大学で芸術哲学や現代ドイツ哲学などを教えているが、とりわけフランスにおけるギュンター・アンダース受容の第一人者として知られている。アンダースの『時代おくれの人間』全二巻や『核の脅威』の仏訳なども彼の手によるほか、アンダースの未公刊論文集や多彩な分野のアンダース論をまとめた編著『ギュンター・アンダース:世界の終末を遅らせるため』を2007年に公刊している。

今回の来日は、東京外国語大学の西谷修氏を研究代表とする科研費「生命統治時代の〈オイコス〉再考とポスト・グローバル世界像の研究」によるものであり、前日の10月31日には東京外国語大学においてダヴィッド氏を囲む国際ワークショップ「ギュンター・アンダースと核の問題」が開催された。

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11月1日のUTCPでのダヴィッド氏の講演の正式なタイトルは、「どうしてギュンター・アンダースは、アポカリプスを世界大戦と同じ地平に置き、歴史が向う終わりを人間の終わりであるとしたのか」である。タイトルが示すように、アンダースにおける「世界大戦」と「アポカリプス」の問題が焦点となった。この講演で主な参照先としたアンダースのテクストは以下の三つである。一つ目は、1965年に公刊された『死者たち:三つの世界大戦についての講演』(Die Toten: Rede uber die drei Weltkriege)、二つ目は「アウシュヴィッツとブレスラウ」および「ホロコーストの後で」をまとめた『ハデスへの訪問』(Besuch im Hades, 1979)、三つ目は、アンダースが核をめぐって展開したさまざまな考察をまとめた『核の脅威』(Die atomare Drohung, 1981)である。実のところ、「アポカリプス」を主眼に据えたアンダースにあって、とりわけ問題とされるのは「ヒロシマ」および「核戦争」であり、――この点が同世代のほかの思想家らとは異なるところであるが――「アウシュヴィッツ」および第二次大戦が正面から取り上げられることはあまりなかった。そういう意味でも、これらの稀有なテクストを取り上げ、その連関を示したダヴィッド氏の着眼は貴重であった。

ダヴィッド氏によれば、アンダースの考える「核戦争」とは、「勝者」/「敗者」、「敵」、「武器」といった古典的な戦争概念を根底から覆すものである。一回的に、しかも地理的に離れたところから、たんに「敵」ばかりではなく、自分自身をも含んだ人類全体を「絶滅」させることが可能になるからである。とするならば、アンダースはどの意味で第二次大戦を来たる第三次大戦の「プレリュード」と呼んだのか。それはまさしく、第二次大戦、より正確にいえばそこにおけるヒトラーによる絶滅作戦が開始した敵の抹消という目論見を、第三次世界大戦たる核戦争が最大限に現実化させようとするからである。核兵器によって、戦争は戦略的営為であることを止め絶滅をめざす技術的なプロセスへと変容するのである。もちろん両者には差異は残る。ヒトラーによる戦争が一つの民族に対する「ジェノサイド」を目的としていたとすれば、核戦争のほうは、一つの民族に限定されない「ジェオサイド」〔地球殺害〕にいたり、しかも、あらゆる「目的(fin)」の追求をも不可能にするためだ。そもそも原因が人間の想像力の欠如にあれ人間の技術的エラーにあれ、いったんこのプロセスが始動してしまえば、端的な「終わり(fin)」、世界と人間の「終わり」が現実のものとなるのである。ダヴィッド氏が最後に喚起した、アンダースによる「終わり」の後のイメージ、すなわちあらゆる人間がいなくなったあと、不条理なまでに動き続ける戦闘マシンが自らに託された「技術的プロセス」を繰り返し遂行するだけという現代の「アポカリプス」のイメージは、まさしくリアルなものとして受け止めるべきであろう。

ダヴィッド氏の講演につづいて、まず佐藤氏と田口氏からのコメントがあった。

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佐藤氏からは、とりわけアンダースが核戦争について述べたことはそのまま原子力事故にも適用しうるのではないかという見地からの指摘がなされた。核戦争が戦争という概念そのものを変化させたとすれば、原子力事故もその被害の規模や射程を考えると「事故」の概念それ自体を変化させるものであろう。また、アンダースが核戦争について繰り返し述べた人間の想像力の欠如という点も原子力事故も当てはまる。それに加えて、原子力に関しては、国家と資本による安全イデオロギーも想像力の欠如に加担している。こうした点から原子力の軍事利用のみならず「平和」利用についても批判の目を向ける必要性が喚起された。

田口氏のコメントは主に以下の三点にある。まず、福島第一原発の三号機は、原理的には原子爆弾と同じ核爆発であったことを考えると、原子力事故と核アポカリプスを峻別するよりも、持続的な「破局」のプロセスに目を向けるべきであろう。また、3.11以降のプロセスが、「復興」と「奉仕」の論理の強調、復古主義的な言説や排外主義などの点で、1923年の関東大震災以降日本がたどったプロセスと酷似している。この「反復強迫」における為政者たちの「アポカリプス不感症」は、「戦前」を終焉させた象徴的な契機としての「ヒロシマ/ナガサキ」をあらためて回帰させているのではないか。さらに、田口氏は、大江健三郎の『核時代の想像力』とアンダースの議論の類似性を指摘しつつ、大江が注目した核兵器が「敵」にもたらす威力は大きく見積もり「自国」のなかでは核兵器の被害を小さく宣伝しようとする欺瞞に触れ、こうした「国民国家」の枠組みを問いただすべきではないかと指摘された。

ダヴィッド氏からの応答では、やはりアンダースは、個々の「カタストロフ」的出来事よりも、最終的な「アポカリプス」の可能性のほうを重視して考えていたこと、しかしこの可能性がわれわれの現代の技術的進展とそれに反比例するかのような「想像力の欠如」や「過小化」などの手管の洗練によってきわめて現実的なものとなっていることが強調された。とりわけ「過小化」とは、アンダースが『核の脅威』に収めた一つの論稿のタイトルであり、アンダース自身が「核の脅威」に対して、為政者の側がどのようにして危険や被害を「過小化」しているか、その「方法論」を暴いているものである。その意味でも、アンダースが「核戦争」というアポカリプスをもっとも念頭においていたにせよ、原子力「事故」を含めた「核」全般について思考する際に、その著作をもう一度参照する意義があらためて浮かび上がってきたと言えるだろう。

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その後、フロアとの質疑応答が行なわれた。とりわけ核時代における人間の「想像力の欠如」というアンダースの考えに関心が寄せられたと言える。現代的「崇高」というべきアポカリプスに対する「想像力」と「美学=感性論〔アイステーシス〕」との関係については、アンダースが、ツェランなどの、ある種のカタストロフの「美学化」ないし「荘厳化」には異を唱えつづけたこと、とはいえブルックナーの交響曲には人間の想像力を拡げる可能性を見いだしていたことなどが紹介された。福島県在住の参加者からは、アンダースの言う「想像力の欠如」は、まさしく福島に現に住む人々にも見られるが、しかし同時に、その現実の生活こそが彼らにとっての現実であり幸福の宿るところであるという矛盾をどう考えるかという問いが提起された。この問いは、アンダースの思考を現在という文脈において考えようとする者にとっては避けることのできない問題であろう。アンダースの言う「想像力の欠如」は、為政者や原子力産業を動かす者たちだけに向けられているのではなく、まったくの善意でもってこの社会を支えながら生きる「われわれ」自身に向けられたものでもあるだけになおさらである。

モデレーターの不手際もあり予定時間を大幅に過ぎてしまったが、それでもなお論じるべき問題は尽きなかった。とはいえ、日本ではこれまでアンダースを主題にするディスカッションはほとんど行なわれてこなかっただけに、きわめて有益な議論となったように思われる。ディスカッサントをはじめ参加してくださった方々、ダヴィッド氏の招聘の労を執ってくださった西谷修氏、また会場を提供し適切なサポートをしてくださった東京大学UTCPのみなさんにあらためてお礼を申し上げます。

(文責:渡名喜庸哲)

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