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梶谷真司「邂逅の記録52:延世大学との共同シンポジウム(2)」

2013.07.03 梶谷真司

2日目のセッションのテーマは「文学と批評の新たな地平」であった。

一人目の発表は、延世大学のキム・イェリムさんの「労働のロゴスピア」であった。そこでは、資本主義において批判的知性・言語をもつ主体として、いわゆる知識人集団ではなく、労働者がクローズアップされた。彼らが語る文学は70~80年代に興隆するが、90年代以降も積み重ねられ、今日に至るまで新たな形で発展してきた。キム氏は、第一世代を資本主義的な抑圧からの解放による「成長と成熟」と呼び、第二世代を非正規雇用の若者が様々な職を転々とする果てしない「移動」と呼ぶ。そこには継続的な発展はなく、たえず新たな状況に適応する身軽さだけが求められる苦しさがあり、それをどのように表現するか、様々な試みがなされているという。

続けてUTCPから一緒に行った武田将明さんが「平野啓一郎の文学と現代社会の共生」について発表した。彼は英文学の専門で文芸評論家としても活躍していて、今回私たちと同行した平野さんとも親交があって、彼の本の解説も執筆している。武田氏は発表で、平野氏が近年作品の中でテーマとしている「分人主義(dividualism)」を論じた。これは、人間を分割できない「個人(individual)」なものとして見るのではなく、状況に応じて現れる多様な「分人(dividual)」の集合と捉える人間観である。核となる"本物の自分"を前提する個人主義の限界、分人主義のリアリティ、その難しさ、苦しさと希望について、平野作品を取り上げながら考察した。

次に、梨花女子大学の先生で詩人でもあるジン・ウンヨンさんの「文学の孤独:ポイエシスからプラクシスへ」は、文学をポイエシス(制作)という完成された作品に即して捉えるのではなく、読んだり書いたりする行為そのものとしてのプラクシスへ転換しようとする。それは、ある作品を読んだり文章を書くことでそのつど一回的な出来事として生起する。とりわけ書くことにおいて、自らの経験、問題により普遍的な表現を与えられれば、そこにプロとアマの本質的な差はない。その出来事の一回性、独自性において文学は孤独な営みであり、そのようなものとしてすべての人に開かれているという。

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ここで午前中の発表が終わり、続けて作家の平野啓一郎さんと聖公会大学のチャ・スンギさんをコメンテーターとして討論が行われた。平野さんは現代思想、哲学一般にも造詣が深く、自らの創作活動と結びつけながら、現代社会とそこでの主体のあり方について興味深い指摘、意見を述べ、おかげで議論も大変面白いものになった。

午後のセッションでは、まずUTCPの中島隆博さんが、「主権のパルタージュ―原子力と主権―」と題する発表を行った。彼によれば、3・11の震災とそれに続いた原発事故の問題において二つの主権者が現れた。一つは国家、もう一つは国民である。彼によれば、原子力に関して国家主権は至高性と制限の間で揺れ動いてきたが、冷戦後の地域紛争の頻発の中で、「保護する主権」の概念がクローズアップされるようになったという。それを原発事故のようなケースにどう適用するかは意見が分かれる。ただしそこでは、国家にせよ国民にせよ、主権を分割不可能な一体性において捉える思考は変わっていない。そこで中島氏は、デリダの「パルタージュ(分割にして分有)」に依拠しつつ、国家や国民の枠にとらわれない「人民主権」を来るべき民主主義の主権概念として提唱する。

続けて延世大学のシン・ジュベクさんは、「東アジアの歴史問題と公論と共論」と題する発表を行った。彼はそこで、日本と中国・韓国の歴史認識の違いと領土問題について、国家間では解きがたい葛藤や対立が、市民レベルでいかに様々な努力が積み重ねられてきたかを話した。歴史にせよ領土にせよ、国家間の固定した問題として扱われることが多いが、実際には人や場所によってその中身は多様であり、個別の問題を共有する市民の間では、連帯と相互理解、問題解決のために具体的な成果が上がっているという。

現在ハーバード大学に留学中の橋本悟さんの「夢で見た現実――申采浩における民族・文学・歴史」では、朝鮮の独立運動家にして歴史家でもあった申采浩(シン・チェホ)の思想を、彼の文学作品、とくに歴史小説のほうから読み解くものであった。そこで問われるのは、近代西洋の普遍主義がアジアに進出してきたときに生まれた国家へのアイデンティティ、民族固有の特殊性がどのように希求され、形成されたかという問題である。橋本氏によれば、そのさいシン・チェホは、伝統的な中華中心の価値観・歴史観というもう一つの普遍性に依拠せざるをえなかったという。

最後に延世大学のキム・ハンさんが「主権の多層的不安と公共的主体の(不)可能性」と題する発表を行った。グローバル化した世界では、国家単位では解決できない様々な問題があるが、キム氏は主権が国家や国民に属するという近代的な前提を相対化しなければならないと述べ、日本と韓国においてそのために格闘した思想家として丸山真男と崔仁勲を取り上げる。二人はこの近代的主権と異なる仕方で戦いながら自国の状況に絶望しつつ、新たな公共的主体を企図した。そしてキム氏は、その可能性を固定した不変のものを真理と見なす視覚的主体ではなく、手探りで確かなものを模索するいわば「触覚的主体」なるもののうちに求める。

その後、成均館大学のファン・ホドクさんと私がコメンテーターを務め、全体でディスカッションを行った。ここでもやはり、核になることは、一日目と通底しているように思えた。それは固定した枠組みや全体性に回収しえないそのつど変化する生きた個別性とでも言えよう。こうした思考が日韓の違いを超えて同じところへ向かうのを見ていると、「大きな物語」の終焉は、先へ進めない袋小路でもなければ、すべてが壊れた廃墟でもなく、哲学のポテンシャルをあらゆるところ、すべての人に開く新たな始まりだったのではないかという気がする。しかもそこでは、たんにすべてが個別性と相対性への分裂していくわけではなく、それぞれの地点から何らかの一般性へと突破する道が通じているように思えるのだ。

今回、パク先生、キムさんの多大なる尽力ときめ細かい配慮により、とても心地よく充実した滞在となった。学問的に有意義な議論ができたことはもちろん、彼らの心遣いと友情に深謝する次第である。

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