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【報告】アラン-マルク・リウー講演会

2013.07.03 小林康夫, 馬場智一

アラン-マルク・リウー講演会
Ver une autre ouverture — Comment s’émanciper de son histoire ?
2013年6月21日(金)東京大学駒場キャンパスコラボレーションルーム3

去る6月21日、マルク-アラン・リウー氏による講演会「Vers une autre ouverture — Comment s’émanciper de son histoire ?」(もう一つの開けへ:どのように歴史から自由になれるのか?)が小林康夫(東京大学UTCP)の司会で行われた。リウー氏はリヨン大学哲学科および同大学東アジア研究センターで教鞭を執られており、すでに何度も来日されている。

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講演を始める前に、まず司会からリウー氏に対して、自身の哲学的立場を形成するにあたり影響のあった哲学者について質問がなされた。氏は高等師範学校を卒業したフランスの哲学エリートである。デリダについてはある時期まで読んでいたものの、同時代の哲学者で最も影響が強かったのはむしろドゥルーズやフーコー(そしてリオタール)であった。教員として赴任したストラスブールではナンシー/ラクー-ラバルトがおり、大いに刺激された。この国境沿いの街でリウー氏は当地を訪れていた日本の研究者らと接触するようになり、様々な分野の日本人研究者と知悉を得ることになる。その中にはこの三月に逝去された人類学者の山口昌男氏も含まれていた。

フランスの伝統的な哲学のトレーニングを積んだ哲学者で、ここまで日本の歴史を学び、独自の観点から論じている人物は希有であろう。しかし日本の近代への問いは、同時にヨーロッパの近代への問いでもあり、両者を往復することによって氏の哲学的思考は深まっている。現代を生きる我々にのしかかる近代を哲学的思考の対象とするのは、哲学が現実世界へと介入しなければならないという、氏にとってのある種の知的定言命法に由来している。

さて、講演のタイトルにある「開け」とは我々の生きる近代が終焉したあとの時代への開けである。先進諸国は近代化のプロセスが終了しつつある段階にあるが、「開け」とは端的にいえばまだ見ぬ次の時代のことである。今回の講演は決してこの時代を予言しようとするのではない。脱構築の過程にある近代についての知を共有し、未来を再構築するためにどう行動すべきかを思考すること、そのための手掛かりを提示することが本講演の趣旨であった。

近代という時代の特殊性はその不可逆的な変化にある。アレントはガリレオによる近代科学の出現を、歴史に分断をもたらす大きな出来事として取り上げ、それが可能になった観念、認識上の条件を明らかにしようとした。アレントは、原子爆弾、人工衛星、情報工学の誕生を目にしつつ、『人間の条件』(1958)でこの問題に答えようとした。近代をもたらした分断の条件に答えようとしつつ、新たな分断的出来事が目の前で起きていることを理解していたのである。彼女は目の前で起こりつつあることを、その起源である近代の、17世紀以降の出来事を通じてのみ、なんとか思考の対象にし得たのである。

近代における「人間精神」の根本的な変化を思考するためには、従来の「哲学」では不十分である。この変化は「社会の自然本性」とアレントが呼ぶものの変化なのであり、それを考えるための思考を、既存の哲学から解放しなければならない。いわば「哲学」以後が求められるわけである。

これまでの哲学からの解放を考えるためには、このポスト哲学という時代の性質を明らかにしなければならない。この作業は哲学という一つの知についての反省を必要とする。リウー氏は、いわゆる「再帰的近代」論からは一線を画し、ブルデュー社会学の手法もとらない。彼が依拠するのはジャン-ピエール・ヴェルナンら、古代ギリシアの人類学的研究である。日本では早くから山口昌男によって紹介されたヴェルナンの仕事、とりわけ『ギリシア人における神話と思想』が参照される。この研究が明らかにしたのは、ギリシアにおける「神話」がどのような社会的条件のもとで、次第に変容し、天体の見方がかわり、知と技術から抽出された天体観察へと変化したのか、そしてこうした変化が共同体生活にどのように波及したのか、である。リウー氏はこうした宗教的、知的、政治的変容のプロセスの解明を、近代における変容を解明する際の一つモデルケースとしてとらえる。

近代に内在する変容の運動は、変容する社会が自分自身を絶えず作り変えてゆくという再帰性を本質とし、これが不可逆的な変化としての出来事を生む。自らを破壊しつつ新たに生み出す近代の生成運動は、デリダの脱構築がその条件を問おうとした問題でもあるが、リウー氏は脱構築概念を、シュンペーターの「創造的破壊」に近づける。この概念はそもそも市場資本主義的な社会の再帰的変容プロセスを説明するものである。変容はなんらかの革新(イノヴェーション)によってなされるが、どのような革新がもたらされるのかは分からない。『資本主義、社会主義、民主主義』の第七章「創造的破壊のプロセス」では、資本主義的社会においては、あらゆる革新が(その由来がなんであろうと)、集合的な経済的富の源泉となることが示されている。この場合の経済とは革新を評価するための手法であって、経済的革新が社会全体を変えるわけではない。むしろ、シュンペーターにとって資本主義とは経済体制の一形態というよりも、あらゆる領域の革新によって発展する社会の一形態なのである。

シュンペーターは資本主義における革新が政治体制の変化を生みだすことを主張したが、創造的破壊の争点は政治だけではない。それはまた社会システム全体の分断をも生み出す。すなわち産業、社会、文化の全体の構成を変えて、それまでの社会システム全体と分断した別の形態へと移行するのだ。エネルギー危機を経た後、1980年代、経済・社会システム上の危機がもたらす長期的な影響について問い始めたアングロ・サクソン系の経済学者、社会学者たちは日本について関心を抱き調査を始めた。クリストフ・フリーマンらによる研究は、技術、電子工学、情報工学上の革新を日本がどのように経済成長に結びつけたのかを調査した。日本社会は、研究、投資、生産上の革新が経済成長に結びつくように組織してきたことをこうした調査は明らかにし、他国もまたこうしたモデルに追随した。ある一つの革新が源流となり下流にある様々な領域に変化をもたらすというヒエラルキー構造ではなく、社会のあらゆる領域の革新が同時に相互に作用しあうという再帰性がこうした成長を支えている。リウー氏の見解では、おそらく政治的な障壁によりこうした再帰的変容の脱構築的過程はいまだ十分に進んでいるとはいえない。

ハイデガーやフーコーにおける「形而上学」や「エピステーメー」「知の秩序」といった概念もまた、近代の再帰的な自己破壊と再構築、すなわち自己の外へと出る運動を、哲学において体現している。近代的な哲学から抜け出す思考の力は、「形而上学」批判から得られるのであり、知の秩序の分析から批判的な力を得て、現代社会における政治的争点へと介入していかなければならない。

リウー氏の力強い思考が見せる、革新による社会システムの不可逆的変容に対するある種のオプティミズムは、新自由主義的な世界の再編が進む現状を鑑みるならば、すくなからぬ驚きを呼ぶのは確かだ。フロアからのいくつかの反応もまた、それぞれの仕方でこの印象を共有していたように思う。しかし、当日配布された報告原稿の注では、日本モデルの調査がもともと、新自由主義に対抗した社会民主主義的な政策を視野にいれてなされていたことが指摘されている点をここに付言しておきたい。

現実への哲学の積極的介入を目指すのとは対照的に、彼の分析は冷静な歴史的観察、社会の動態的分析に基づいたものであり、決して特定の政治的価値に方向づけられているわけではない。いまだ先の見えない再帰的脱構築運動の先を、ディシプリンと国境を越えて見据えようとする意欲は、こうした冷静さによって支えられている。

長年日本の研究者たちと交流してきたリウー氏は、その明晰な目を日本の近代にも向けている。日本の知性と対話し続けてきた、フランスの哲学的知性による日本の近代論については(そしてその延長線上にある3.11も含めて)、先ごろ出版された『未完の国――近代を超克できない日本』を参照されたい。

アラン-マルク・リウー『未完の国――近代を超克できない日本』久保田亮訳、水声社、2013

http://www.suiseisha.net/blog/?p=2704

報告:馬場智一(CPAG)

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